1-2:偽りの涙と断罪の幕開け
パーティーが最高潮に達したその時だった。音楽がふと途切れ、広間の巨大な扉が勢いよく開かれた。そこに立っていたのは、ドレスの裾が汚れ、髪を振り乱したロゼッタ男爵令嬢だった。 彼女の目には大粒の涙が浮かび、か細い肩は痛々しいほどに震えている。
広間が一瞬にして静まり返った。主役であるはずのユリウスが、驚いた顔で駆け寄る。
「ロゼッタ! どうしたんだ、その姿は!」
ロゼッタは、まるで壊れやすいガラス細工のようにユリウスの胸にすがりつき、しゃくりあげながら言った。
「ユリウス様…! わ、わたくし…アストレア様に…!」
その言葉に、すべての視線が一斉にアストレアに突き刺さる。賞賛と羨望の眼差しは、ほんの数分で疑惑と非難のそれに変わっていた。アストレアは表情一つ変えず、ただ静かにその茶番劇を見つめていた。
(来たわね、イベント本編。陳腐なシナリオだけど、効果は絶大か)
彼女の頭の中では、すでに状況分析が始まっている。ロゼッタの狙いは、同情を引くことによる世論操作と、キーキャラクターであるユリウスの感情の掌握。この場でアストレアを「悪役」に仕立て上げ、婚約者の地位を奪うための、大胆かつ古典的な一手だ。
ユリウスは、ロゼッタの言葉を鵜呑みにし、憤怒の表情でアストレアを振り返った。
「アストレア! 君がロゼッタに何をしたんだ!」
「何もしておりませんわ、殿下。わたくはずっと、皆様とご歓談申し上げておりましたが」
アストレアの冷静な返答に、ユリウスはさらに激高する。
「しらを切るな! ロゼッタが嘘を言うはずがない!」
「嘘では…ございません…」
ロゼッタはか細い声で、しかし広間の全員に聞こえるように続けた。
「先ほど、テラスで夜風に当たっておりましたら、アストレア様がいらっしゃって…。『いつまでユリウス様に色目を使うつもりですの? 身の程をわきまえなさい、卑しい男爵令嬢が』と…」
そこで言葉を切り、悲劇のヒロインのように顔を伏せる。貴族たちの中から、同情的なざわめきが起こった。男爵令嬢という低い身分は、この場で彼女を弱者に見せるための効果的な舞台装置だった。
「それだけではないな?」とユリウスが促す。
ロゼッタはこくりと頷き、震える指でテラスの方を指さした。
「わたくしが謝罪いたします、と申し上げますと…アストレア様は『謝罪などでは足りません。その身をもって償いなさい』と、わたくしを…階段から突き落とそうとなさいました…!」
悲鳴のような告発に、広間は大きくどよめいた。皇太子の婚約者が、嫉妬からライバル令嬢を殺害しようとした。これ以上ないスキャンダルだ。
(なるほど。突き落とされた、ではなく『突き落とされそうになった』。証拠が残らない上に、私の『冷徹さ』というパブリックイメージを利用して、やりかねないと思わせる。悪くない手だわ)
アストレアは内心でロゼッタの戦略を評価した。感情論に訴え、状況証拠だけで有罪の雰囲気を作り出す。愚かな人間を扇動するには最も効率的な方法だ。
アストレアは静かに口を開いた。
「殿下。それは事実ではございません。ロゼッタ様がテラスにいらしたことすら、わたくしは存じ上げません。誰か、わたくしがテラスへ向かうのをご覧になった方はいらっしゃいますか?」
論理的な反証だった。だが、誰も名乗り出ない。この状況でアストレアの味方をすれば、皇太子に睨まれるのは確実だからだ。貴族たちは皆、賢く、そして卑怯だった。彼らはただ、この劇的なショーの結末を見届けたいだけなのだ。
ユリウスは、アストレアの冷静な態度が、まるで反省の色がない不遜なものに映った。彼はもう、真実などどうでもよかった。自分のプライドを傷つけ、意のままにならない完璧な婚約者と、自分を慕い、常に感情豊かに頼ってくれる可憐な少女。どちらを選ぶかなど、彼の中ではとっくに決まっていたのだ。
「黙れ!」ユリウスが叫んだ。「君のその冷たい瞳が何よりの証拠だ! 君は昔からそうだ、いつも私を見下し、自分の正しさだけを押し付けてきた! 君のような女に、未来の皇后が務まるものか!」
(…ゲームオーバー、というわけね。まあ、このルートはこうなる運命だったか)
アストレアは、迫りくる破滅を前にして、不思議なほど冷静だった。前世のゲーマーとしての経験が、どんな理不尽な展開にも動じない耐性を彼女に与えていた。どんなクソゲーでも、エンディングまではプレイするのが彼女の流儀だった。




