クリスティーヌ王女の婚姻
※『隠れ才女は全然めげない』と世界観が繋がっていますが、未読でも全く問題ないです。
「クリスティーヌ! いい加減にしないか! 君は王女だという自覚はあるのか!?」
後ろから聞こえて来た怒鳴り声に、今まさに王宮の塀にまたがって乗り越えようとしていたクリスティーヌは振り向いた。その拍子に、まっすぐ伸びたプラチナブロンドが、太陽の光を受けてきらきらと輝く。
意志の強そうなブルーグリーンの瞳を輝かせながら、クリスティーヌは肩を怒らせて立つレイトンを見た。
「やだ、よりにもよって一番うるさいのに見つかるなんて、今日はついていないわ……」
「一番うるさいとはなんだ一番うるさいとは!」
ぷりぷりと怒りながら、背の低い熊のようにどっしりとした体格の、今年二十五になるレイトンが近づいてくる。
「言っておくけど、私は君の侍女たちに頼まれたんだからな! 『姫様を止められるのはレイトン様しかいないんです助けてください!』って! ほら、降りて!」
言いながら、髪と同じ茶色の眉を吊り上がらせたレイトンが大きな手を差し出してくる。クリスティーヌは諦めたように息をついた。彼に見つかってしまった以上、今日の脱走は無理だろう。
渋々レイトンの手を取ると、クリスティーヌはぴょんと塀から飛び降りた。そんなクリスティーヌの体を、レイトンが軽々と受け止める。彼は意外と力持ちなのだ。
「まったく、君という人は! 足を人目にさらけ出すだけでもとんでもない恥だというのに、塀に登って王宮から脱走しようなどと! 少しは世の中の淑女たちを見習ったらどうなんだ! 大体、女性というものは目立たず大きな声を出さず、しとやかに微笑んでこそというもので――」
くどくどくどくど。こうなったら彼のお説教は止まらない。クリスティーヌはうんざりしたように言った。
「出たわね。あなたの『女性はこうであるべき説』。お兄様の友達の中でも、ここまで頭がカチンコチンで旧時代なのはあなたぐらいのものよ、レイトン。頭で釘が打てるのではなくって?」
レイトン、またの名を次期パブロ公爵家当主は、王太子である兄の相談役の中でもひときわ口うるさい人物だ。他の貴公子たちなら脱走を見逃してもらえることもあるのだが、レイトンだけは別。見つかったら間違いなく連れ戻されていた。それも、なが〜いお説教付きで。
「僕の頭が固いんじゃない。君が奔放すぎるんだ! まったく……。この国にいられるのも残り少ないというのに、これ以上陛下や王妃様を心配させるような真似はやめてくれ! 君に何かあったら、下手すると国際問題にまで発展するんだぞ!?」
この国の第一王女であるクリスティーヌは、十七歳を迎える半年後に輿入れすることが決まっている。嫁ぎ先はひとつ国を挟んだ隣国のパキラ皇国だ。
この結婚はパキラとこの国の結束を強めるための政略結婚であり、もしクリスティーヌの身に何かが起き、輿入れできないということになれば、当然パキラとの関係悪化にも繋がる。
「もちろんわかっているわ。わかっているからこそ、今のうちに心残りを無くしておきたいんじゃない」
言って、クリスティーヌはすねたようにふいと目をそらした。いつもいきいきと輝くブルーグリーンの瞳が、今は寂しそうに細められるのを見てレイトンが目を見開く。
「あなたも知っているでしょう? 輿入れと言っても、パキラ皇国の婚姻は、一夫一妻である我が国とは全然違うのよ。後宮と呼ばれる場所に、他にもいるたくさんの妃と共に放り込まれて、二度と外には出られないのですって」
友好のために嫁ぐクリスティーヌは、例え寵愛を受けることがなかったとしても、後宮で雑な扱いを受けることはないだろう。それはとても恵まれたことだとわかっている。
(それでも、やっぱりわたくしは閉じ込められるのは嫌……)
――クリスティーヌは、王宮の外にある世界を見るのが好きだった。
時々王宮から抜け出してはこっそり街の中に紛れ込み、人々の営みを見るのが好きだった。
