プロローグ
「帰ってきたら、私と結婚してくれる?」
あの春の日、夕暮れに染まった石畳の道で、私は彼にそう尋ねた。
レオンは少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。
「……当然だろ。オレはそのために騎士になったんだ」
その笑顔を、私は信じていた。
彼の名はレオン=クロイツ。
王国の南にある小さな村、リルフェで生まれ育った青年だった。
鍛冶職人の父と布織りの母、そして五歳下の妹と暮らす、素朴であたたかな家族。
笑い声の絶えない家庭で育った彼は、不器用だけれど、どこまでも優しかった。
私が王都の学舎に通っていたころ、友人の紹介で彼と出会った。
そのとき私はまだ十七歳。
訓練兵だった彼は、逞しい体格に似合わず、恥ずかしそうに視線を逸らすような人だった。
でもその真面目さと、まっすぐすぎるくらい真っ直ぐな言葉が、私には眩しく見えた。
付き合い始めてから七年。
何気ない日々のなかで、彼と過ごす時間は確かに私の人生の一部になっていった。
レオンは努力家だった。
平民出身ながら剣の腕を認められ、王国騎士団に正式に叙任されたとき、私は心から喜んだ。
でも――その後、彼に出世の話が持ち上がった。
外国への長期任務。
期間は未定、戻る保証もない。
「少しの間だけ、だから」
「戻ったら、ちゃんと話をしよう」
「お前と……結婚するために、オレは行ってくる」
そう言って、彼は遠征に旅立った。
最初のうちは、魔導石を通じて通信があった。
慣れない土地の話、妹の手紙、戦の愚痴――
たわいもない話ばかりだったけれど、彼の声を聞けるだけで、私は幸せだった。
けれど、ある日を境に、連絡はぴたりと止んだ。
理由は分からなかった。
何かあったのかと心配して、何度も魔導石に触れたけれど、答えは返ってこなかった。
――半年が過ぎ、
――一年が過ぎ、
――そして、二年。
私はずっと、待ち続けていた。
けれど、周囲は変わっていった。
友人たちは次々と結婚し、家を出ていった。
母は日に日に焦りを募らせ、「いつまでも待ってどうするの」と口を尖らせるようになった。
それだけではない。
最近ではこう言われるようになった。
「早く家を出て行きなさい。いつまでも家に居るんじゃないわよ。良いかげん大人になってくれないと」
その言葉を聞くたびに、胸の奥がひどく痛んだ。
私は、ここにいてはいけないんだ。
……そんなふうに思うようになっていた。
私の居場所が、どこにも無いような気がして。
そんなとき、縁談が舞い込んだ。
五歳年上の商人の男性。
穏やかで、優しくて、物静か。
彼に恋をしているわけではなかったけれど、そばにいると安心できた。
私は、決めた。
もう夢ばかり見てはいられない。
待ち続けるには、あまりにも時間が経ちすぎた。
結婚を決めたあと、少しだけ心が軽くなった気がした。
現実を選ぶことにした自分に、ようやく納得できたから。
そして――結婚式を目前に控えたある夜。
沈黙していた魔導石が、突然淡い光を放ち、震えた。
長い間、何の反応もなかったその石から、彼の声が聞こえた。
「……元気か?」
私は、一瞬、息を呑んだ。
でもすぐに、決めていた言葉を伝えた。
「……私、もうすぐ結婚するの。だから、もう会えない」
沈黙のあと、彼の声は荒れた。
「は? ふざけるなよ……オレは、お前と結婚するために、ずっと……!」
怒りとも焦りともつかない声。
その一言に、胸がざわついた。
でも、私も黙ってはいられなかった。
「……あなたなら、かっこいいし、優しいから、すぐに彼女もできるでしょ。私なんかいなくても。あんなにモテてたじゃない」
少し棘のある言葉だったかもしれない。
でも、あまりにも勝手な言い分に、黙っていられなかった。
すると、レオンはぽつりと呟いた。
「……そんなに簡単にいかないんだよ……」
その声を聞いた瞬間、私はピンときた。
――ああ、そういうことか。
音信不通のあの一年半、彼は別の誰かと付き合っていたのだ。
「……なーんだ。馬鹿みたいに、私だけが待ってたんだ。なのに、何も知らずに責められて。何なの、それ」
怒りと哀しみと、虚しさが込み上げてくる。
「あなた、私に連絡くれなかったあの一年半、彼女いたんでしょ? でも振られたんだ。だから私のところに戻ってきたの?」
気づけば私は、もう抑えきれなくなっていた。
「私、あなたの保険だったの? もし他の人に上手くいかなかったときの、都合のいい帰る場所だったの?」
少しの沈黙の後、レオンは小さな声で呟いた。
「いや……そんなわけでは……ないけど……」
その言葉が、ゆっくりと耳に届いたとき、私は心の底から呆れた。
あの春の日、
「お前と結婚するために騎士になる」と言った、あの人の言葉は何だったの。
「……遠征に行く前、あんなにカッコいいこと言ってたじゃない。ずっと信じてたのよ?
私だって……時々でも、たった一言でも連絡をくれていたら、他の誰かと結婚することなんて、なかったのよ!」
声が震えた。
抑えていた感情が、胸の内からあふれ出していた。
「でも、私からは連絡できなかった……魔導石の通話は階級の高い者にしか許されてなかったし、あなたの居場所すら知らなかった。
私には、ただ待つことしかできなかったの……!」
問い詰めるように、私は尋ねた。
「……その彼女と、結婚するつもりだったの?」
レオンは一瞬だけ息を呑んだ気配を見せたが、やがてぽつりと答えた。
「いや……」
それきり、彼は黙った。
何も言わない沈黙が、すべてを語っていた。
“本気ではなかった”。
“けれど、私がいない間を埋める存在は必要だった”。
――そんなふうに聞こえてしまった。
胸の奥が、じんと痛んだ。
信じて、待って、ひとりきりで過ごした七年の重みを、
軽く扱われたような気がして、悔しさがこみあげた。
そして――その夜から、彼は何度も、何度も連絡を入れてきた。
「お前は裏切った」
「オレは今でもお前しか……」
「頼む、話を聞いてくれ……」
責める言葉と、懇願の声。
私を、保険のように扱って……
当たり前のように何年も待たせておいて、
自分は好き勝手して、他に女を作って、
それで“裏切った”だなんて……何なのよ。
――私はずっと、待っていたのに。
裏切ったのは、レオン――あなただよ。
隣の部屋で、母が何かに気づいたように気配を潜めていたけれど、
もうそんなこと気にしていられなかった。
我慢の限界だった。
「……もう、知らない。もう二度とかけてこないで。私はもう他の人と結婚するの。さようなら」
静かに、けれど確かに言って、私は通信を切った。
魔導石の光は、淡く揺れて、それきり消えた。
部屋の中に残ったのは、静けさと、胸を締めつけるような虚しさだけだった。
もう、遅いの。
私は――もうすぐ、誰かの妻になるのだから。