好々爺
このベッドに横たわる老人は、好々爺であった。自分の私財を投げ売ってでも赤の他人を救わんと行動し、この破滅的な最期を迎えるにあたっても、心の中では人々への深い愛を忘れることはなかった。
老人には家族も資産も残されていなかった。しかし、あの日まで老人は仰々しい機械に繋がれ命を保っていた。それを可能にしたのは老人によって救われた人々からの恩返しに他ならない。老人の最期など知らなくとも、この好々爺伝説はどこかで聞いたことがあるだろう。私が彼の主治医となったのもそれに感銘を受けたからである。彼と会話することは結局叶わなかったが、畏れ多くも好々爺伝説の登場人物となれたことは私の生涯の誇りである。
本当はこの老人の最期など知る必要はない。奉仕をしたから皆が報いてくれた。ここで話を切り上げて自分も老人のように清く生きよう、それで十分なのである。これから私が話すことなど、誰にとっても知るべきではないのだ。
彼の元には毎日多くの訪問者が来た。しかし、大抵は老人が死ぬ前にせめてその顔を拝んでおこう、とかその程度の軽薄な者ばかりであった。実際、訪問者の中にはあの有名な老人を一目見れてよかった、なんて者もいた。よく語られる「大勢が老人に救われた」というのは、この訪問者達の人数を元に誇張しただけに過ぎない。結局、本当に足繁く病室へ通っていたのは、たった四人であった。
彼らこそ、自らの私財で老人の延命を図った真の好々爺伝説の当事者であり、また自らの意思で老人殺しを実行した当事者である。
ある日のこと。私はいつものように老人の診察を行っていた。人は意識が殆ど無くとも、最期まで音は聴こえると言われている。眉唾ものではあるが、それでも私はいつも意識のない老人に語りかけていた。この日も老人の耳に手をあてがい、なるべく聞き取りやすいように語りかけようと試みたとき、老人の右耳の後ろにあった小さな瘤に手が触れた。ここからは専門的な内容につき省かせていただくが、簡潔に言えばの瘤こそ老人の病の根源であり、除去出来れば老人は直ちに回復する、という代物だった。
ついに老人を治療できる。私は早る気持ちを抑えつつ、いつものように老人の元へ訪れていた4人それぞれに報告をした。極めて容易な手術ではあるが、それでも治療費を出資している四人には説明する義務がある。手術について伝えると皆目を丸くして驚き、言葉にならないほどに喜んだ。感謝のあまりその場で私に財布ごと差し出す者さえいた。
「これでようやく感謝が伝えられる。」
そんな言葉が四人それぞれから全く同じ言葉、同じトーンで漏れ出るように漏れ出た。そんな呟きに、私はこう伝えてみせた。
「いいえ、あなたの思いはもう伝わっています。意識がなくても、彼に伝えた言葉の数々は、彼の記憶に深く刻まれているのです。」
そう告げるとこれもまた奇妙な程に、四人は同じような表情を浮かべたのだった。
次の日は記録的な大雨だった。
こんな天気だと訪問者も来ないだろう、そう思っていた中、あの四人は現れた。
長くはない面会のために、今日も苦労して病室へ訪れたのだ。私はその熱意に感動した。
私はさっと老人の診察を済ませ、四人を病室の前へと案内した。
「今日は皆さんお揃いのようですので、会わせて十二時までを面会時間とさせていただきますね。」
私はそう告げると他の業務へと戻った。
普段はこのような措置は取らないが、これは四人で手術について話す時間と、老人と一対一で向き合う時間を設けていただくための、私なりの配慮であった。
十二時を過ぎ、昼食を済ませて十三時頃に私は老人の病室へと向かった。約束通り、あの四人の姿はどこにもない。
老人に声をかけようと手を当てた時、嫌な冷たさを感じた。
不穏な気配を感じる。
ベッドの下にあった生命維持装置を確認した。老人の鼻から伸びたチューブが、全く関係のない場所に、乱雑に接続されている。
救えたはずの命は、ベッドの上に残されていなかった。
この事件が明るみになってから程無くして、罪の意識に苛まれた四人はそれぞれ自首した。
四人はあの日以降一切の連絡を取っていなかったにも関わらず、不気味なほどに同じ証言を残したことで事件の異常性が社会に知れ渡った。
曰く、
「彼が目を覚ましたとき、自分が語ったことが暴かれるのが恐ろしかった。」
「だからチューブを引き抜き、数分間、確実に死を確認してから、生命維持装置に刺し直した。」
「もし他の三人も同じことをしていたとしても、それは殺人ではない。なぜなら、最初に抜いたのは私だからだ。」
「裁かれるべきは、この私だけだ。」
誰が老人を殺したのか。未だ判決は下っていない。
しかし、そんなことは本当はどうだっていいのではないか。
老人は身勝手な善人によって生かされ、病室は懺悔室となり、善人たちの罪深さに殺された。それが全てである。誰が殺したとしても、犯した罪は変わらない。誰よりもそれは四人が理解していた。
最期の瞬間は私だけが知る。しかし、どうだっていいことだ。