見たこともない器具を使う料理人たちや、どうやって作っているのだろうと思うような見事な細工を作る職人たち。そんな商品を店に美しく並べて言葉巧みに売る商人たちなど、街で見るものはすべて目新しく、また憧れだった。
クリスティーヌはたまたま第一王女として生まれたおかげで、呼ぶだけで着替えも食事も無限に出てくる。だが、どうやったら果物がおいしいケーキになるのかを知らないし、野菜が、どうやったらおいしいシチューに変わるのかを知らない。
知らないからこそ、学びたかった。
そんなクリスティーナに舞い込んできたのが、まさかのパキラ皇帝との婚姻だ。
政略結婚は王女の運命であり、好きな人に嫁げないだろうと覚悟していたものの、後宮入りは予想外だった。
「だから今だけ見逃してくれない? ね? 婚姻前に、せめて国をできるだけたくさん見ておきたいのよ」
祈るように両手を組み、クリスティーヌは目をうるうると潤ませながら上目遣いでレイトンを見る。他の貴公子たちを説得するのに使った必殺泣き落としだ。
だが。
「だめだ。危険すぎる」
仏頂面のレイトンを前に、ばっさりと斬り捨てられた。
すとん、と地面に降ろされながら、クリスティーヌが文句を言う。
「んもう! レイトンのばか、けちんぼ、わからずや! 何も婚姻から逃げ出そうってわけじゃないんだから、最後の思い出作りぐらいいいじゃない! ただでさえあなたたちと違っていつでも外に出られるわけじゃないのに、後宮に入ったらもう二度と……二度と外には出られないのよ……」
言って、うっかり本気で涙がにじみそうになってしまう。クリスティーヌはあわててぐっと奥歯を噛み締めた。
(わたくしのばか。本気でめそめそはしないって、決めたはずなのに)
嘆いても婚姻が取りやめになることはなく、両親や兄をいたずらに心配させるだけ。それなら最後は明るく、笑って過ごしたい。見逃してくれた貴公子たちだって、クリスティーヌのそんな気持ちを汲んでくれたはずだ。
今のは演技じゃないことに、レイトンも気付いたのだろう。彼がハッと息を吞む音がして、クリスティーヌはすぐさま微笑んでみせた。それから気まずさをごまかそうと、早口でペラペラと喋る。
「……なんてね! 今あなた、わたくしに騙されそうになったでしょう? 別に本気で言っているわけじゃないから、お兄様たちには内緒にしてね? みんな本当に心配性なんだから。わたくし、巷では『おてんば』なんて呼ばれているけれど、こう見えてわきまえる時はちゃんとわきまえているの。心配する必要なんてどこにも――」
「わかった。なら、君の『最後の思い出作り』をしよう」
「……えっ?」
突然の言葉に、クリスティーヌは目を丸くした。
先ほどまで頑なに「だめだ」と言っていたのは他ならぬレイトンだ。それが、こんなにあっさりと真逆のことを言い出すなんて。
「その代わり、やるならこんな脱走のような形ではなく、きちんとするんだ。陛下にも殿下にも許可をとって、その上で私が護衛として付き添おう。期間は一か月。すぐに許可をとってくるから、その間に君はやりたいことを全部紙にまとめて――」
「ま、まってまって、そんな急に言われても困るわ!」
戸惑うクリスティーヌを置いて、レイトンがサクサクと段取りを決めていく。彼は見ため的には肉体派だが、意外と頭脳派でもあった。
言葉を遮ったクリスティーヌを、レイトンのヘーゼルの瞳がじっと見据える。
「……やらないのか?」
「もちろんやるわ!」
クリスティーヌは身を乗り出した。話の流れが急すぎて一瞬ついていけなかったが、願ってもいないことだ。
「よろしい。なら陛下に話をつけてくる」
――こうしてとんとん拍子に、クリスティーヌの『最後の思い出作り』は始まったのだった。
◆
「それで、何がしたいのかまとめてきたのか?」
王宮の一室。目の前で腕を組んで、ずんと立ちふさがるレイトンの言葉に、クリスティーヌはうなずいてみせた。それから、やりたいことを書いた紙をスッと取り出す。
