9-2:軌道上の『オラクル』とヴォルコフの焦り
アストレアの決断は早かった。
ナノマシン治療薬のプロトタイプは、ガロを始めとする重症者に投与され、劇的な回復を見せた。だが、まだ発症していない者を含め、全領民(獣人族)に行き渡らせるには、絶対的に量が足りない。量産施設の確保は、急務だった。
「スパイク!」
アストレアは、無線のコールサインで、すでに『エレボス自衛艦隊』隊長としての任に就いていたスパイクを呼び出した。彼は、魔改造されたフリゲート『デッド・ラビット』改め、『スターゲイザー』(アストレアが命名)のブリッジで、待機していた。
「へい、ボス。出撃命令か?」
「ええ。目標は、軌道上のデブリベルトに隠された、旧宇宙ステーション『オラクル』よ。エララから座標データを転送するわ。あなたは『スターゲイザー』で先行し、周辺のデブリを除去、安全な航路を確保して。私とアレクシス卿は、もう一隻のフリゲート『ムーンダンサー』(旧ボーン・シックル)で後を追うわ」
「アレクシス卿も? ボス、あの貴族、まだ信用できるのか?」
スパイクの問いに、アストレアは即答できなかった。アレクシスは、疫病対策に協力し、地下遺跡の探索にも同行してくれた。彼の忠誠度は【+50】まで上昇していたが、それでもまだ、彼がヴォルコフの配下であるという事実は変わらない。
『…私が行こう』
対策本部でアストレアたちの会話を聞いていたアレクシスが、自ら申し出た。彼の顔には、数日前の貴公子然とした冷徹さはなく、アストレアと共に危機を乗り越えた「仲間」としての、真摯な色が浮かんでいた。
「アストレア卿。貴殿が発見した『アカシック・レコード』とナノマシン技術…これがどれほど重大なものか、理解している。これがヴォルコフのような男の手に渡れば、銀河は再び戦火に包まれかねん。…私にも、それを阻止する手伝いをさせてほしい」
彼の瞳は、本気だった。彼は、アストレアという存在に触れ、ヴォルコフへの盲従という道ではなく、自らの意志で「正しい」と信じる道を選ぼうとしていた。
【アレクシス・フォン・ヴァイス:忠誠度:+70(共闘への決意)】
(…信じるしかない、か)
アストレアは、頷いた。
「分かったわ、アレクシス卿。あなたの剣技は、あるいはステーション内部での戦闘で必要になるかもしれない。よろしく頼むわ」
二隻のフリゲート艦――エララの魔改造によって、ステルス性能と機動力が大幅に向上した『スターゲイザー』と『ムーンダンサー』は、エレボスの灰色の空を突き抜け、デブリベルトへと上昇していった。
先行するスパイクの『スターゲイザー』は、まるで魚が水中を泳ぐように、巧みにデブリの間をすり抜けていく。彼のS+級の操縦技術は、この危険な宙域ですら、庭を散歩するかのように航行を可能にしていた。
『ボス、前方クリア。目標の座標に、確かに何かあるぜ。デカい。だが、ステルスが強力すぎて、まだ全容が見えねえ』
「了解。こちらも接近するわ」
アストレアが座る『ムーンダンサー』のブリッジ。その艦長席の隣には、アレクシスが、ヴァイス家の軍服姿で立っていた。セバスチャン(新しい軍用グレードの義手をエララに装着してもらっていた)は、アストレアの護衛として後方に控えている。
やがて、彼らの目の前に、それは姿を現した。
直径5キロはあろうかという、巨大なリング状の建造物。表面は、デブリとの衝突を防ぐためか、特殊なエネルギーフィールドで覆われ、さらに光学迷彩によって、背景の宇宙空間に溶け込んでいる。これが、古代ステーション『オラクル』。
『…認証コードヲ要求シマス…』
ステーションから、自動音声が響く。
アストレアは、『アカシック・レコード』から入手していた認証コードを送信した。
