エルフワサビ
「……ああ――」
――オワタ。
小洒落た木工細工のテーブルの上、所狭しと並べられた料理を目にした宇於崎剣路は舌鼓を打つどころか舌打ちしたい気分で項垂れた。
和洋中、名前こそ異なるものの味も見た目もいずれもどこかしら覚えのあるメニューばかりだ。
料理こそが、最後の希望だった。
突然のトラック事故で『死んだぁ!?』と思った瞬間、女神を名乗る露出過多の爆乳美女から異世界への転生を告げられ、『転生特典は何がいいかしら?』という問いに『どんな相手も指先一つでダウン可能な超々戦闘力オナシャス!!』と答えたのが、およそ半月前。
漫画やラノベ、ゲームみたいな剣と魔法のファンタジー世界。
生来切り替えの早かった剣路は『いつまでもグジグジしていても仕方がない、この新しい人生を、最強の戦闘力を持ってして勇者英雄となり華々しく生きていこう。オレ・サーガの開幕だ!!』と意気込んだ。
……一時間後に、まずその第一歩をくじかれた。
『はぁ? 魔王? 魔物の襲来? 他国との戦争? ……そんなの、小競り合いを除けば最後に大きな戦争があったのなんて五〇年くらい昔のことだぞ?』
転生直後、適当に街をぶらつき、人の良さそうな商人風の男に質問した結果がそれだった。
どうやらこの世界は剣も魔法もあれば魔族も魔物もいるけれど、現状これといった争いはなく概ね平和な時代が続いているらしい。
では戦闘力を生かした職業は何か無いか? と剣路が尋ねると、男はむぅっと悩んでから『国軍の兵士になるか、都市の警邏隊に入るくらいじゃないか?』と教えてくれた。
五〇年前の戦時中はまだ冒険者や傭兵といった職業も重宝されたらしいが、今となってはそんな不安定な職とも呼べぬ職に就きたがる物好きなどおらず廃れて久しいとのこと。
また、強力な魔獣なども殆どは駆逐され、剣路が思い描くような人に仇為す巨大なドラゴンなどといった存在は地球で言うところのUMAみたいなものときた。
果たして現代の地球でネッシーハンターやモケーレ・ムベンベハンター、オゴポゴハンターにムビエル・ムビエル・ムビエルハンターなんぞが真っ当な職業として成り立つであろうか?
答えは否。
物好きなパトロンでも見つけ水曜スペシャル的な企画でも成功させない限り、すぐに飯の食い上げだろう。
要するに、剣路が得た転生特典の能力はまったくもって現在のこの世界には必要のない過剰戦力だったのだ。
――で。
この世界での剣路はどれだけ強かろうとも無一文。
『女神から貰った特典の力があれば冒険者なりなんなりで稼ぎ放題だろう』という楽観極まりない目論見はあっさり外れてしまい、さりとて暴力に任せて悪事を働くには彼は心根が善良すぎた。
仕方なく警邏隊に入隊を、と考えたのだが腕っ節が強ければ即入隊可などというわけにもいかず、どうやら面接や筆記試験もあるようで、転生特典……のおまけのサービスにより一応の戸籍もあるし会話も読み書きも可能ではあったのだけれどそれ以外にはこの世界の歴史風俗政情その他当たり前の事を何一つ知らない剣路に試験なんて土台無理な話だった。
この国の五代前の国王の名前?
シール・カ・ヴォケェ。
ちなみにこの世界、ファンタジー世界っぽいくせに教育の水準も高く就学率も上々、今時は辺境の農村に暮らす子供達ですら当たり前に読み書きが出来、簡単な生活魔法くらい誰でも使えるのだという。
かたや剣路は戦闘能力だけを願ってしまったがばかりに戦闘に関する魔法以外はてんで使えなかった。世界有数の大魔道師が数十人集まっても使えない大規模殲滅魔法は鼻くそほじりながらでも行使出来るのに、その辺のガキンチョですら使える“暗い夜道を照らす魔法”が使えないのだ。試しに使おうとしたら大出力のビーム砲が出て山が欠けた。
そんな男が真っ当に就職出来る道理があろうか……?