「もちろん、書いてきたわ。まずは――」
「待て! その前に、今その紙をどこから出した!?」
「え?」
なぜかあわてた顔のレイトンに遮られて、クリスティーヌはきょとんとした。
「どこって……ここだけれど?」
言いながら指したのは、ドレスの襟ぐりから覗く豊かな胸の谷間。ドレスにはポケットがついていないため、ここは何かと収納に便利なのだ。
「きききききき、君という人は!!!」
途端に、レイトンの顔が真っ赤になった。クリスティーヌがくすくす笑う。
「嘘? あなた二十五にもなって知らなかったの? 令嬢たちも、結構ここに入れていることが多いのよ。……見たことない?」
「そそそっそんなところを、紳士の私がじろじろ見るわけないだろう!」
言いながら、レイトンはサッとハンカチを取り出してクリスティーヌの胸元を隠すように広げた。
「そもそも!!! 女性がこんな、む、胸元の見えるドレスを着るのはよくない!」
「出たわね。社交界でそんなことを言っているのはあなたぐらいよ」
令嬢たちは皆、普段からここぞとばかりに豊かな胸を見せつけるようなドレスを着ている。それにいちいち目くじらを立てている人物なんて、レイトンぐらいのものだろう。
「それより、本題に入ってもいい? わたくし、ずっとやりたかったことがあったの! あなたが手伝ってくれるなら、実現できるんじゃないかと思って」
言いながら、クリスティーヌは嬉々とした顔で『やりたいことリスト』が書かれた紙を広げた。
◆
数時間後。
「うぐぐ……。全然出ないわね……!」
ンモォ~と間延びした牛の鳴き声が響き渡る牧場で、町娘のような服に着替えたクリスティーヌが牝牛相手に格闘していた。
そこへ、場にそぐわない貴族服を着たままのレイトンがきびきびと言う。
「乳しぼりのコツはこうだ。根本をしっかりと握り、親指と人差し指をくっつけて輪を作る。それから中指、薬指、小指の順番でしぼる!」
言いながら、レイトンがビュービューと勢いよく牛の乳をしぼり出す。貴族服を着た姿は周りの風景となんともちぐはぐで、クリスティーヌは目を丸くした。
「レイトン……あなた手慣れているのね?」
「これくらい簡単だ」
表情を変えずに、レイトンが淡々と乳しぼりを続ける。
――ふたりは今、『最後の思い出作り』に来ていた。クリスティーヌが作ったリストの中にある、『牛の乳しぼりをしてみたい』という夢を叶えにきたのだ。
パブロ公爵領にある牧場の主はレイトンとも顔なじみらしく、クリスティーヌの要望を伝えると、いともあっさり乳しぼり体験をやらせてくれることになったのだ。
結局、その日クリスティーヌが散々格闘した末に得られたものは、お椀一杯の牛乳だけ。
けれど、初めて飲んだしぼりたての牛乳は、今まで飲んできたどんな飲み物よりおいしかった。
◆
二日目。
クリスティーヌは、今度はパブロ公爵領にあるリンゴ農家に来ていた。
リストに書かれていたのは『果樹の果物をもいでみたい』だったのだが、収穫のタイミングが合わず、仕方なくリンゴの摘果と呼ばれる間引き作業を体験することになったのだ。
「わたくし……リンゴって、一個一個、等間隔で木になるものかと思っていたんですが、そうじゃなかったのね?」
花にたくさん実った、リンゴの元となる小さな実を見ながらクリスティーヌは驚いたように言う。少なくとも本で見たリンゴの絵は、こんな風にいくつもの小さな実は連なっていなかった。
隣では飄々とした顔のレイトンが、太い指でぷちんぷちんと手際よく実をもいでいく。
「それは人の手が加わった結果だ。リンゴは放っておくと、意外とたくさん実がなる。だから間引きしてやらないといけないんだ。ここでは小さなものを、一、二個とるといい」
「わかったわ!」
レイトンの教え通り、どんどん不要な実をもいでいく。牛の乳しぼりと違って、こちらはクリスティーヌにも簡単にできたため、始終ご機嫌だった。
