2-2:忘れられた管理棟と『ユニット・ゼロ』
エレボスの大地は、アストレアの想像を遥かに超えて過酷だった。空は灰色の分厚い雲に覆われ、太陽の光はほとんど届かない。時折、金属片を含んだ鋭い風が吹き荒れ、防護服の表面を叩いて不快な音を立てた。
地表は、文字通り「ゴミ」で埋め尽くされていた。錆びつき、原型を留めない宇宙船の装甲版。ねじ切れた巨大なケーブルの束。用途不明の機械部品の残骸。それらが、何百年、あるいは何千年もの歳月をかけて積み重なり、新たな地形を形成していた。
「お嬢様、お足元を…! そちらは地盤が不安定です!」
先行するセバスチャンが、瓦礫をそのサイバネティクス化された腕で押し退けながら、道を作る。彼の体重は、その機械の体のせいで百キロを優に超えるが、そのパワーはこうした障害物を排除するのに役立った。彼は全身が旧式の軍用サイバネティクスで補強されており、この汚染環境でも問題なく活動できた。一方、アストレアは、薄い防護服一枚だ。
(大気の汚染レベルは中程度。フィルターの寿命はあと71時間20分。移動速度を考えると、往復と探索でかなりの時間を消費するわね。急がないと)
インターフェイスに表示される自らのステータスと、クエストの制限時間を確認し、アストレアは冷静にタイムマネジメントを行っていた。
彼女の視界には、常に補助線が表示されていた。【推奨ルート】が淡い青色で瓦礫の上に示され、【危険:構造不安定】のエリアが赤く警告を発している。
「セバスチャン、右へ三歩。そこ、古いミサイルの弾頭が埋まっているわ。誘爆の可能性がある」
「ひっ…! か、かしこまりました!」
「それと、その先の鉄骨、あなたの体重では崩れるわ。左のコンテナの上を迂回して」
「は、はあ…」
セバスチャンには見えない情報が、アストレアにはすべて見えていた。彼女は、まるで攻略サイトを見ながら進むかのように、的確な指示を飛ばしていく。老執事の驚きは、やがて畏敬の念に変わりつつあった。このお嬢様は、いったい何者なのだ、と。
三キロの道のりは、平坦な道とは訳が違った。瓦礫の丘を登り、崩れた高層ビルの残骸の隙間を縫って進む。およそ一時間後、彼らはようやく目的地に到着した。
「…これは」
セバスチャンが、思わず息をのむ。目の前にあったのは、小山のようなジャンクの山に半ば埋もれた、巨大なコンクリート製の建造物だった。その威容は、周囲の瓦礫とは明らかに異質で、強固な意志を持ってそこに存在し続けているかのようだった。
かろうじて読み取れるプレートには、風化しつつも、帝国初期の文字でこう刻まれている。
【銀河帝国 辺境管理局 エレボス第3支部】
「ここが…管理棟。しかし、お嬢様、ご覧ください」
セバスチャンが指差す先、メインゲートと思われる場所は、大戦時のものか、巨大な巡洋艦の竜骨らしき残骸が倒れかかり、数万トンの質量で入り口を完全に塞いでいた。
「…完全に封鎖されております。これでは、中に入るのは不可能ですな。お嬢様、ここは諦めて別の場所を探すしか…」
「セバスチャン」
アストレアは、彼の絶望的な進言を、冷ややかに遮った。
「あなたのその右腕の最大トルクは、何ニュートンメートル?」
「…は?」
あまりに突拍子のない質問に、セバスチャンは素っ頓狂な声を上げた。
「いいから答えなさい。あなたのサイバネティクスの性能を報告して」
「はっ、失礼いたしました。型は古いですが、軍事用の『タイタン・アーム Mk-III』です。通常出力は8,000Nmですが、リミッターを解除すれば、瞬間最大で12,000ニュートンメートルまでなら…ただし、反動で私の肩関節が持たない可能性も…」
「十分すぎるわ」
アストレアは、目の前の巨大な残骸を、まるで設計図でも見るかのように冷静に分析していた。
「あの残骸、見ての通り片側(A点)は地面にめり込んでいるわ。もう片方(B点)は、あのコンクリートの破片群に乗っているだけで、不安定な状態よ」
彼女の視界では、インターフェイスが自動的に物理演算の補助線を描画していた。残骸の重心、支点となるコンクリート片の位置、そして力点として最適なポイント。
「B点から約3メートル離れた、あの隙間(C点)。あそこが力点よ。A点を支点として、テコの原理が働くわ。あなたの12,000Nmの力でC点を押し上げれば、B点は少なくとも50センチは持ち上がるはず。人間一人が滑り込むには十分な隙間ができる計算よ」