結局、親切な商人風の男(実際に街の雑貨屋の店主だったため見た目に違わず商人だった)に紹介して貰った日雇いの土方仕事で小金を稼いでは安価な保存食や弁当で腹を満たし、安宿の一室をひとまずの拠点にしつつ剣路はどうにかして転生者の強みを生かし身を立てられないか考えてみた。
前世での剣路の趣味はほぼほぼインドアだった。
読書家だった母の影響で子供の頃から活字に触れる機会は多く、またその延長から小説以外にアニメや漫画もそれなりに好きで、ゲームもよくプレイしていた。
特に異世界転生モノやそういった手合いのラノベも好んで読んでいた剣路は、よくある展開として元いた世界――地球の知識や技術をこの第二の人生で生かせないものか頭を捻ってみた……のだが、残念ながら早々に断念せざるを得なかった。
そもそも、学校の成績が特別良かったわけでもなければ趣味に関しても一つのジャンルに造詣が深かったわけでもない平凡な少年なんて万事につけてタカが知れている。
専門的な知識?
wiki見ながらじゃないと無理。絶対無理。
この世界はこの世界で、何千年にも渡り発展してきた様々な技術体系が確立されている。
それも魔法という剣路にとっては物語の中のものでしかなかった未知の術理がそこかしこにしっかりと根付いているのだ。
見た目は中~近世ヨーロッパ風ファンタジー世界なのに、温度調節魔法によって各ご家庭の冷暖房は完備されているし、通信魔法によってテレビや電話どころかインターネットに類似する環境まで整えられてしまっている。
下水? 生ゴミ? そんなもの亜空間魔法でポイッだ。
建築も、交通も、娯楽も、何なら地球よりもよっぽど発達していて、これではにわか仕込みの半可通知識でブレイクスルーのパラダイムシフトなど夢のまた夢だった。
『畜生あの女神! どういう世界なのかの説明を怠りやがって! 特典貰う代わりに爆乳思う存分揉みしだいてやればよかった!!』と後悔してもアフター・ザ・カーニバル。
追い詰められた剣路に残されていたのは、地球人としてではなく日本人としての特性を活かす道。
世界でも希に見る美食大国だった日本の料理知識で成功を収める、これも異世界転生のお約束の一つだ。
それまで日雇いの現場で食べていた弁当の中身や、適当に市場をぶらついてみてわかったことだが、この世界の動植物は地球のそれと大きな違いはないようだった。
豚や牛、鶏らしき家畜はいるし、麦もジャガイモもトマトもほぼほぼ同じものがある。
Web小説を読んではしょっちゅう『なんで中世ヨーロッパみたいな世界にジャガイモやトマトがあるんだよwwww 作者モノ知らなすぎwwwwww』とジャガイモ警察として活動していた剣路だったが、実際目の前にあるのだからどうこう言っても意味が無い。
似たような環境の世界である以上、類似する原種があればそこから栽培、品種改良が進むのもまた自明の理であった。
とは言えものは考えよう、むしろよく知っている食材があるのだからまるで知らない食材をいじくれと言われるよりよっぽどやりやすいし、チャンスだ。
前世ではそこそこ自分で料理もしていたし、料理漫画だって結構読んでいたため『これならどうにかなるのでは?』と剣路は取り敢えず調査もかねて食事処を巡ってみた。
――が。
三軒も回る頃には剣路は自身のどうしようもない浅はかさにまたも泣きたくなっていた。
そもそも類似の食材がある以上、平凡な高校生だった剣路が思いつく程度の簡単な料理、存在しない方がおかしかったのだ。
かつて彼が読んだラノベでは、主人公は唐揚げを揚げたりハンバーグをこねたり刺身を饗しただけですわ『料理の天才か!?』とヒロインやお偉いさん方に褒めそやされモッテモテのメシポ状態だったのだが、そんなの一軒目の食堂でフルコンプだった。
当然だ。
鶏肉と小麦粉、油があるのに、数百年、数千年に渡って誰もそれを揚げるという調理法を思いつかないなんてどんな天文学的確率だろう。
挽肉という概念があればそこからハンバーグや肉団子なんて子供でも考えつく。
魔法のおかげで保存技術は地球よりもよっぽど優れているのだからして、内陸部だろうと獲れたての海産物が食べ放題、とくれば生食文化だってそりゃあるだろう。
二軒目はカレーが看板メニューだった。
大変美味しいバターチキンカレーだった。普段ジャワワかババーモントの中辛しか食べてなかった剣路は『カレーってこんなに美味かったの!?』と驚嘆し、感動した。
三軒目ではラーメン。