◆
三日目。
「やっぱり、ほんものの、クワ、は、重い、わねっ!」
ぽかぽかとした陽気の中、農作業着を着たクリスティーヌは勢いよくクワを振り上げていた。『畑を耕してみたい』という願いを叶えるために、農家に来ているのだ。
けれど危なっかしいクリスティーヌの動きに、見守る農家の主人がハラハラと声をかける。
「よ、よいんですかねえ……? 王家のお姫様に、こんなことをさせるなんて……!」
「大丈夫よ! 責任はすべてわたくしがとるわ。あなたたちにおとがめがくることはないから心配しないでちょうだい。……っとと」
話しているうちに重心がずれ、よろめいてしまう。そんなクリスティーヌを見ておかみが悲鳴をあげる。
「ああ、姫様! くれぐれもお気を付けください! 万が一にもお体に傷がつかぬよう!」
「心配かけてごめんなさい。でも大丈夫よ、わたくしももう少ししたら慣れるはず……ってあら?」
それから顔をあげてはたと気づく。目の前では、同じく農作業着を着たレイトンが、ザクッザクッザクッとものすごい速さで畑を耕していた。その動きは初心者丸出しのクリスティーヌと違って、手際よく小気味よく、どう見ても玄人の動きだ。
「レイトン……あなた、畑を耕したことがあるの?」
目を丸くして尋ねると、当然とばかりにレイトンはうなずいた。
「男として、これぐらいやらねば」
「男としてって……。ねえ、ここ数日ずっと不思議に思っていたんだけれど」
眉をひそめながら、クリスティーヌは聞いた。
「乳しぼりの仕方に、リンゴの間引き方に、畑の耕し方まで……どうしてあなたはそんなことを知っているの? わたくしが言うことじゃないけれど、あなたは公爵家の跡継ぎでしょう?」
公爵家と言えば、王家に次ぐ大貴族だ。彼が王女であるクリスティーヌを呼び捨てにしても許されるのは、ひとえに彼が公爵家嫡男であり、幼い頃からクリスティーヌや王太子である兄と、幼なじみとして育ったからに他ならない。
当然、大貴族のやるべき仕事は領地管理であり、王族補佐である。農民がやるような仕事とは、無縁のはずだ。
にもかかわらず、レイトンはそれらの仕事に手慣れすぎている。
問いかけてから、クリスティーヌはクワを置くとずかずかとレイトンに歩み寄った。それから彼の手を掴み、手のひらを見てあっと声をあげる。
そこにあるのは、なよやかな貴公子たちの手の平とは違う、厚く硬い手のひらだった。レイトンは一時期騎士団に在籍していたため、剣だこがあるのは予想していたが、手のひらにはそれだけではないたくさんのマメがあった。その手はまるで、農民の手のように節くれだっている。
目を丸くして見つめるクリスティーヌに、レイトンがしれっと答えた。
「私はいつも言っているだろう。女性は貞淑であれと。しとやかで、品よく、いつも微笑んでいればいいと」
「それは知っているけれど……それとこれと一体何の関係があるの?」
「大ありだ。女性がしとやかに品よく、いつも微笑んでいるためには、男ががんばらなければいけないだろう?」
何を当然のことを、と言わんばかりの態度で言われてクリスティーヌはぽかんとした。
「えっと……どういうこと?」
「いいか。女性が美しく優雅でいるためには、金がかかる。それに、家や身だしなみをいつも綺麗に整えるために、使用人を雇う金もいる。私は次期公爵だから金には困らないと思いたいが、この時勢、何が起こるかわからない。万が一戦争が起きて我が国が負けた場合は、家や爵位だって一瞬で失うかもしれない。でも、そんな時でも農作を知っていたら、少なくとも飢えさせずにすむだろう?」
大真面目に、真剣な表情で語るレイトンを、クリスティーヌは目を丸くして見つめた。
「つまりあなたは……何が起きても女性に苦労をかけないよう、農作や酪農を学んでいるってことなの?」
「そうだ」
ためらいなく力強くうなずかれて、クリスティーヌは我慢できずに吹き出した。
