ep.2 婚約破棄の令嬢が秘密の魔物と契約し、絶望を笑いに変える。修道院行きの朝、聖女の如き覚醒で運命に挑む異色の復讐劇。
みちこさん(Cwave 第一・第三日曜 21時半から22時)のお題から生まれた
《おつまみモンスター》シリーズ
自室に戻った瞬間、アンナは重たいドアを乱暴に閉め、鍵をかけた。
「やってられないわよ!」
華美な装飾が施されたドレスを脱ぎ捨て、コルセットの紐を緩めると、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
クローゼットの奥の隠し扉――本来は緊急脱出用だが、今では彼女の秘密の貯蔵庫だ――から、安ワインのボトルを取り出す。さらにドレスのポケットから、厨房でくすねてきた干し肉とチーズの包みを取り出した。
「あーあ、私の青春。あんなバカのために費やした時間、返してほしいわ」
コルクを抜く音だけが、虚しい部屋に響く。
王太子妃教育、外交儀礼、経済学。あの脳内お花畑王子の尻拭いに費やした十年間。それがこの一本の安酒以下の価値しかなかったとは。
グラスに注ぐのももどかしく、アンナはボトルから直接ワインをあおった。安物特有の荒々しい酸味が、焼けるような喉を通り過ぎていく。
「ぷはっ! ……あー、まずい。けど、今はこれが一番効くわ」
干し肉を齧り、また一口。
明日には修道院行きだ。荷造り? 知るものか。向こうで必要な質素な服なんて持っていないし、この身一つで行ってやる。せいぜい、私が管理していた領地経営の帳簿がなくなって困ればいい。
「ざまぁみろってのよ……」
勢いよくボトルをテーブルに置き、ドン! と大きな音を立てた、その瞬間だった。
部屋の隅、蝋燭の光が届かない闇の影が、ぼよん、と揺れた。
「……え?」
酔いが一瞬で覚める。
見間違いかと思い目を凝らすと、影は再び、今度はもっと大きく、ねっとりと蠢いた。そして床から染み出すように、漆黒の何か――不定形の黒いスライムのようなものが隆起し、巨大な一つ目を開いたのである。
『……呼びましたか、我が盟約者よ』
地の底から響くような重低音が、アンナの鼓膜を震わせた。
アンナは干し肉を咥えたまま、瞬きをした。
「……呼んでないけど」
『なんと。あまりに強い負の感情……憤怒、虚無、そして安ワインへの失望が感知されたため、てっきり召喚の儀かと』
「最後の一つが一番失礼ね」
どうやら、ストレスとアルコールで、うっかり国を滅ぼしかねない何かを呼び出してしまったらしい。
だが、アンナは動じなかった。王太子の婚約破棄に比べれば、部屋に悪魔が出るくらい、どうということはない。
彼女はもう一口ワインをあおり、ニヤリと笑った。
「ま、いいわ。飲み相手がいなくて寂しかったのよ。あんた、チーズ食べる?」
黒い影は一つ目をパチクリとさせ、心なしか嬉しそうに、ぼよんと震えた。
影から染み出すように現れたのは、直径50センチほどの灰色の毛玉。
目はなく、口もない。ただのモップの塊のような物体。
「……幻覚? ストレス?」
アンナが呆然としていると、毛玉はスルスルとテーブルに近づき、アンナの周りに漂う「黒いもや(負の感情)」を掃除機のような吸引音と共に吸い込み始めた。
『ズゾゾゾゾ……』
「えっ、ちょっと、何?」
毛玉は黒いもやを吸い切ると、ポン!と少し膨らみ、満足げに震える。
そして、アンナの脳内に直接、重低音の荘厳な声が響いた。
**『汝、嘆くことなかれ。我は負を喰らい、浄土を見せる者なり』**
「喋った!?」
毛玉はアンナの額に、ふさふさの体を押し付ける。
**『その怒り、哀れみへと昇華させよう。……見よ、これが来週の真実だ』**
そうして見せられたのが――冒頭の「ハゲ散らかしパレード」の光景だったのだ。
**【第2章:聖女のような修道院行き】**
翌朝、冷たい空気を震わせるように、衛兵が乱暴にドアを叩いた。
ドンドンドンッ!
「アンナ! 出てこい! 修道院へ連行する!」
厚い樫の木の扉が軋む音は、没落令嬢にとって絶望のファンファーレとなるはずだった。通常ならば、扉の向こうからは抵抗する叫び声か、あるいは一晩中泣き腫らしたあとのすすり泣きが聞こえてくるのが定石だ。
しかし、ガチャリと扉が開いた瞬間、衛兵たちの強張った表情は凍りついた。
そこにいたのは、まるで早朝の礼拝に向かう聖女のように、穏やかで清々しい笑顔を浮かべたアンナだったからだ。窓から差し込む朝日を背負い、どこか後光が差しているようにすら見える。
「皆様、朝早くからご苦労さまです」
鈴を転がすような優しい声色。
怒鳴り込もうとしていた衛兵のひとりが、思わずたじろいだ。
「えっ、あ、はい。……い、いや、罪人として連行するのだぞ!」
「ええ、存じておりますわ。さあ、参りましょう。俗世の垢を落とし、静寂の中で祈りを捧げるのです……」
アンナは胸の前で手を組み、うっとりと遠くを見つめる。その瞳の奥には、神への信仰心ではなく、確信めいた愉悦が揺らめいていた。
(ふふ、俗世の垢どころか、来週にはジェラルド様の頭部がツルリと落ちるのですもの。それを思えば、どんな苦行も喜劇の序章に過ぎないわ)
毒気を抜かれた衛兵たちは、手錠をかけるのも忘れ、まるで貴婦人をエスコートするかのように彼女を馬車へと誘導した。
ストーリー音声化踏まえ新たに書き換えました。