いったいどんだけ煮込んだんだろうって戦慄するくらい白くドロッドロのくっさい豚骨スープに親の仇みたいにぶちまけられた大量の背脂は不健康の権化みたいな見た目のくせにしつこすぎずやたら食べやすかった。
そう、食べやすいし、美味しいのだ。
化学調味料の刺激に慣れきっていた舌は初めのうちは『この世界の食べ物ってちょっと薄味かなぁ』なんて感じていたのだが、飯屋巡りをしていれば嫌でも気づく。
薄くなんてない、調味料に頼りすぎずとも各食材の味が濃いのだ。
地球で食べていた似たような料理とは比較にならないくらい、格段に。
少し調べたら理由はすぐにわかった。
この世界、土魔法によって長年に渡り土壌は改良され続けておりどんな野菜も養分たっぷり、大きくて旨味も濃く、虫除けや除草も魔法で手軽に行えるため殺虫剤や農薬なんて存在すらしていないときた。
栄養満点の美味しい野菜はそのまま家畜にとっても最高の餌となる。
浄化魔法によって清潔に保たれた厩舎、空間魔法によって数倍にまで拡げられた放牧場で美味しい餌を与えられながらストレスなく飼育された牛や豚の肉は、場末の定食屋の焼き肉定食ですら地球のブランド肉を食べているかのようだった。
さらに剣路を驚愕させたのは、ドクツルタケやフグのキモなどが平然と売られている光景だった。
地球では猛毒扱いされていたものもこの世界には解毒魔法があるため簡単に無毒化出来てしまう。うっかり毒に中ってしまっても解毒なんて最低限の魔法の素養さえあれば誰でも容易に出来るので死亡事故なんて百年単位で起こっていないらしい。
猛毒食材は、どれも大層な珍味だった。
その後、家畜化された魔物肉という未知の美味にも打ちのめされ、剣路は安宿の一室で膝を抱えていた。
所詮剣路など、同年代の男子の中ではしょっちゅう料理をする方だと言ってもマルミー屋の“○○の素”と材料をお手軽に混ぜて炒めて『趣味は料理です』なぞとのたまっていただけの平凡なDK。
この世界は全体的に素材の味を活かす傾向にあるため、地球のフランス料理のような凝りに凝ったソースをふんだんに扱うといった系統の料理はあまり発展していないようではあったが、そこまで難易度の高い料理を剣路が作れるわけもなく……
『地球の洗練された料理でファンタジー世界の人々を驚愕させてやるぜ!』なんて烏滸がましいにも程があったのだ。
もうどうしようもない。
数日後、剣路は全てを諦めつつあった。
このまま日雇い仕事で食いつなぎつつ、少しずつ勉強し簡単な生活魔法なんかも学んで、いつかは定職に就けたらいいなぁ、なんて。
そうやってこの異邦の地で、何者にもなれずゆっくりと朽ち果てていくのだ。
もっとも今のこの人生自体が死後の余録なのだと考えればそれだって決して悪いものではない気もした。
でも、どうせなら――
定食屋で頼んだ刺身定食を食べつつ、剣路はふっと息を吐いた。
ゆっくりと朽ち果てるまで、下手をすればこの世界で何十年と生きていかなければならないのだ。ならば、せめて場所は選びたい。
自らの終の棲家とするには、この街――否、国に不満はなくともさりとて充分とも言えなかった。
剣路は日本人だ。そしてこの国は、地球で言うところのヨーロッパ風だ。
そのため今までは洋食っぽいものを中心に食べていたのであまり気にならなかったのだが、いざこうして和食系を注文してみるとこの国では米も剣路が慣れ親しんだ粘り気のある短粒のジャポニカ米ではなく、細長くてパサついたインディカ米であることをしみじみと思い知らされる。
醤油も味噌もある。
和食っぽい料理体系は存在している。
けれど完璧ではない。
ひと味かふた味、足りない。
ほんの一年か二年程度なら我慢も出来るだろう。
一生、再び死ぬまでずっとというのは、嫌だった。
剣路は改めてこの世界について調べた。
どこか欠けた感じのする和食っぽいメニューの数々には、その原点となった、言うなれば日本とよく似た国なり地域なりが存在していて、この国にあるものはあくまでそこの郷土料理をこちらにある食材で再現している、要は『アメリカやヨーロッパにある和食レストラン』みたいなものなのではないかと考えたのだ。
果たして結果はドンピシャリ。
案の定というかお約束というか、ずっと東に行った先にジャポニカ米らしき米を主食とする地域があることがすぐにわかった。
ならば、と。
元日本人らしく、せめてそこで生きようと剣路は決心した。
山と森が国土の大半を占め、清らかな水の流れる東の果て――エルフの国で。
