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第二章:結婚式と夫

教会の塔から鳴り響く鐘の音で、私は目を覚ました。空が白み始めたばかりの、静かな朝。いつもなら希望の響きに聞こえるその音が、今日だけはどこか遠く、まるで水の中から聞いているように重く感じられた。


今日は、私の結婚式だ。


寝不足でずきりと痛むこめかみを押さえながら、私はゆっくりと身体を起こす。心はまだ、昨夜の暗闇に囚われたままだった。それでも、時間は容赦なく私を現実へと引き戻していく。


身支度は、流れるように進んでいった。まるで、あらかじめ決められた芝居の台本に従って動く役者のように。侍女たちが手際よくドレスに腕を通させ、髪を結い上げ、顔に色を差していく。


鏡に映る私は、少しずつ「リリアナ」という個人から、「誰かの娘」であり、「誰かの花嫁」へと姿を変えていった。


でも、その虚ろな瞳だけは、どうしても“いま”を映していない気がした。

「綺麗よ、リリアナ。本当に……まるで本物のお姫様みたい」

母が感極まった声でそう言ったとき、私は練習したようにかすかに微笑んでみせた。


けれど、その笑顔がちゃんと“笑顔”になっていたのか、自分でもよくわからなかった。


母の瞳に浮かぶ安堵の色を見て、私はただ、この役を最後まで演じきらなければと、心を固くした。


教会へ向かう馬車の窓から、見慣れた王都の街並みが流れていく。


通りには祝福の花びらが舞い、人々の陽気なざわめきが空に溶けていく。

幸せに満ちたその光景が、まるで分厚いガラスを一枚隔てた向こう側の世界の出来事のように感じられた。


ポケットに忍ばせた、あの小さな魔導石。今朝も、ぴくりとも動かない。


もしかしたら、レオンはもう諦めたのかもしれない。それとも、あの夜の言葉は、ただの怒りのはけ口として吐き捨てただけだったのか。


どちらにせよ、これで本当に――終わるのだ。そう思うと、ほんの少しだけ胸が軽くなった気もした。

やがて馬車が止まり、教会の重厚な扉が開かれる。


差し込む光に目を細めると、そこは荘厳な静寂と花の香りに満ちていた。参列者たちが一斉に振り返り、その温かい視線が私に注がれる。父の腕に支えられ、一歩、また一歩とバージンロードを進む。その先、神父の立つ壇の下で、バルテル様が私を待っていた。


落ち着いた色合いの礼服に身を包んだ彼は、今日も穏やかな表情をしていた。


灰色の瞳。

年上らしい安定感と、大人の余裕。

バルテル様は、優しい。


初めて会った日から、私の過去も、心の揺れも、まるで気づかないふりをするかのように、いつも穏やかに私を見守ってくれた。


彼の前では、私はただの「リリアナ」でいられた。


それは、レオンの前では決して得られなかった安らぎだった。


けれど、私はふと思ってしまう。

――この人の瞳の奥には、私は本当に映っているのだろうか。


レオンのように、焦がれるような熱い眼差しで私を見ることはない。


私のすべてを知りたいと、不安になるほど真っ直ぐにぶつかってくることもない。


もちろん、それこそが“安心”なのだと、何度も自分に言い聞かせてきた。


激しい恋は、いつか終わりが来る。けれど、穏やかな愛情は、きっと永く続いていく。


なのに、いざ彼の隣に立った瞬間、その揺るぎない安定感が、妙に大きな壁のように感じられてしまった。


誓いの言葉が、静かな聖堂に響き渡る。


式は滞りなく、完璧なほどに静かに進んでいく。


「汝、バルテル=アーシュベルは、リリアナ=フェルネを生涯の伴侶とし、健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、これを愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」

「誓います」

穏やかで、揺るぎない声だった。


その声には一片の迷いもなく、彼の誠実さが伝わってくる。


そして、神父の視線が私に向けられたとき。

ほんの一瞬、喉が詰まった。視界の端で、ステンドグラスの光が滲む。

脳裏をよぎるのは、あの春の日の、不器用な笑顔。

……それでも、私は息を吸い、答えた。

「……誓います」

声が、少し震えた気がした。


その瞬間、神父の手が祝福の印を結び、周囲から温かい拍手が沸き起こる。誰もが微笑み、祝福し、白い花びらが天から舞い落ちる。


でもそのとき、不意に――

ドレスのポケットに忍ばせた小さな魔導石が、ぶるり、と短く震えた。


ぞわり、と背筋を冷たい風が撫でたような感覚。心臓が凍りつく。


私は顔を上げたまま、石に触れないようにして、そっと指先を固く握りしめた。


これは、幻? 私の心が作り出した、最後の未練?

それとも、あの人の声が、まだ私を呼んでいるの?


いや、もう遅い。

私はもう、彼の妻になった。


バルテル様の手が、私の手を優しく包み込む。その指輪がはめられた指先に、彼の体温が伝わってきた。


その温もりが、どこか“安心”に似ていたことに、私はようやく気づいた。


でも、それは決して“ときめき”ではなかった。


凍えた身体をそっと温めてくれる、冬の日の陽だまりのような、ぬくもりだった。


そうして私は、静かに悟った。


レオンは、真夏の太陽だった。

私を焦がし、焼き尽くし、そして――あまりにも眩しすぎて、私を置いて消えてしまった。


バルテル様は、書斎の灯火だ。

静かに、ただそこにあり続け、穏やかに私を照らしてくれる人。


どちらが正しいのかは、わからない。


けれど、私は火傷するような恋よりも、消えない“灯火”を選んだのだ。


祝福の鐘が、街中に鳴り響く。

その音を聞きながら、私はただ、じっと夫の手を握り返していた。


これが、私の選んだ現実。

今日から始まる、私の新しい人生。

そう信じるしかなかった。ポケットの中で再び沈黙した石の冷たさを、肌で感じながら。

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