「ふっ、あははは!」
「なっ! 何がおかしい!?」
「だって、レイトン。まさかあなたがそんなことを考えていたなんて! 『女は慎ましくあれ』主義なのは知っていたけれど……」
口を押えてくすくす笑っていると、むっつりと顔をしかめたレイトンが言う。
「そ、そんなにおかしいことではないだろう……。私以外の男性だって、きっと同じことを思っているはずだ。……多分」
「そうかしら? お金の面で苦労させないはともかく、何かあった時にそなえて実際に農作まで手を出しているのはあなたぐらいだと思うわよ?」
「そうなのか!?」
衝撃を受けるレイトンを見て、クリスティーヌはまたくすくすと笑った。それから、頭を抱えてうめくレイトンの肩をぽんと叩く。
「でも、お世辞抜きで本当にすごいわ。きっとあなたの妻になる方はとっても幸せになるのでしょうね……。あら? そういえばあなたは、まだ結婚しないの?」
言いながらクリスティーヌは思い出していた。
レイトンは今年二十五歳だ。悠々自適な独身貴族を楽しむ男性も少なくないが、そろそろ結婚適齢期であることも事実。
だがクリスティーヌがそう聞いた瞬間、レイトンの瞳から蝋燭の火が消えるように、フッと光が消えた。
「……結婚は、しない」
「どうして? あなたは見ためこそ熊さんみたいだけれど、引く手あまたなのはわたくしだって知っているのよ? もし意中の令嬢がいるのなら、わたくしが口利きすることだってできるわ。あなたにはいつもお世話になっているし――」
「その話は、君であってもしたくない」
吐き捨てるような冷たい声に、クリスティーヌは自分が一線を踏み越えたことに気付いた。怒ったようにスタスタと歩いていくレイトンに向かって、あわてて声をかける。
「ごめんなさい、レイトン! わたくしとしたことがつい、個人的なことに立ち入りすぎてしまったわ。お願い、謝るから許して。もう聞いたりしないから!」
彼は普段からぷりぷりとしているが、本気で怒った時の圧は尋常ではなく、王太子である兄ですらたじろぐほど。しかも、一度怒るととてもめんどくさいのだ。前に無断で馬に乗ってあやうく落馬しかけた時なんか、怒って数カ月口を利いてもらえなかった。
結局、クリスティーヌがあの手この手で散々謝り倒して、ようやくなんとかレイトンの怒りを解くのに成功する。
(まだまだやりたいことは山のように残っているのよ。今ここでレイトンにそっぽを向かれなくて、本当に良かった!)
ずらっと書かれた『やりたいことリスト』に比べて、『最後の思い出作り』の期限は一か月しかないのだ。こんなところで喧嘩している場合ではない。
それからクリスティーヌはレイトンをひっぱりまわし、時に助けられながら、どんどんとリストを消化していった。
ある日は羊とともに牧草地を走り回り、ある日は機織り機と格闘する。魚を釣るためにミミズを釣り竿の先にくくりつけたし、鶏が生んだ卵を朝一で回収しに走り回ったりもした。街では屋台での買い食いを楽しみ、服を貸してもらって一日看板娘体験をしたことも。そして、しぶるレイトンに頼み込んで、男装してキャバレーに連れて行ってもらったのはいい思い出だ。
どれもが楽しく刺激的で、願いをひとつ叶える度にクリスティーヌは行儀も忘れ、声をあげて笑った。そうするとまたレイトンに注意されるのだが、心なしか、彼も楽しそうだった。
一日一日が、宝石のようにキラキラと輝く、そんな毎日だった。
「――本当に一か月って、あっという間。もうちょっとゆっくりでもいいのに」
大聖堂の時計台から顔をのぞかせながら、クリスティーヌは沈みゆく夕日をまぶしそうに見つめた。南国の海を生みわせる鮮やかなブルーグリーンの瞳が、今は切なげに細められ、ゆらゆら、ゆらゆらと夕日に照らされた海面のように揺れている。
そんな彼女が誤って落ちないようにしっかりと支えながら、レイトンが尋ねた。
「もうまもなく、約束の最後の一日が終わるのだぞ。ここでのんびり夕日を見ていてよいのか? 時間がもったいないのでは……」