■■■
「うわ……マジで見覚えのある風景だな」
事前に情報は得ていたものの、魔導列車の車窓からいざ実際に目にしたエルフの国はまさしく日本の片田舎そのものだった。
剣路の父方の祖父は中伊豆に住んでいたのだが、気候や植生がそこと非常によく似ているのだ。
風に乗ってくる匂いがとても懐かしい。
駅舎を出て、街の様子をつぶさに観察する。
西国と比べて街の中でも街路樹や花壇など自然が多い。周囲は山ばかりだ。
建築様式はいかにもな和風ながら、洋画に出てくるなんちゃってジャパンみたいに細かいところが微妙に異なっている。
往来を行き来するエルフ達ともすれ違った。
美しかった。
もっとも、“エルフ”といっても転生特典による自動翻訳機能で脳が剣路の知識と摺り合わせ地球とこの世界とでもっとも近い存在を勝手にそう呼称しているだけなのだが、その姿たるや、男性も女性も長く尖った耳を持つ美形ばかりでなるほど顔に関しては剣路の抱くイメージのエルフそのものだった。
イメージとかけ離れていたのは、顔以外だ。
エルフといえば、最近ではやたらとスタイルが良かったりもするが、子供の時分に母の影響で古めのラノベやファンタジー小説に親しんでいた剣路の中には“どちらかと言えば小柄でスレンダーな種族”という『八〇、九〇年代の日本人が思いつく典型的なエルフ』的レトロな先入観があった。
なのに、男性は筋骨隆々としたガタイのいい人が多いし、女性も背が高めで身長172cmの剣路と同じくらいか、むしろそれ以上の人も少なくない。
何より驚いたのが、彼ら彼女らの服装だった。
着物なのだ。
食べ物や建築から予想はついていたが、ファンタジーゲームでありがちな“東方に存在する侍や忍者がいる日本っぽい国”に該当するのがこの世界におけるエルフの国らしく、着物に限らず細かな差異はあれど衣類はほぼ和装に違いなかった。
さすがにチョンマゲまでは結っていなかったものの、金髪碧眼で体格のいい男女が着物姿で歩いているのだから剣路の感覚では映画村のコスプレ観光客にしか見えない。
しかもどのエルフ女性も出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいるグラマー体型なせいでより一層コスプレ感が増している。
キュッと細く締まった腰に巻かれた帯の上に、ででんと大ボリュームのお胸様が乗っかっていらっしゃるその姿はどう見ても二次元なんちゃって時代劇キャラの実写化だった。
(でもまぁ、水は清く豊か、国土の大半が山と森……言われてみると日本ってエルフの国っぽいものな。古代の信仰も、アニミズムって言うんだっけか。元々考え方がファンタジーのエルフに近いと言えば近いし)
そんな風に“日本人=エルフ説”などと珍妙な新説を脳内で展開させながら、剣路は『せっかくだから初めてはなるたけ美味しいエルフ米を味わいたいな』とおそらく人気店なのであろう混雑している食堂の暖簾をくぐった。
暖簾に描かれていた菖蒲の絵がこれまた故郷を感じさせて少しだけ涙腺が緩んだ。
兎にも角にも、まずは白いご飯だった。
メニューと暫し睨めっこし、おかずはこの際刺身だろうが天麩羅だろうが豚の生姜焼きだろうがなんでもいいので剣路は白いご飯を食べたかった。
「お待たせいたしましたー。焼き魚定食でーす」
悩んだ末に、剣路は焼き魚定食を頼んだ。
運んできた元気の良い女給さんも無論エルフだ。おっぱい大きい。
魚はその日の仕入れによって変わるそうで、本日は鰯だった。
脂の乗りきった真鰯に、大根の煮物、ワカメと豆腐の味噌汁、香の物、そして……ツヤツヤと純白に輝くふっくらと炊けたご飯。
前世においては別段気に懸けたこともないような、何なら夕飯にこんなもの出されても『なーんだ、ただの焼き魚か』と母に毒突きかねない程度の、あまりに平凡で日常的なお惣菜だった。実際この店のメニューの中でも一番安い部類だ。
「……いただきます」
両手を合わせ、箸を取る。
茶碗を持ち、ゴクリと喉が鳴った。
一心不乱に剣路は白飯をかっ込んだ。
「お客さん、すいませーん。ただ今大変混み合っておりますのでこちらのお客さんと相席お願いしてもよろしいで……っアィェエエエエエーーーーーッ!?」
新たな女性客を剣路の卓まで案内してきた女給の驚愕の叫びが店内に響き渡った。
「おっ、お客さん、いったいどうなさったんですか!?」
剣路は、泣いていた。
両眼からツーッと涙を流し、それでも箸は動かし続けていた。
