利他主義
目を開けると、車のフロントガラス越しに見慣れたアパートが映った。横の運転席には、ブランドものの腕時計を身に着けた男が煙草を一本、咥えている。まつ毛が長く、鼻は高い、また産毛の一本も見えないほど手入れの行き届いたその外見は、控えめに言っても美しい。
男は僕が起きたことに気づくと、
「どこか変なところ、ない?」
慌てて煙草の火を消しながらそう訊いた。
「ないよ、大丈夫。」
身体に残る違和感を気にせず、答えた。
「これでいいかな?」
「うん、ありがとう。」
いつものやりとりを終えて外に出ると、生ぬるい風が身体を包んだ。
車を少し見送りカバンから水の入ったペットボトルを取り出して、ひとくち飲んでから二階にある、自分の部屋へ向かった。
鍵を開けて入ると、電気のついていない薄暗い部屋に、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。洗面所で手洗いとうがいを済ませると、キッチンを抜けて、入居したばかりともいえるほど家具ひとつない、中央に布団が敷かれただけの空間に入った。そのままカバンを部屋の隅に置き、着替えてから布団に入って眠りについた。
目を覚ましてスマホを開くと十二時を過ぎた頃で、外は、雲が少し見える青空で気持ちよく晴れたようすだった。水を飲もうと冷蔵庫を開け、一本だけ残ったペットボトルを取り出して三分の一くらいを飲むと、着替えてから一週間分の食べ物を買いに出かける。
口座を確認すると昨日の分で残高は、一億円あまりになっていた。
二年ばかり続けているこの生活は、ただの作業といってもいいのかもしれない。誰かの幸福感を満たすために生きたいと思い、生き延びるために自分の食欲を満たし、自分の食欲を満たすために誰かの幸福感を満たす。こんな生活を続けられたのは、僕が、「たまたま」人と会うことでお金をもらうことができ、その「人」が「たまたま」普通の人よりたくさんお金を持っていただけのこと。僕は特別なんかじゃない。
「普通」の生活を続けて一億円を手にしていたら、ありとあらゆる物欲を満たすために散財することも、老後のために残しておこうと頭を悩ませることもあっただろう。でも今となっては、行き場を失った数字が生まれただけにすぎない。手に入れたいと望むモノも、これからの自分を描いた理想像も、僕には、ない。
「たまたま」僕の身体が、こころが、誰かの「よりどころ」となるにふさわしいカタチをしていただけ。