『…認証完了。マスター、アストレア・フォン・ヒンメル様。ようこそ、オラクルへ。ドッキングベイ7ヲ開放シマス』
リングの一部が、音もなくスライドし、内部のドッキングベイへの入り口が開かれた。
二隻のフリゲートは、吸い込まれるように、ステーション内部へと進入していく。内部は、驚くほど保存状態が良かった。無人の施設でありながら、最低限の機能(照明、空気循環、重力制御)は維持されていたのだ。
【メインクエスト更新:『医療革命』】
・軌道上ステーション『オラクル』を発見し、ナノマシン量産施設を確保セヨ (達成)
・ナノマシン量産施設を再起動し、治療薬の量産を開始セヨ (New)
アストレア、アレクシス、セバスチャン、そしてスパイク(彼はスターゲイザーを自動航行に切り替え、合流した)の四人は、ステーションのメインコントロールルームへと向かった。
コントロールルームは、地下の『アカシック・レコード』と同様、クリスタルのような素材で作られたコンソールが並び、幻想的な光を放っていた。
『マスター・アストレア様。オラクル管理AI『シビュラ』、再起動シマス』
中央のコンソールから、女性的な合成音声が響いた。
「シビュラ。ナノマシン量産施設の状況は?」
『全施設、スタンバイ状態。触媒ト生体素材ガアレバ、即時量産可能デス。…ダガ、マスター。800年間ノ休眠期間中ニ、問題ガ発生シテイマス』
「何?」
『施設ノ一部区画ガ、外部カラ侵入シタ、敵性機械生命体『スクラッパー』ニ占拠サレテイマス。彼ラハ、施設ノ部品ヲ捕食シ、自己増殖シテイマス。量産施設ヲ完全ニ再起動スルニハ、彼ラヲ排除スル必要ガアリマス』
「…また戦闘イベント…」アストレアは、うんざりしたように溜息をついた。「しかも、今度は機械生命体(ロボット軍団)?」
【サブクエスト発生:『ステーションの浄化』】
内容:『オラクル』内に侵入した敵性機械生命体『スクラッパー』を殲滅し、ナノマシン量産施設を完全に確保せよ。
報酬:ナノマシン量産ラインの完全稼働、技術【対機械戦闘術(Lv.1)】のアンロック
その頃。
エレボスから遠く離れた、ヴォルコフ辺境伯領の旗艦ブリッジでは、当のヴォルコフ辺境伯が、不機嫌極まりない顔で、部下からの報告を受けていた。
「…アレクシスめが、まだエレボスに滞在している、だと? 定期視察などと、ふざけた言い訳をしおって…!」
彼は、アレクシスが持ち帰った報告(海賊は正体不明の勢力に壊滅、アストレアは領主権を盾に強硬)に激怒していた。あの小娘が、まさか海賊の巡洋艦を撃退するほどの「力」を隠し持っていたとは。そして、アレクシスが、その「力」に魅入られ、自分を裏切るのではないかという疑念。
「…例の『贈り物(疫病)』は、どうなった? あの小娘と、忌々しい獣人どもは、今頃、苦しみながら死にかけているはずだろう?」
部下が、恐る恐る答える。
「…それが…エレボスからの最新の通信傍受によりますと…原因不明ながら、疫病は『急速に終息』しつつある、との情報が…」
「なんだと!? 馬鹿な! あの『ブルースケイル』は、帝国最高の生物兵器研究所ですら、治療法を見つけられなかった代物だぞ!? あのゴミ捨て場で、どうやって…!?」
ヴォルコフの焦りは、頂点に達していた。アストレアという存在は、彼の計算を、ことごとく狂わせていく。あの星には、彼が知らない「何か」がある。そして、その「何か」が、今、アストレアの手に渡ろうとしている。
「…もはや、悠長なことは言っておれん」
ヴォルコフは、決断した。
「全艦隊に通達! 目標、エレボス! あの小娘ごと、あの星を、完全に更地にする!」
彼の背後には、数十隻の巡洋艦と駆逐艦からなる、帝国辺境艦隊の中でも最大級の戦力が集結しつつあった。ヴォルコフ辺境伯による、エレボス殲滅戦が、始まろうとしていた。