美味しい。
鰯が美味しい。
味噌汁も美味しい。
香の物も美味しい。
何より、美味しいおかずと交互にかっ込む白米が、たまらなく美味しい。
「あ、いや、すいません。ご飯、凄く美味しくて……」
「は、はぁ。美味しいだけで他に問題がないのならよかったんですが……えっと、本当に大丈夫ですか……?」
「大丈夫です。……あ、いや、大丈夫じゃないや。ご飯、おかわりください」
「おかわり、え、えぇ……おかわりですね?」
まだ心配そうにチラチラ見てくる女給へと、あっという間に空になった茶碗を差し出し剣路は照れ臭そうに苦笑した。
「あ、それと、そのー……相席を、お願いしたかったんですけど……」
「俺は構いませんよ」
剣路からは快諾を得たものの、ご飯を食べて突然泣き出す、しかもエルフではない人間族の男だ。
やはりやめた方がよいだろうかと連れてきた女性客に視線で問うた女給だったが、相手はクスリと柔らかく微笑むと、
「ではお言葉に甘えて。相席、失礼する」
荷物を脇に立てかけ、するりと剣路の向かいに腰掛けたのだった。
「西国からわざわざエルフ米を食べるために?」
「向こうで食べられるお米はどうにも自分には合わなくて。両親が亡くなったのを機に、どうせならやはり幼少期に食べていたこちらのご飯を食べて暮らしていきたいな、と思い立ちまして」
『自分は人間ではあるが父の仕事の都合で子供時代をこのエルフ国で過ごし、五歳になるかならないかの頃にこれもまた父の仕事の関係で西国へと引っ越した。ところが先日、そんな父と、続けて母も病で亡くなり、他に近しい親類縁者もいない身の上でどうにもエルフ米の味が懐かしくなって、たまらず戻って来てしまった』という剣路の即興でまかせ話を特に疑う様子もなく、ポラ・ノバーダと名乗ったエルフ女性は相づちを打ち、ざる蕎麦をツユにつけると美貌に見合わぬ豪快さでたぐり込んだ。
薬味を入れず薄味のツユでズズッと美味そうにすするその姿は、まさに蕎麦食いといった様相だ。
「そうか。確かに、子供の頃に慣れ親しんだ味というのは幾つになっても忘れがたい郷愁の味なのかも知れないな」
うんうんと頷くポラは腰までありそうな煌めくブロンドをポニーテールに結わえており、向かい合って座っていると目線がほぼ同じ高さなため脚の長さを考慮すれば剣路よりも僅かに身長は高そうだった。
そんな長躯を女物の着物ではなく男性的な羽織袴に包み、編み上げのブーツを履いてテーブルの脇には木刀袋を立てかけてある。
男装にハイカラさんをミックスした金髪ポニテエルフの剣術美少女――いくらなんでも属性盛りすぎだ加減しろと叫びたくなったが似合っている以上は剣路としてもツッコミなぞ引っ込めるしかない。どんな世界だろうと綺麗・可愛いは正義なのだ。
聞けば武家の娘で、剣術の道場で師範代を務めているのだという。その賜か、ハキハキとハスキーなヴォイスで滑舌良く喋るため話しやすい。
一方で、蕎麦をたぐる姿勢、たたずまいは武道家らしく大変整っている。
剣路の感覚で言えばコスプレ外人が日本の定食屋でズルズル蕎麦をすすっているシュール極まりない絵ヅラなのにも関わらず、ポラのそれはむしろ格好良くさえあった。『人ってこんなにも格好良く蕎麦を食べられるんだ』と感動すら覚えた程だ。
女性を形容するには不適格かも知れないが、剣路は彼女の仕草を“いなせ”だと感じた。
とは言えどれだけ仕草が“いなせ”でも、他のエルフ女性の例に漏れず胸も尻も大ボリュームなせいか正面を向いて会話してるだけでもゴリゴリと精神力を削られていくのが難点だった。
油断すると自動的に視線が下がってしまいそうになるのを剣路はタクアンの味に集中することでかろうじて堪えた。
塩味、甘味、渋味、酸味、苦味、それに糠の風味が複雑に絡み合い、パリポリとした食感も相まってこれぞタクアン、ザ・タクアンな旨味が口の中いっぱいに膨らみまたご飯をかっ込みたくなってくる。
タクアンを食べてご飯をかっ込み、キュウリの浅漬けを食べてご飯をかっ込み、白菜の浅漬けを食べてご飯をかっ込む。無限ループの完成だ。
「西国の方は納豆や漬物が苦手と聞くが、剣路殿が美味しそうに香の物をパリポリしているのもそれならば得心がいく」
「あー……確かに、その辺りが苦手という人は多いかも知れません。他国の、特に発酵食品は慣れていないとどうしても辛いところがあったりしますからね。俺としてはこれだけでもご飯が三杯はいけそうと言うか、いや美味すぎでしょこの漬物。こんなの日本でも食べたことがない」
