第2章:起動 2-1:チュートリアルと最初の『探索』
目の前に浮かび上がる、淡い光を放つ半透明のウィンドウ。それは、前世で彼女が焦がれ、愛し、人生を捧げたシミュレーションゲームのUIそのものだった。
【惑星開発インターフェイス、起動】
【領主認証:アストレア・フォン・ヒンメル…完了】
【チュートリアルを開始しますか? Y/N】
アストレアは、その「Y」の文字を、躊躇なく意識で選択した。指を動かす必要すらない。思考するだけで、インターフェイスは彼女の命令を正確に読み取り、実行していく。この星の薄汚れた大気を吸い込んだ瞬間から、彼女の脳は帝都にいた頃の数倍もクリアに冴え渡っていた。
「お嬢様…? 何を…何をご覧になっておいでです…?」
背後で、老執事セバスチャンの狼狽えた声が響く。彼は、アストレアが何もない空間を凝視し始めたことに、本気で主人の精神状態を案じていた。
「まさか、この星の汚染大気による幻覚症状では…! おお、なんということだ、このような場所に長居は無用です、早く船内に…!」
「心配ないわ、セバスチャン」
アストレアは、取り乱す老執事を振り返ることなく、淡々と答えた。彼女の意識は、すでに「公爵令嬢アストレア」から、「プレイヤー・ミキ」のものへと完全に切り替わっている。
「幻覚ではないわよ。むしろ、私の頭は帝都にいた頃より冴えている。これは…そう、『祝福』のようなものよ」
「しゅくふく…でございますか…?」
セバスチャンには、主人が見ているものが何も見えていない。だが、その声に宿る、奇妙なまでの力強さと喜悦に、彼は戸惑うしかなかった。
【チュートリアルを開始します。当インターフェイスは、領主の効率的な惑星開発を支援するものです】
ウィンドウが次々と展開していく。目の前の荒涼とした赤茶けた大地、どこまでも続くジャンクの山々。その絶望的な風景に、淡い光のグリッド線が重なり、地形データがオーバーレイ表示されていく。
彼女の視界の右下には、レーダーマップが生成され、左下には現在の領地ステータスが表示された。
【惑星基本情報:エレボス】
【人口:2名(アストレア・フォン・ヒンメル, セバスチャン)】
【インフラレベル:0(電力供給なし、水供給なし、大気浄化なし)】
【農業レベル:0(食糧生産能力なし)】
【工業レベル:0(基本工作能力なし)】
【防衛レベル:0(惑星防衛システムなし)】
【領民忠誠度:測定不能(対象不足)】
「…ふふっ」
思わず、アストレアの口から乾いた笑いがこぼれた。
「人口、たったの二人。インフラ、オールゼロ。素晴らしいじゃない。これ以上ないほどの『初期マップ』だわ」
絶望的な数値の羅列。それは、彼女にとって、これから無限にパラメータを伸ばしていけるという、「やり込み要素」の宝庫にしか見えなかった。
インターフェイスの説明は続く。
【基本機能①:マップ】
惑星全体の地形、既知の施設、スキャン済みの資源分布を表示します。
【基本機能②:クエスト】
領地発展に必要なタスクを提示し、達成時には報酬が付与されます。
【基本機能③:建設】
必要なリソース(資材、エネルギー、労働力)を消費し、施設を建設します。
【基本機能④:技術】
研究ポイントを消費し、新たな技術をアンロックします。現在はすべてロックされています。
(なるほど。基本的な4Xゲーム…探索、拡張、開発、防衛…そのすべてが網羅されている。完璧よ)
アストレアは、内心で喝采を送っていた。帝都での退屈な日々、決められた作法と政略の中で「完璧な令嬢」を演じ続けるロールプレイングゲームは、もう終わったのだ。今、目の前にあるのは、彼女が最も得意とする、ゼロからリソースを管理し、最適化を突き詰め、領地を拡大していく、純粋なシミュレーションゲームだった。
その時、彼女の視界に、新たな通知が鋭い音と共にポップアップした。
【メインクエスト発生:『拠点の確保』】
内容:生存可能な安全な拠点を確立し、基本インフラ(電力・水)を復旧させてください。
制限時間:71時間59分
失敗条件:制限時間内にインフラを確保できず、プレイヤーの生命維持が不可能になった場合。
報酬:初期リソースパッケージ(汎用資材x100, 保存食糧x50)、基本建設技術【簡易居住区】【小型発電機】のアンロック
(タイムリミット付き…!)
