優しさの匂い
「やっぱりさ、俺って優しいからさ」
カフェのテラス席で、男が笑っていた。
向かいの女の子は、うんうん、と何度も頷いている。
その頷き方が、どこか仕事みたいだった。
彼は、困っている人を放っておけない性格らしい。
後輩の相談に夜中まで乗るらしい。
元カノにも最後まで優しかったらしい。
「自分で言うのもなんだけど、優しいんだよね」
その言葉を聞いたとき、
私はコーヒーの湯気の向こうで、小さく笑ってしまった。
優しさって、自分で言うものだったっけ。
そう思いながら、私はカップを持ち上げる。
ぬるくなった液体は、少し苦い。
私の知っている優しい人は、
自分が優しいかどうかなんて考えていなかった。
中学から大学三年まで、ずっと隣にいたあの子は、
自分のことを「性格悪いよ」と笑っていた。
人の悪口も言ったし、機嫌が悪い日はちゃんと不機嫌だった。
でも、誰かが本当に沈んでいるときだけは、何も言わずに隣に座った。
慰めない。
正論も言わない。
ただ、隣にいる。
あれは優しさだったのかと、今も考える。
「貴方って優しいよね」
別の席から、声が聞こえる。
「そんなことないよ」と、女の子が首を振る。
でもその目は、ほんの少しだけ期待している。
“もう一回言ってほしい”
その沈黙が、透けて見える。
私は急に、胸の奥がざらついた。
優しさが、取引みたいに見える瞬間がある。
与えたから、返してほしい。
認めてほしい。
証明してほしい。
あの子は素直で、きっとそれが優しさだった。
私がどうしようもなく醜いことを言った日も、
誰かを傷つけた日も、
彼女は「最低だね」と言いながら、
ちゃんと隣にいてくれた。
駅前のカフェで、男はまだ笑っている。
「俺、ほんと優しいからさ」
その声が、遠くなる。
私はスマホの画面を消して、立ち上がる。
あの子が生きていたら、
たぶん、こう言う。
「優しいって、自分で決めるもんじゃないでしょ」
そして少し笑って、
「でも、あんたが優しいって言うなら、そうなんじゃない?」
って。
肯定でも否定でもない、あの温度。
本当に優しい人って、
優しさを武器にしない。
盾にも、名刺にも、免罪符にも、しない。
ただ、その人の呼吸みたいに、そこにある。
優しいねと言われ慣れている人が
「そうでしょ」と笑えるのは、
たぶん、優しさが“特別なもの”じゃないからだ。
水みたいに、
空気みたいに、
ただ、そこにある。
帰り道、夜風が冷たい。
私はふと、自分のことを考える。
私は、優しいだろうか。
答えは出ない。
でも、もしあの子がどこかで見ているなら、
きっとこう言う。
「考えてる時点で、まあ悪くないんじゃない?」
そう言って、
隣に座る。
綺麗にはにかみながら。