「ニ、ホン?」
「いや、こっちの話です」
悔しいことに前世で剣路が食べていた漬物なんて比較にならないくらいエルフ国の漬物は美味しかった。
タクアンも、キュウリと白菜の浅漬けも、添加物など一切使用していないのに加え、やはり素材が違いすぎるのだろう。そのくらいは剣路の雑な舌でもわかってしまう。
「ふふ、しかし本当に良い食べっぷりだ。久方ぶりの郷愁の味とは言えそこまで美味しそうにエルフ食を食べて頂けるとは……一人のエルフとして面映ゆいな。こう見えて、私も食事には結構なうるさ型なんだ。美味い飯屋が知りたいなどあれば遠慮なく訊いてくれ」
袖振り合うも多生の縁、という諺に類する言葉がこの世界にあるかどうかは剣路のあずかり知らぬところではあるが、ポラとの出会いはまさに僥倖だった。
ブロンドポニテでおっぱいでっかい美人のエルフ剣術家と仲良くお話出来ただけでも儲けもの、しかも今後も親しくやっていけそうな流れにこの転生は間違ってなかったと剣路はようやく女神に感謝した。
「そいつはありがたい。引っ越す前は子供舌で食わず嫌いしていたものなんかも今なら美味しく食べられるんじゃないかと色々期待して戻って来たので、美味しいお店を教えていただけるのなら助かります」
「ああ、任せてくれ。ご両親が亡くなられて戻って来た、ということは旅行ではなくこちらで仕事を探して居を構えるつもりかな?」
「そのつもりです。なんせ天涯孤独の気楽な身の上ですから、しばらくはこの近くに宿を取って職探しをしようかと。と言っても取り柄なんて、せいぜいが腕っ節くらいなものなんですけどね」
ハハッと笑った剣路は別にわざわざ腕っ節を誇示したつもりはなかった。
せっかく特典で超抜的な戦闘力を得たのにも関わらずこれまで一切役に立っていなかったので自嘲のつもりですらあったのだ。
だが、ポラの反応は違った。
「ほう――腕っ節に自信がお有りか」
碧色の両眼がそれまでとは異なる光を宿し、沈着怜悧に細められる。
なにせ彼女は剣術道場の師範代を務める女剣術家。
一見してまるで強そうな気配など感じさせない剣路の口から飛び出た発言は常ならば冗談として笑って済ませる類いのものだったが、ポラの一流の武道家としての嗅覚は少年の纏った奇妙で不自然な強者の匂いを確かに嗅ぎ取っていた。
ポラは極めて常識的な女性だった。
この世に生まれ落ちて一二〇余年。長命のエルフにあってはまだまだ若輩で、些か血気に逸るところはあれども多種族と比べたら遙かに落ち着いた性情の持ち主だ。
武道家として高い技倆の持ち主に興味はあるし様々な強者と競ってみたいという欲求を持ち得てはいても、飯屋で出会ったばかりの人間の若者にいきなり腕試しをふっかけるような、間違ってもそんな女性ではなかった。
だからこれは、ある種の“予感”だったのかも知れない――
後日、この時の自身を振り返ったポラは苦笑しながらそう述懐した。
「剣路殿」
「はい?」
「よければこの後、腹ごなしにつき合ってはもらえないだろうか。なぁに、ちょっとした軽い食後の運動だ」
研ぎ澄まされた剣士の直観。
ぞわりと皮膚が粟立つ感覚にポラは我知らず口角を吊り上げていた。
■■■
「んっ、……美味い!」
滑らかな舌触りと口内に広がる濃厚な胡麻の風味に剣路は思わず舌鼓を打った。
胡麻豆腐。
焦げないよう慎重に胡麻を炒り、炒り上がったものを丁寧にすり鉢ですってから胡麻汁を抽出して、葛粉で固める。調理法を述べるだけなら簡単だが少しでも手を抜くと雑味が混じってしまう非常に繊細な精進料理の一品だ。
前世、剣路は平凡なDKだった。
平凡なDKは精進料理に興味なんてあるだろうか? まず十中八九無いと言って差し支えないだろう。
地球での生涯において、剣路が胡麻豆腐を食べたのは中学の修学旅行で京都に行った時の夕飯、その一回のみ。『一応京都だし、それっぽいモノをメニューに入れておこう』と宿泊先のホテルが適当に出したメーカー品で、剣路の記憶には酢味噌ダレの甘塩っぱい味くらいしか残ってはいなかった。
それがまさか、異世界の、エルフの国でこんなにも澄み切った“本物”の胡麻豆腐を味わえるとは、皮肉なのか幸運なのか。
濃いタレなどは一切用いず、白胡麻そのものの味以外に味付けはうっすらと張られた昆布出汁のみ。だからこそ余計に、滋味が深い。
「この店の胡麻豆腐は私の大好物でな。剣路殿も気に入ってくれたようで何よりだ」
