無くしたもの
綺麗な世界が少しずつ歪んでいく。水の中で混ざり合った絵の具のように、黒く澱み続ける。
さっきまでの景色とは大違い。気持ちは重くなるばかりで、ため息がこぼれた。
「思い出せなくなるものですよね」
「そうだね」
「あなたが覚えている素敵なもの、教えてください」
「素敵なものなんか無いよ」
「それでも、あなたが好きだったものが知りたいです」
「何だったっけ」
昔、好きだったものが分からなくなった。楽しかったものが嫌いになったこともある。なぜだろうか。流れる時は大切だったものを奪ってしまう。
だから、あの頃のままになんて居られない。あの時の感情は、もう濁ってしまった。それが大人になるということなのだろう。
社会の波に飲まれ、時間を失い心を殺してゆく。自分が自分である理由を無くしながら。好きも嫌いもない、味気ない時を過ごしてきた。だから、もう忘れた方楽だった。
「好きでいることは、難しいものですよね」
「シロも?」
「僕も時々迷うことがあります。けれど、いつも思い出します」
「なにを?」
「好きになった時のことです」
そう話すシロの顔は嬉しそうだった。それはとても大切な思い出なのだろう。
「その時シロはどう思ったの?」
「そうですね」
シロは考え込むように、しばらく黙っていた。
「一言では言い表せないのですが」
「教えて」
「はい。私がいつも思い出すのは温かさです」
にこりと笑う顔は幸せそう。春風に吹かれたような表情は、私の心を少しだけ温めてくれた。
花を好きになった日。星に焦がれた日。過去に思いを馳せた日。私も、こんな風に笑っていたのだろうか。




