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第一章 結婚式前夜、過去と向き合う夜

明日、私は結婚する。


夜の静寂が、私の小さな部屋を支配していた。

窓の外では月明かりが雲に隠れ、頼りない光だけが地上に落ちている。

壁にかけられた純白のドレスが、そのわずかな光を吸い込み、ぼんやりと浮かび上がっていた。


丈は控えめで、胸元にだけ施された繊細な花の刺繍。

王都でも評判の仕立て屋が手掛けた、質素ながらどこまでも上品な一着。

明日、私が纏う「未来」そのものだ。


鏡の前で、それをただ眺めながら、私は深く息を吐く。

緊張しているのか、それとも疲れているのか、自分でもわからない。

頭の奥が鈍く痛み、心臓だけが落ち着きなく脈打っていた。

まるでこの身体が、自分のものではないみたいに。


「リリアナ、もう休みなさい。明日、顔色が悪かったら大変よ」


階下から聞こえてきた母の声は、いつもよりずっと穏やかだった。

日中、「早く寝なさい」とだけ言って部屋を出ていったあの母が、今夜は小言ひとつ言わなかった。

その理由も、痛いほどわかっていた。


さっきまで、母は部屋の外にいた。

私とレオンの、あの激しい口論のすべてを――

私が彼を罵り、彼が私を責め、そして私が一方的に通信を切るまで。

母は、すべてを聞いていたのだ。


だからこそ、今夜は何も言えなかったのだろう。

娘が七年間想い続けた男と、あまりにも無惨な別れを遂げた、その瞬間を目の当たりにしてしまったのだから。


私は何も答えず、ベッドに滑り込む。

冷たいシーツが肌に触れ、思わず身体が小さく震えた。


こんな夜に、眠れるはずがない。


枕元の魔導石は、今はただの冷たい石ころだ。

ついさっきまでの激しいやり取りなど、まるで幻だったかのように、何の反応も示さない。


けれど耳の奥では、まだ彼の声が鳴り響いていた。


『お前は裏切った……』


掠れた絶望の声が、何度も、何度もリフレインする。

寝返りを打っても、目を閉じても、その声は薄れない。

むしろ、ますます鮮明になっていく。


私が、裏切った……?


本当に、そうなのだろうか。


そう問いかけるたびに、胸の奥に鉛のような重さが沈んでいく。

二年という長い歳月、ただひたすら彼を信じて待ち続けた私は、一体何だったのだろう。


誰かを好きになって、信じて、待って、

そして気づかぬうちに捨てられていた。


それでも諦めきれなかった私を、彼はたった一言で“裏切り者”だと断じた。


「……ひどい」


声に出すことさえできず、唇だけでそう呟く。


なら、私が信じていたものは何だったの?

あの七年間は?

「お前と結婚するために騎士になる」と言った彼の言葉は、どこへ消えてしまったの?


ぎゅっと腕を抱えて膝を抱きしめ、布団の中に深く潜り込む。


一瞬、夢と現実の境目が滲む。


そして、そこに鮮やかに浮かぶのは、七年前の春――


まだ訓練兵の制服がどこか不格好だったレオンが、リルフェの村で摘んできたという、不揃いな野の花束を恥ずかしそうに差し出した日のこと。


「……似合うか、わかんねーけど」


照れながら、私のくせ毛の髪に、青い小さな花を挿してくれたあの日。

彼の武骨で大きな指が、私の頬に触れたときの温もりは、まだ胸の奥に残っている。


そんな記憶が、忘れたいと願うほど残酷なまでに鮮明に胸を刺す。


忘れたかったのに。

忘れるために、別の人の手を取る決心をしたはずなのに。

思い出のほうが、勝手に私を捕らえに来る。


そして私は、恐ろしい事実に気づく。


結婚する相手――バルテル様の顔が、今日一日、一度も思い浮かばなかったことに。


明日、彼の前で愛を誓うというのに。

彼の穏やかな笑顔も、優しい声も、私の中には何ひとつ残っていなかった。


そこにあるのは、ずっと――

私を罵った、レオンの顔だけだった。


それが、どうしようもなく怖かった。


自分で選んだはずの、穏やかで平穏な未来。

なのに今夜だけは、蜃気楼のように遠く、不確かなものに見えてしまう。


――大丈夫。


――私は、もう戻らない。


何度も、何度も、自分にそう言い聞かせる。

まるで壊れたからくり人形のように、同じ言葉を何度も繰り返した。


これは、正しい選択なのだ。

レオンとの恋は、もう終わった。私が終わらせた。


明日からは、新しい人生が始まるのだから。


そう信じようとしながら、私は固く目を閉じた。


けれど、やはり眠気は訪れなかった。


静まり返った結婚式前夜の暗闇の中で、消し去ろうとした過去だけが、あまりにも確かな存在として、そこにいた。


……それでも、私の中で何かが静かに揺れていた。


それが、愛なのか、後悔なのか――この時の私は、まだ知らなかった。

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