そう言ってポラが嬉しそうに微笑む。
ちなみにエルフ国の寺院は主に精霊を祀るためのもので、精進料理は『一切の雑念、煩悩を捨て、精霊へ至る道を邁進する修行の一環としての料理』が自動翻訳されたものだ。
あの日。
ポラに挑まれた“食後の軽い運動”にあっさりと勝利した剣路は、そのまま彼女が師範代を務める道場に居候させてもらえることになった。
ポラは若年ながら現在エルフの国で五本の指にすら数えられる剣術家であり、そんな彼女が手も足も出ない圧倒的戦闘力の持ち主である剣路には是非とも食客として逗留し門下生に稽古をつけてやってもらいたいと懇願されてしまったのだ。しかも謝礼付きで。
うまいこと仕事が見つからなければ日雇い労働に従事しつつドヤ街暮らしでもするしかないかと考えていた剣路にとっては渡りに船、ありがたすぎる申し出だったため一も二もなく引き受けた。
剣路は転生特典のおかげでアホみたいに強い。
実際その戦い方はアホそのものだ。
なにせ名前に反してまともに剣を習った経験など皆無なずぶっずぶのド素人なのだ。
ブンブンブンブンただただ木刀を矢鱈滅法振り回すだけ。にも関わらずひたすら強力無比、反応も速度も埒外な剣路は打ち込み稽古の相手としてこれ以上ないくらいうってつけだった。
(考えてたのとは全然違うけど、ようやっと特典が役に立ったな……)
日本っぽい国で、コスプレ外人みたいなエルフ達と一緒に木刀を振り、食い道楽をする。
当初想定していた異世界転生ライフとはかけ離れた日々だったが、剣路はそれなりに充実した日々を謳歌していた。
「……“ワサビ”?」
「うん。そう言えば見かけないなぁ、って」
胡麻豆腐を含む精進料理のコースを平らげ、デザートのわらび餅をのんびりと咀嚼しながら剣路は以前から気になっていたことをポラに尋ねてみた。初めて出逢った頃と比べ、互いに口調も態度も大分砕けたものとなっている。
地球で見かけたことのある食材は殆どこちらの世界にもあるようなのだが、さすがに全てというわけではない。中には『アレはないんだろうか?』という食材も勿論存在している。
世界が違うのだからどれだけ似ていようとも無いものだってそりゃあるだろうと剣路も頭では理解していた。しかし、西国ならまだしもほぼほぼ日本まんまなエルフ国で、ワサビか、或いは類するものがまったくないというのも違和感があった。
と言うより剣路の個人的な嗜好としてやはり刺身を食べる時はワサビがないと寂しいのだ。
特にこの街はワサビの産地として有名な、剣路の祖父が住んでいた中伊豆と大変よく似ているため余計に『え? ワサビないの?』と気になってくる。
自動翻訳も万能ではない。
相手の認識と剣路の知識とに大きく齟齬がある場合は殆ど一致するものであってもそう訳されない場合もある。
剣路はポラにワサビとはどんな食材かを語り聞かせた。
とは言え剣路もワサビについて知っているのは基本的な使い方と大まかな見た目くらいだ。取り敢えず知っている限りの食べ方として、刺身につけると美味い、寿司には欠かせない、わさび漬けもご飯が進む、ステーキをワサビ醤油で食べるのもオツなもの、などなど伝えていく。
「ふーむ……ワサビ、ワサビか。寡聞にして聞いたことがないが、エルフ国も狭いようで広いからな。……で、用途としては基本的には薬味として用い、剣路殿が幼少期に住んでいたここと似たような条件の土地で栽培されていた、と」
「なんせ五つになるかならないかだったし記憶が曖昧で。ただ、冷涼な気候と、綺麗な水が不可欠だ、とは聞いたなぁ」
「ここは山地で森深く、ウンディーネの加護も強い。剣路殿の言うワサビを栽培するにはまさしくうってつけな土地ということか。……時に」
「?」
「ワサビは、自生はしていないのか?」
ポラの問いは青天の霹靂だった。
祖父の家に遊びに来た際にしょっちゅう天城の立派なワサビ田などを見ていた剣路には、ワサビはワサビ田で栽培するものという固定観念があった。
だがよくよく考えてみれば元は自生していたはずの植物だ。ここまで条件の一致する土地なのだから探せば見つかる可能性は充分にある。
「探しに行ってみようかな」
「ああ、たまには食材探しというのもおもしろそうだ」
ポラは既に一緒に行くつもりでいる。
ポラにとって、剣路は初めて会った日から興味の尽きない少年だった。
エルフ国の中でも剣の腕前では五本の指に入るポラをまるで寄せ付けない圧倒的な戦闘能力もさることながら、こうして一緒に食事をし、雑談をしていると聞いたこともないような興味深い話題を振ってくる事が多々ある。