「もう。レイトンったら本当に情緒がないわね。リストの消化も大事だけれど、最後の一日なのよ? 少しは感傷に浸らせてよ」
「す、すまない」
指摘されて、レイトンがあわてて謝る。クリスティーヌはぷっと笑った。
「でも、それもあなたらしいわね。何事も即断即決で現実重視。その行動力と思い切りの良さのおかげで、わたくしも最後にたくさん思い出をつくれたわ。もう思い残すことはない……と言ったら嘘になるけれど、心の整理はついたわ」
(わたくしは友好のためにパキラ皇国に嫁ぎ、後宮に入って、そこで一生を終える。――それが王女であるわたくしの務めだものね)
顔を上げて、はるか空のかなたを見る。あの雲の向こう、灼熱の太陽がぎらぎらと照り付ける地にパキラ皇国はあるのだ。
「……クリスティーヌ、君は」
「ん?」
話しかけられて、クリスティーヌがレイトンを見る。けれどヘーゼルの瞳が揺れたのは一瞬だけで、すぐに彼はふいと目をそらした。
「……いや、何でもない」
「何よ、気になるじゃない。最後まで言いなさいよ」
詰め寄ると、レイトンがバツの悪そうな顔になる。
「悪かった。何でもないんだ、忘れてくれ」
「あっ、そうやって何事もなかったことにしようとするのね? そうはさせないわよ!」
言うなり、クリスティーヌはがばっとレイトンに飛びついた。
「!?」
それから目を丸くする彼の服を引っ張ってぐっと自分の方に引き寄せると、クリスティーヌはレイトンの唇に自分の唇を押し付けた。
「……っくくくく、クリスティーヌ!?」
次の瞬間、ぼんっと顔を真っ赤にしたレイトンがのけぞって叫んだ。その顔を見ながら、クリスティーヌがにやりと笑う。
「……ふ。やってやったわ。やりたいことリストの『キスをする』を達成よ!」
「なんっ!? なんてことを君は!!! 王女として、いや女性としてあるまじきっ……!!!」
予想通り顔を真っ赤にして怒るレイトンを置いて、クリスティーヌは笑いながらさっさと階段に向かって逃げていく。
「堅苦しいことを言わないで。たった一回だけじゃない。あ、それともまさか、初めてだったの!? ごめんなさい。あなたの初めて、わたくしが奪ってしまったわ」
「クリスティーヌ!!!」
レイトンの怒鳴り声を聞きながら、クリスティーヌはからからと笑って階段を下りた。
――紙には書いていなかったが、やりたいことリストの最後は、『好きな人とキスをすること』だ。
十三の時にパキラ皇国に嫁ぐと決まってから、武骨な幼なじみに対する想いはずっと封印してきた。それをほんの少しだけ、自分に許したのだ。最後の最後に、彼に口づけることを。
(パキラ皇帝だって、これぐらいは許してくれるわよね?)
帰りの馬車の中で、レイトンはずっと無言だった。眉間に深いしわが刻まれているあたり、今度こそ本気で怒らせたのかもしれない。
(仕方ないわ。レイトンは、女性のはしたないふるまいが大嫌いだもの。……わたくしのことも、軽蔑しているのかもしれないわね)
こうなることは覚悟の上。それでもクリスティーヌはやりたかった。
だって、クリスティーヌはこの先、何年、何十年と後宮で生きていかねばいけないのだ。これぐらいの思い出は欲しかった。
◆
けれど、彼の怒りは、クリスティーヌが思っていたよりもずっと深かったらしい。
ふたりが最後に出かけた日を境に、レイトンはぷっつりと王宮に姿を見せなくなってしまった。それどころか、社交界でも彼の姿を見たものはいないのだという。
父や兄なら何か知っているかと問い詰めてみたものの、彼らもただただ困惑しながら首を振るばかり。
そうしてレイトンが行方不明になってから、一か月が経ち、二カ月が経ち、三か月が経ち――。
気づけば、あっという間にクリスティーヌは輿入れする日を迎えていた。
部屋の中、侍女たちに花嫁衣装を着せられながら、クリスティーヌが暗い気持ちで考える。