「む、無茶苦麗な…! あの質量は、推定3万トンは下りませんぞ! 私の腕力で持ち上がるなど…」
「計算上、可能よ。必要なのは、あの巨体をすべて持ち上げることじゃない。不安定なバランスを『傾ける』だけ。必要な力は、あなたの最大出力で足りるわ。問題は、あなたがその一瞬の負荷に耐えられるかどうかだけ」
アストレアの青い瞳が、バイザー越しにセバスチャンを射抜く。
「…もはや、何も申し上げますまい」
セバスチャンは、深く溜息をつくと、覚悟を決めた顔で頷いた。この主人は、狂っているか、あるいは天才か。どちらにせよ、自分にはもう、この指示に従う以外の選択肢はない。
彼は、瓦礫の隙間に慎重に足場を確保すると、アストレアが指示したC点、鉄骨のわずかな隙間に、サイバネティクス化された右腕の指をねじ込んだ。
「…行きますぞ、お嬢様!」
グォン、と重いアクチュエーターの駆動音が、灰色の空に響き渡る。セバスチャンの右腕が、目に見えて震え始めた。
「ンンンヌゥゥゥ…!」
彼の顔が苦痛に歪む。機械の腕と、生身の体が接続されている肩口から、バチバチと青白い火花が散った。
ミシミシ、と金属が軋む、耳障りな音が響き渡る。
数万トンの質量を誇る戦艦の竜骨が、ゆっくりと、しかし確実に傾いでいく。
「今です! お嬢様! 10秒と持ちませんぞ!」
セバスチャンの叫び声に、アストレアは待ってましたとばかりに、彼の足元をすり抜け、開いた隙間へと滑り込んだ。彼女が通り抜けたのを確認すると、セバスチャンは最後の力を振り絞って腕を引き抜き、自らも隙間へと転がり込む。
その直後、轟音と共に残骸は再び元の位置に戻り、入り口は完全に閉ざされた。
【クエスト進行:管理棟に到達】
暗闇の中、アストレアのインターフェイスだけが、淡い光を放っていた。
「…よくやったわ、セバスチャン」
「はっ…お褒めにあずかり…光栄の至り…」
暗闇の中で荒い息をつく老執事に、アストレアはそっと回復薬(チュートリアル開始時に支給されていた初期アイテム)のアイコンをタップし、現実の彼に手渡した。
「セバスチャン、ライトを」
「御意に」
セバスチャンが額の光学ライトを点灯させると、数百年、あるいはそれ以上の間、光を浴びていなかったコントロールルームの全貌が明らかになった。
埃が雪のように積もり、壁一面に並んだコンソールは、すべて機能を停止している。そして、床には、この施設が放棄された最後の瞬間を示すかのように、風化した白骨がいくつか転がっていた。帝国の制服の残骸をまとったまま。
「…どうやら、帝国の公式記録よりも、遥か昔に放棄されていたようですね…彼らも、ここで見捨てられたのでしょうか」
セバスチャンの声が、空虚な空間に響く。
アストレアは、そんな感傷には一切興味を示さなかった。
「感傷に浸っている暇はないわ。制限時間は刻一刻と過ぎているのよ」
彼女は、前世の記憶を頼りに、この手の施設で最も重要な部屋、AIのメインフレームが設置されているであろうサーバー室へと、迷いなく進んでいく。
彼女のインターフェイスが、壁の向こうに微弱なエネルギー反応を感知していた。
「ここね」
分厚い隔壁の前に立ち、手動開閉ハンドルに手をかけるが、錆びついて動かない。
「セバスチャン」
「…承知いたしました」
もはや、彼の役割は「ドアオープナー」と化していたが、文句一つ言わずに、サイバネティクスの腕力で隔壁をこじ開けた。
その奥にあったのは、巨大なサーバーラック群と、部屋の中央に鎮座する、球形のメインフレームだった。
「『インターフェイス』、この施設のマスターユニットはこれね?」
彼女が意識の中で問いかけると、インターフェイスは目の前の球体をハイライトした。
【惑星管理AI『ユニット・ゼロ』メインフレーム(オフライン)】
【状態:スリープモード(最低維持電力)】
【推奨:補助電源ユニットの起動、及びマスター認証】
「スリープモード…生きているわ」
アストレアは、メインコンソールへと向かう。もちろん、それは沈黙したままだ。
「セバスチャン、またあなたの力が必要よ。あの壁の緊急電源パネルを開けて」
アストレアが指差した先には、緊急時用の電源供給パネルがあった。セバスチャンがその分厚い金属カバーを力ずくで引きはがすと、中には複雑なケーブルソケットが現れた。
