「無能令嬢は不要だ!」→直後に能力値が全国公開された結果、王子の知力が“3”だった
卒業記念舞踏会の夜は、やけに星が多かった。
広間に満ちるシャンデリアの光と、紳士淑女の笑い声と、遠くから流れてくるワルツの旋律。
そのどれもが、わたしには少し眩しすぎる。
わたし――フィアナ・エルグレイスは、壁際でひとり、書類を精査していた。
舞踏会に書類を持ち込む令嬢など、この国に一人しかいないだろう。
だが仕方ない。
明日の朝一番に宰相府へ提出しなければならない予算案の草稿に、どうしても誤算が残っている気がしてならないのだ。
指先が数字を追うたびに、遠くで流れるワルツが一小節分、過ぎていく。
「フィアナ」
背後から声がした。
顔を上げなくても、誰の声かわかる。
わたしは静かに書類を折り畳んだ。
「クラウス殿下」
振り返れば、そこには黄金の髪をした王太子が立っていた。
容貌だけを切り取れば、絵画から抜け出してきたような美しさだ。
隣には、桃色のドレスをまとった女性が寄り添っている。
男爵令嬢のリリア・ベル。
愛らしい顔立ちと愛嬌で社交界を泳ぐ、わたしとは対極の存在だ。
クラウス殿下は、わざとらしいほど大きな声で言い放った。
「フィアナ! お前との婚約を破棄する!」
広間が、すっと静まりかえった。
音楽が止まる。
数百の視線がわたしに集まる。
わたしは眼鏡の縁を人差し指で押し上げ、ただ相手の顔を見つめた。
特に驚きはない。
薄々、感じていた。
いや、正確に言えば、半年ほど前から覚悟していた。
「お前のような無能で陰気な女に、王妃など務まらん!」
ああ、そこまで言いますか。
無能、陰気、地味。
どれも社交界でわたしに貼られた値札だ。
慣れすぎて、痛みより疲れの方が勝る。
「クラウス様ぁ……!」
リリア嬢が、うるんだ瞳で殿下の腕に寄り添う。
絵になる二人だ、と思う。
本当に、絵としては完璧だ。
わたしは反論しなかった。
言葉が出なかったわけではない。
ただ、もう十分に疲れていた。
五年間、この婚約のために何をしてきたか。
政務の勉強、外交の演習、魔法理論の研鑽、宮廷礼儀の反復。
すべては「王妃として恥ずかしくないように」という一念からだった。
その五年間が、今夜、一言で終わる。
(終わった……)
と、そう思った瞬間のことだ。
空が光った。
「――え?」
誰かが漏らした声が、広間に小さく響く。
天井のない吹き抜けの向こう、夜空に巨大な光の紋様が広がっていく。
魔法陣だ。
しかも、尋常ではない規模の。
全員が動きを止めた。
蝋燭の炎まで、揺れるのを忘れたように静止している気がする。
低く、遠く、どこか無機質な声が空間に満ちた。
『天秤の審判、起動』
その言葉を聞いた瞬間、わたしの背筋が凍りついた。
知っている。
魔法理論の上級文献で、一度だけ読んだことがある。
一方的な断罪が行われたとき、古代魔法が真実を暴く――伝説の審判魔法。
数百年、誰も発動を確認していない。
だからほとんどの者は存在自体を忘れていた。
なのに、今、動いた。
夜空に光の文字が並び始める。
わたしの名前が、まず浮かんだ。
フィアナ・エルグレイス
知力 :982
政治 :955
魔力 :901
経営 :970
外交 :930
沈黙が、広間を覆う。
「……え?」
誰かが、もう一度言った。
今度は少し違う響きで。
「化け物では……?」
別の声が続く。
わたしは自分の頬が熱くなるのを感じながら、視線を落とした。
やめてほしい。
本当に、やめてほしい。
こういう、人前での晒し上げは、わたしの最も苦手とするものだ。
数値が良かろうと悪かろうと、そういう問題ではない。
穴があったら入りたい気持ちでいっぱいになる。
「な、何かの間違いだ! そんな数値があるはずがない!」
クラウス殿下が声を張り上げた。
焦りが滲んでいる。
わたしは心の中で、少しだけ申し訳なく思った。
本当に少しだけ。
次の瞬間、殿下の名前が空に浮かんだ。
クラウス・ヴァルディア
知力 :3
統率 :12
判断力:5
忍耐 :1
完全な、沈黙だった。
数を数えてしまった。
三秒。
五秒。
十秒。
誰も、何も言えない。
言葉というものが、この場から全部蒸発してしまったかのようだった。
「……さん?」
ようやく絞り出したのは、どこかの侯爵令息だ。
「知力が……三……? 三点……?」
確認するような声に、広間がじわじわとざわめき始める。
わたしも驚いている。
三は、さすがに低すぎる。
王太子として業務をこなしてきた人間の数値として、明らかにおかしい。
……いや、待て。
「こなしてきた」と思っていたのは、誰だったのか。
わたしの中で、何かが、ゆっくりと繋がり始めた。
続けて、空に新しい文字が現れる。
特記事項
書類処理成功率:2%
責任転嫁率 :99%
広間から、大きなどよめきが上がった。
「なんだその数値!?」
誰かが叫んだ声が、わたしの心情を代弁してくれた気がする。
わたしの内心は、もっと悲鳴に近い。
(やめてぇぇぇ……!! なんで全部出てくるの……!!)