(とうとう、この日が来てしまった……。こんなことなら、何もしない方がよかったの? そうしたら、残り少ないこの数カ月の間だけでも、前と同じように言葉を交わせていたのかしら……)
せめて、最後に一度顔を見たかった。
口には出せない想いを飲み込んでうつむいていると、バタバタと足音がして、焦った顔の侍女が部屋に飛び込んでくる。
「姫様、急いでお支度を! どうやら、パキラ皇帝が直々にいらしているようで……!」
「皇帝が?」
その言葉に、にわかに部屋の中が騒がしくなる。あわてて支度を終えたクリスティーヌは、父王に呼び出されるまま、謁見の間へと急いだ。
(なぜ、皇帝がわざわざここに……? 花嫁を迎えに来たなんて話、聞いたことがないのに)
通常、輿入れは粛々と行われるものであり、皇帝が花嫁の祖国に迎えにくるなんて聞いたことがない。クリスティーヌと皇帝は会ったことすらないため、先方が待ちきれなくなって迎えに来たという可能性も低い。
疑問を抱えながら行った謁見の間では、国王夫妻である両親と兄と、それからこの国では見たことがないような豪奢な衣装に身を包んだ男――パキラ皇帝がクリスティーヌを待っていた。
『やあ、こちらがクリスティーヌ姫か。これはまた、なんとも美しい』
黒い髪に、日に焼けた肌。黒い瞳は鷹の目のように鋭く力強く、父である国王とは違った圧迫感を放つ美丈夫だった。年の頃は、レイトンより十歳ほど上ぐらいだろうか。クリスティーヌは無言のまま、淑女らしい優雅なお辞儀を返す。
そんなクリスティーヌを見て、皇帝がまたふぅむとうなる。
『これは少し早まってしまったな。こんなに美しいのなら、あの男の言うことなど聞かず、黙って我が後宮に連れ込んだ方がよかったかもしれぬ……』
(あの男?)
皇帝の流暢なパキラ語をなんとか聞き取りながら、クリスティーヌは疑問に目を細めた。そこへ、懐かしい声が響く。
『陛下、私との約束を忘れないでいただきたい!』
皇帝の後ろからスッと進み出て来たのは、まぎれもなくレイトンその人だった。
(レイトン……!? でも、なんだか雰囲気が……)
彼の姿は、最後に会った時よりもずいぶん様変わりしていた。
やや丸みを帯びていた顔も体も、ぎゅっと引き締められて猛々しさが加わっている。鎧を着ているにもかかわらず、その上からでもたくましい筋肉が存在を主張し、無駄をそぎ落とされた顔には、武人のような精悍さと凄みが浮かんでいた。
レイトンの飛ばした鋭い牽制に、皇帝が顔をしかめる。
『わかっている。レイトン、お前は私との約束を果たした。だから今度は、私がお前の願いを聞き入れる番だ』
わけがわからず困惑するクリスティーヌに、兄が状況を説明してくれた。
いわく、レイトンはクリスティーヌと別れた翌日には、手紙を残して私兵とともにパキラ皇国へ旅立っていたらしい。
そして『長年皇国を困らせていた南の部族を制圧する代わりに、成功した暁には褒賞としてクリスティーヌ姫を妻にもらい受けたい』と言ったのだと。
『驚いたよ。突然肌の白いずっしりした奴がやってきたと思ったら、変なことを言い出すのだから。よくわからないが面白そうだし、じゃあやってみろと言ってみたら、本当に数カ月もたたないうちに部族長の首ねっこをひきずってくるしな』
言いながら、パキラ皇帝がクリスティーヌを見る。その目は笑っていた。
『南の部族はな、我々も何度も苦戦を強いられてきた目の上のたんこぶだったんだ。そんなところ相手に一体何をやるのかと思ったら……あの見た目でまさかの知略だぞ? 誘導と罠を使ってごっそり戦力を削っただけでも拍手喝采ものだったのに、その後のレイトンの暴れっぷりと言ったら』
言って、皇帝が心底愉快そうに笑う。
『剣じゃなくて、巨大な鉄槌で敵をバッサバッサと吹き飛ばす様は、いっそ爽快感すら感じるほどだったらしい。聞けば、戦場では敵に"地獄から来た筋肉だるま"と呼ばれていたらしいな』
(き、筋肉だるま?)