アストレアの表情が引き締まる。視界の端に、自らのステータスウィンドウが点滅していた。
【プレイヤー状態:アストレア・フォン・ヒンメル】
【状態:正常】
【デバフ:【低レベル汚染環境】(環境防護服により一時的に無効化)】
【防護服フィルター耐久値:残り72時間】
「…なるほど。このフィルターが切れる前に、空気清浄機能付きの拠点を作れ、というわけね。ゲームオーバーの条件まで設定済みとは、徹底しているわ」
彼女は、絶望的な状況を前にして、むしろその「ゲームバランス」の絶妙さに感心していた。
さらに、もう一つの通知が続く。
【サブクエスト発生:『惑星管理AIの再起動』】
内容:この星系に存在する旧管理施設を発見し、惑星管理AIを再起動してください。
報酬:惑星詳細データの開示、AIによる建設サポート、初期研究ポイントx100
(メインクエスト達成のための、誘導サブクエストね。まずはAIを再起動して、惑星の詳細データと建設サポートを得るのがセオリーだわ)
アストレアの思考は、前世のゲーマー「ミキ」として、最適解を導き出すためにフル回転していた。
「セバスチャン」
彼女は、いまだに主人の身を案じている老執事に、きっぱりとした口調で命じた。
「このオンボロ船の簡易スキャナーはまだ生きているかしら?」
「はっ? あ、はい。旧式ですが、大まかな地形スキャン程度でしたら…帝都の船に比べれば、ゴミ同然ですが…」
突然、実務的な口調になった主人に、セバスチャンは戸惑いながらも即座に答える。
「それで十分よ。この着陸地点から半径10キロメートル以内で、最も大きな『人工物』の反応を探して。特に、大規模なエネルギー反応、あるいは、それを遮蔽している可能性のある地下構造物を優先して」
彼女は、インターフェイスに表示されたおぼろげな地形マップ(未探索領域)と、リアルのスキャナー情報を照合し、サブクエストの目的地を特定するつもりだった。
「か、かしこまりました」
セバスチャンは、主人の変化に戸惑いつつも、その命令の的確さに、長年仕えてきた執事としての本能が反応した。彼は追放艦のコンソールに戻ると、数分間、懸命に錆びついたキーボードを叩いた。やがて、ノイズ混じりの立体地図がコンソールに浮かび上がる。
「お嬢様。…これは。北東へ約三キロ。瓦礫の山の麓に、大規模な地下構造物の反応があります。非常に旧式のものですが、シールド反応の痕跡も…。おそらく…旧時代の避難シェルターか、軍事基地の跡かと」
「ビンゴね」
アストレアのインターフェイスにも、ほぼ同じ位置に【?:大規模な人工建造物の可能性】というマーカーが点滅していた。
「行くわよ」
アストレアは、船のロッカーから簡素な環境防護服を取り出し、テキパキと身に着け始めた。それは、帝都で着ていたシルクのドレスとは似ても似つかぬ、機能性だけを追求した灰色の作業着だった。
「お、お嬢様!? お待ちください! 外は危険です! 何が潜んでいるか分かりません! 偵察は、サイボーグであるこの私めが…!」
セバスチャンが悲鳴のような声を上げる。彼の主人は、公爵令嬢として、これまで泥ひとつ踏んだことのない存在だったはずだ。
だが、アストレアは、防護服のヘルメットを装着しながら、まるでピクニックにでも出かけるかのように軽く言った。
「だから『探索』するのでしょう?」
ヘルメットのバイザーが閉まり、彼女の声が内蔵スピーカーからくぐもって聞こえる。
「セバスチャン、ゲームの基本を教えてあげるわ。初期マップの探索は、リソース確保と情報収集の基本中の基本よ。タイムリミットがあるなら、なおさらね」
「げーむ…? お嬢様、やはりご乱心で…」
「いいえ。私は今、人生で最も正気よ」
アストレアは、船のハッチから、赤茶けた大地へと一歩踏み出した。ゴリ、と金属片を踏みしめる乾いた音が響く。
「それに…」
彼女は、目の前に広がる、果てしないジャンクの山を見渡した。
「あの『ゴミの山』、私には『資源の宝の山』にしか見えないわ」
そのヘルメットのバイザー越しに光る瞳には、絶望など微塵もなかった。あるのは、高難易度マップを前にした廃人ゲーマーの、獰猛なまでの好奇心と征服欲だけだった。
「さあ、サブクエストの開始よ、セバスチャン。遅れないでちょうだい」
「…御意に」
もはや、この主人がかつての「完璧な公爵令嬢」とは別次元の存在に変貌したことを悟り、老執事は、そのサイバネティクス化された身に鞭打ち、主人の後を追った。