「ここも電力が完全に死んでいますな…」
「分かっているわ。あなたの内部ジェネレーターから、あのメインソケットに直接電力を供給できる?」
「お嬢様、それは無謀です! 私の規格と合うかどうか…それに、先ほどの無理で私のジェネレーターは不安定になっています。下手をすれば、過負荷で私自身が爆発しますぞ!」
老執事が、さすがに狼狽の声を上げる。
「大丈夫よ」
アストレアは、ソケットの形状と、セバスチャンの腕から覗くインターフェイスの規格を瞬時に照合していた。インターフェイスが、両方の規格データをスキャンし、互換性レポートを提示する。
「規格は『タイプG-17』。あなたの腕の緊急出力ポートと完全に互換性があるわ。AIをスリープから復帰させるだけなら、大電力は不要。30秒間、安定した電力を供給してくれれば、AIが起動するはずよ。その間に私がマスター認証を行う」
「…お嬢様は、いったい何者なのですか?」
セバスチャンの問いは、純粋な疑問だった。
「さあ? ただの『ゲーマー』よ」
アストレアは、そう言って微笑んだ。
セバスチャンは、もはや諦めたように溜息をつくと、自らの腕の装甲を展開し、内部ケーブルを引き出すと、それを補助電源ソケットに接続した。
「…もし、私が爆発四散しましたら、お嬢様は一人で生き延びてくださいまし」
「無駄死にはさせないわ。早くしてちょうだい」
「御意に! 電力供給、開始します!」
ブゥゥゥン…という低い唸りと共に、セバスチャンの体から再び火花が散る。
同時に、死んでいたはずのコントロールルームの照明が、弱々しく点滅を始めた。埃っぽい空気が、ファンの回転によってゆっくりと動き出す。
コンソールが、一つ、また一つと緑色の光を取り戻していく。
そして、部屋の中央に設置されたホログラムプロジェクターが起動し、ノイズ混じりの淡い光を放った。
光は、ゆっくりと単純な幾何学模様の形を取る。
『……システム、サイキドウ…』
『……メモリ・スキャン…オールクリア…』
『……カコ800ネンブンノ、ログデータ、ケッソン…』
『……惑星カンリAI…ユニット・ゼロ…キドウシマス…』
ノイズが消え、安定した、性別のない合成音声が響き渡った。
『再起動ヲ完了。マスターノ登録ヲ待機シマス。……スキャンチュウ…』
AIは、部屋の中にいる二人の存在を認識したようだった。
『…警告。ミトウロクノ生体反応ヲカンチ。人口、ゼロ。インフラレベル、ゼロ。……当施設ハ、長期間ノ放棄状態ニアリマシタ。生存者ガイルノデスカ?』
アストレアは、メインコンソールの前に立つと、はっきりと宣言した。
「ええ、いるわ。私がアストレア・フォン・ヒンメル。本日付で、皇帝陛下よりこの惑星エレボスの全権を委任された、正規領主よ」
『リョウシュ…? 帝国法ニ基づク照会ヲ実行…該当アリ。アストレア・フォン・ヒンメル辺境伯(名目上)ノ入植ヲ確認。…随行員1名(セバスチャン、サイボーグ)ヲ確認』
「話が早くて助かるわ。これより、私の『惑星開発インターフェイス』と、あなたのマスターデータを同期させる。拒否権はないわよ」
アストレアがコンソールを操作すると、彼女のインターフェイスとAIのシステムがリンクを開始する。
『……リョウカイ。上位権限者ノ命令ヲ受諾シマス。データ・シンクロナイゼーションヲ開始』
アストレアの目の前で、インターフェイスのウィンドウが目まぐるしく更新されていく。
【同期中…旧大戦前ノ惑星データをダウンロード…】
【失ワレタ地質データ、資源マップ、生態系データヲ更新シマシタ】
【惑星管理AI『ユニット・ゼロ』があなたの管理下に入りました】
【サブクエスト達成:『惑星管理AIの再起動』】
【報酬:惑星詳細データの開示、AIによる建設サポート、初期研究ポイントx100 を獲得しました】
アストレアの脳内に、エレボスの「真の姿」が流れ込んできた。この星は、ただのゴミ捨て場ではなかった。大戦前は、帝国の重要な資源・食糧供給基地の一つであり、緑豊かな惑星だったのだ。軌道上の施設が破壊され、有毒なデブリが降り注いだことで、そのすべてが忘れ去られていたに過ぎない。
「…そう、これよ。これこそが、私の『領地』の本当の姿よ」
アストレアは、膨大な情報を前にして、歓喜に打ち震えていた。彼女のマップには、未発見の資源マークが大量に表示され始めていた。