恥ずかしいというより、もはや痛い。
自分のことではないのに、なぜかわたしが顔を覆いたくなる。
いや、待ってほしい。
書類処理成功率、二パーセント。
わたし、毎晩あの書類を直していたのだが。
それは……つまり……。
『王太子業務代行者』
フィアナ・エルグレイス :98%
クラウス・ヴァルディア:2%
はっきりと、空に刻まれた。
広間が再び静まり返る。
今度の沈黙は、先ほどより重い。
「ほぼ事実ですね」
静かに、低く、そう言ったのは宰相閣下だった。
年配のその方は、眼鏡を押し上げながら淡々と続ける。
「ここ三年の政務書類、押印の九割以上がフィアナ嬢の代筆でございます。
気づいてはおりましたが……数値で出るとは」
クラウス殿下の顔が、真っ青になった。
次に赤くなった。
そして震えている。
美しい顔が、みるみる形容しがたい表情に変わっていく。
「そ、そんなはず……! 私は毎日、ちゃんと……!」
宰相閣下は答えなかった。
答える必要がないのだろう。
数値がすべてを語っている。
わたしはといえば、もはや何か遠い世界の出来事を見ているような心境だ。
(ああ、そうか)
五年間、ずっと不思議だった。
なぜわたしがここまで仕事をしているのに、誰も評価してくれないのか。
なぜ「陰気で地味な令嬢」という扱いのままなのか。
今、やっとわかった気がする。
わたしは王太子の「仕事」をしていた。
それが当たり前になっていたから、誰も気にしなかったのだ。
(五年間、本当にご苦労様でした、わたし)
少し、笑いたくなった。
空はまだ終わる気配がない。
次の文字が、降り注ぐように現れた。
努力適性:0
「0ってなんだ!?」
殿下が空に向かって叫んだ。
天に向かって怒鳴るという、それ自体がどこかコントのような光景だ。
周囲の貴族たちは口を手で覆い、笑いを必死に堪えているのがわかる。
数人は諦めていた。
くく、という抑えた笑い声が、わたしの耳に届く。
(殿下、天に向かって文句を言っても、審判は撤回しませんよ)
心の中でそう思ったが、口には出さなかった。
今さら出す必要もない。
そして容赦のない光の文字は、次の対象へと移っていった。
リリア・ベル
愛嬌 :95
演技 :88
計算 :4
特記事項
雰囲気で会話しています
広間がまた揺れた。
先ほどとは少し違う、戸惑いと驚きの混じった波紋が広がっていく。
リリア嬢は、ぱちぱちと瞬きをした。
その表情は、意味を理解していないのか、あるいは理解した上で平静を装っているのか、わたしにはよく読めない。
演技が八十八という数値なら、それも当然かもしれない。
「雰囲気で会話しています」という特記事項は、ある意味で正直すぎる評価だ。
思い返せば、リリア嬢とまともに議論が噛み合ったことは一度もなかった。
ふわりとした言葉で場を和ませ、気づけば話題が変わっている。
あれは才能だったのかもしれない。
計算の数値は壊滅的だが、人心掌握という別の能力が確かに存在する。
わたしにはないものだ。
素直に、そう思う。
感心していたら、また空が光った。
王国運営シミュレーション
フィアナが王妃となった場合
国家繁栄率 :92%
リリアが王妃となった場合
国家崩壊率 :87%
今度の沈黙は、質が違った。
広間の空気が、ぴんと張り詰める。
壁際に控えていた国王陛下の顔色が、蒼白から灰白へと変わっていくのが見えた。
王族の方々が一様に、声も出ないまま空を見上げている。
わたしも見上げている。
国家崩壊率、八十七パーセント。
かなり具体的な数値だ。
(天秤の審判というのは、ずいぶん辛辣な魔法だ)
と、他人事のように思った。
「お前……何を、捨てようとしていた?」
低く、静かな声だった。
宰相閣下が、クラウス殿下のほうへ歩みを進める。
怒鳴っているわけではない。
だからこそ、その言葉は広間の隅々まで届いた。
殿下は口を開いたが、何も出てこない。
当然かもしれない。
答えなど、空がすでに出してしまっているのだから。