聞いたことのない単語に首をかしげていると、気づいたらしい皇帝が言い直す。
『ああ、この国にはまだ"だるま"は知られていないのか? 失礼。"地獄から来た鬼神"とでもいえばいいかな』
(鬼神……!? レイトンは騎士団の中でも好成績だとは聞いていたけれど、まさかそんな才能もあったなんて)
クリスティーヌがちらと見ると、彼は若干居心地悪そうに眉間にしわを寄せていた。誉め言葉にあまり喜ばないタイプなのだ。
『陛下。私の話はいいので、それより本題へ……』
『そうだったな。こんな美しい女性をみすみす逃すのは心底残念だが……皇帝たるもの、約束は守らねば』
そう言ったパキラ皇帝が、父王を見てうなずく。どうやら父も既に話を聞いているらしく、その顔はおだやかだ。続いて皇帝がクリスティーヌを見る。
『クリスティーヌ姫よ。そなたとの婚約は、解消する。もう、そなたは自由だ。……ほら、これでいいのだろうレイトン?』
皇帝の声に、今度はレイトンが力強くうなずいた。その瞳は見たことがないほどキラキラと輝いている。レイトンの姿に、皇帝は呆れたように言った。
『まったく、ご褒美をもらった子どもみたいな顔をしているなお前は。戦場のあばれっぷりとは別人のようだ。……さあ、お膳立てはしてやったぞ』
皇帝の声に、レイトンがずいとクリスティーヌの前に出てくる。その顔は珍しく緊張しており、こちらを見ようとはしない。彼はしばらく深呼吸を繰り返したかと思うと、おもむろにその場に片膝をついた。それから。
「クッ、クリスティーヌ王女よ」
一瞬声が裏返った。後ろでは皇帝が吹き出さないよう必死に我慢している。
「昔から……ずっと君のことが好きだった。私はその……見目麗しい方ではないし、歳も離れているし、君は既に婚約していたから諦めようと思っていた。だが……どうしても諦めきれなかった。だから、君を取り戻したくてパキラに行った」
その顔は、今や耳まで真っ赤だった。
「……クリスティーヌ王女よ。こ、こんな私と、どうか結婚してもらえないだろうか!」
「レイトン……」
クリスティーヌは目を丸くした。
それから、がばっとレイトンに飛びつく。
「おわっ! 危ないじゃないか、クリスティーヌ!」
驚いたレイトンが、クリスティーヌを抱えたまま急いで立ち上がる。足元がふわりと浮く感覚にも構わず、クリスティーヌはぎゅっとレイトンの太い首を抱きしめた。
「嬉しいわ、レイトン。わたくし、あなたのお嫁さんになれるのね? それなら、あなたともっとデートすることも、あなたと結婚式をあげることも、結婚一年ごとにうんとお祝いすることも、全部できるのね?」
顔を上げて彼を見れば、レイトンはこちらを見て微笑んでいた。
「もちろんだ。君の『やりたいことリスト』を、これからたくさん一緒にやろう」
クリスティーヌは満面の笑みになった。
「それならわたくし、子どももうんとたくさん欲しいわ! 最低でも男女それぞれ三人ずつぐらい! だから早く子作りを――」
「まっまて、クリスティーヌ! それ以上はいけない!」
途端に、大きな手がクリスティーヌの口をふさいだ。見れば、彼の顔がまた真っ赤になっている。
「もご、もごごごごご(あら、ごめんなさい)」
あちゃーという顔で顔を押さえる両親や兄の顔を見ながら、クリスティーヌは謝った。
それからにっこりと微笑んで、皆が見守る中、レイトンの唇に自分の唇を押し付けた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
もし少しでも面白いと思っていただけましたら、ブクマや広告下の☆☆☆☆☆部分で評価してくださると、泣いて喜びます。
また、本作は
『隠れ才女は全然めげない~義母と義妹に家を追い出されたので婚約破棄してもらおうと思ったら、紳士だった婚約者が激しく溺愛してくるようになりました!?~』
と世界観が繋がっています。
二十年後のクリスティーヌとレイトンが少し登場しますので、興味がある方はよければ下のリンクからどうぞ~。
ここまでお読みいただきありがとうございました!