「……」
どこからも、声が上がらない。
シャンデリアの光だけが、変わらず広間を照らしている。
そのとき、静かな足音が近づいてきた。
ずっと、柱の陰に立っていた人物だ。
濃紺の軍服を着た、黒髪の青年。
クラウス殿下より三つ下の、第三王子。
レオン・ヴァルディア殿下。
普段は目立たない方だ。
王族の集まりでも、ほとんど発言しない。
ただ、いつも静かに周囲を見ている。
その眼差しが今夜、こちらへ向いていることに、わたしは少し前から気づいていた。
「兄上」
レオン殿下の声は、穏やかだった。
穏やかだが、透き通っていて、よく聞こえた。
「見る目がありませんね」
たったそれだけだ。
それだけなのに、広間の空気がまた動いた。
クラウス殿下が弟君を睨みつける。
「レオン……!」
「事実を申し上げています」
レオン殿下は表情を変えない。
わたしのほうへ、ゆっくりと視線を向けた。
そしてわずかに、頭を下げた。
「ご無礼をお詫びします、フィアナ嬢」
どう返せばいいか、一瞬わからなかった。
こんな夜に、こんな形で礼を取られることになるとは思ってもいなかった。
わたしは眼鏡を押し上げながら、かろうじて答えた。
「……いいえ、殿下」
声が少し掠れた。
疲れているせいだと思う。
たぶん。
クラウス殿下が、弾かれたように大きな声を上げた。
「待て! 撤回だ! 婚約破棄を撤回する!!」
広間が、どよめく。
わたしは殿下の顔を見た。
焦りと、羞恥と、取り繕おうとする意志が、入り混じっている。
なるほど、と思う。
数値を見た今なら、よくわかる。
この方は、失ってから価値に気づく。
ただ、もう遅い。
空が、最後の文字を刻んだ。
『一度下された審判は覆りません』
「う、うわぁぁぁ!!」
殿下の叫びが広間に響いた。
誰も笑わなかった。
笑えない空気だった。
でも、笑いたい人間は確実に存在したと思う。
わたしも、その一人だ。
ただ、今夜はさすがに笑う気にもなれない。
ただ、ただ、疲れた、という気持ちだけが残っている。
眼鏡を外して、額に手を当てた。
長い夜だ。
その夜から、数ヶ月が過ぎた。
王都の朝は、今日も早い。
石畳の通りに人影が増え始める頃、わたしはいつものようにカフェのテーブルに着いていた。
王城からほど近い、こじんまりした店だ。
コーヒーと、今朝届いたばかりの新聞。
それがわたしの朝の習慣になって、もう三ヶ月になる。
今の肩書きは、第三王子レオン殿下の政務補佐官だ。
あの夜の後、国王陛下から直々に打診があった。
辞退しようとしたのだが、宰相閣下に「逃げるな」と言われた。
一言だった。
それだけで逃げられなくなった。
宰相閣下の言葉は、なぜかいつもそういう効き方をする。
レオン殿下は、仕事がしやすい方だ。
必要なことを端的に伝えると、必要なだけ考えて、適切な判断を下す。
指示は明確で、無理な押しつけもない。
書類の決裁成功率も、おそらく九十パーセントを超えている。
(比較するのも申し訳ないが)
新聞を開くと、一面の見出しが目に入った。
『元王太子殿下、本日の知力測定試験でも3点を記録』
思わず、吹き出した。
コーヒーが危なかった。
口を手で覆ったが、声が漏れた。
静かな朝のカフェに、かなり不格好な笑い声が広がる。
「珍しいですね」
向かいの席から、穏やかな声がした。
顔を上げると、レオン殿下がこちらを見ている。
今朝もいつものように、さりげなく同席している方だ。
「何が、ですか」
「あなたが笑うのが」
少し間があった。
わたしは新聞をテーブルに置いて、コーヒーカップを両手で包んだ。
「……少しだけ、スッキリしました」
殿下は何も言わなかった。
ただ、口元が僅かに緩んだ。
窓の外では、王都の朝が静かに動いている。
石畳を馬車が渡り、花売りの声が通り過ぎていく。
五年分の疲れが、ゆっくりと、どこかへ溶けていく気がした。
眼鏡の奥で、もう一度だけ、わたしは笑った。
終幕