まるでこの世界とは異なる、別の世界の話であるかのようなそれは剣路にとっては些末なものでも、ただでさえこの国から出たことのないポラの好奇心は大いに刺激された。
稽古の後、二人で一緒に食事したり買い物に行ったりするのも今となっては日常の一コマだ。二人ともまだ互いが互いに向ける感情についてどうとも言い表せない手探りの状態ではあったが、ともあれ剣路とポラは現状“とても馬の合う、良い友人”だった。
■■■
「フッ!!」
短く呼気が弾けた。
生い茂った木々の枝葉が引っかからないよう、ポラはエルフ刀ではなく護身用の鎧通しを音も無く抜き放つと、襲いかかってきた猪型魔獣の突撃を躱し耳下を狙っての一刺しで脳を貫いた。
かたや剣路は刃のついていない稽古用の鉄刀を大上段に構え、こちらは木も枝もお構いなしにへし折りながら振り回し逆方向から飛びかかってきた鹿型魔獣の頭蓋をこともなげに砕き割る。
「……ファンタジー異世界に転生後、ワサビを探しに山に来て初めてモンスターとの戦闘を経験する羽目になるとは、たまげたなぁ」
「? 何か言ったか?」
「いや、野生の魔獣って初めて遭遇したなぁ、って」
生き物を殺すなんて虫を除けば初めての経験だったにも関わらず、想像していたよりも剣路のショックは少なかった。「そう言えば」と転生特典の超々戦闘能力には戦闘時の精神面の強化も含まれていたのを思い出し、剣路は自身が初めて手にかけた獣の死骸に短い黙祷を捧げた。
「そう滅多に遭遇するものでもないんだが、剣路殿の言った条件に合う中でも特に人の手の入っていない山を選んだからな」
ポラに連れられて剣路がやって来たのは、街を遠く離れた山々の奥の奥、四方全てを樹齢数百年から数千年はあるんじゃないかという木々に覆われた大深山だった。
ちなみに、『エルフは自然を尊ぶので森に手を加えない』と地球での偏ったファンタジー知識で思い込んでいた剣路だったが、そのことを話したらポラに爆笑された。
確かに精霊信仰に基づく自然主義者がエルフには多い。それでも、彼らも結局は肉体を持った生身の生命体である以上、必要とあらば木は切るし土壌に手も加える。街や道、畑だって当然ながらもとは森を切り開いて作られたものだ。
なのでエルフ国も殆どの山林には手が入っている。きちんと間伐し、必要に応じて植樹するなどして、自然と共生している。
いまだ手つかずのここは、神秘のベールに包まれた文字通りの秘境というわけだ。
「確か渓流沿いに生えているのだったか」
「ん~、多分そのはず。季節によっては白い花をつけるんだけど、あれって春だったかなぁ。それとも夏か……」
うろ覚え極まりない。
とは言えワサビに限らず花の咲く時期なんて農作業や園芸に興味のないDKには完全に意識の範疇外だったのだ。
「正直見た目だけだとその辺の山菜と区別出来る自信がない。匂い嗅げば……わかるとは思うんだけど」
問題は自生ワサビが匂いで判別出来るくらい一ヶ所にまとめて生えているかどうかだがそれに関しては神に祈る他なかった。もっとも、剣路の知る女神はバカデカいおっぱい以外は今ひとつアテにならない神ではあるのだが。
「フフ。ならのんびりとハイキングを楽しみながら探そうか」
「別に急ぐ必要もないし、それもいいなぁ」
「それにこの辺りの渓流では大きなアマゴが釣れるんだ」
そう言うと、ポラは肩に掛けていた木刀袋を開けてみせた。刀は腰に差しているのにわざわざ木刀袋を持ってきたのはどうしてなのかと言えば、中には木刀でも竹刀でもなく組み立て式の釣り竿が入っていた。
「ポラって釣りやるんだ」
「なにしろこの国は山ばかりだからな、渓流釣りが趣味のエルフは結構多いぞ。今でこそテレビなりネットなり娯楽も増えたが私が子供の頃はまだ通信魔法もそこまで発達していなかったし、遊びと言えばアウトドアだったから」
「へぇ~。……実は俺、釣りってやったことないんだよね」
「なら丁度良い。私が教えるからやってみないか?」
ウキウキとした様子のポラに誘われ、剣路は迷わず頷いた。やったことはないが以前から興味はあったのだ。
……オタ趣味よりはまだ大人っぽくて、女の子に『趣味は?』と訊かれた時にマシな返答が出来そうだったから、というしょうもない理由からではあったのだが。
「アマゴが釣れてワサビが見つかったら押し寿司でも作ってみようか。と言っても詳しい作り方知ってるわけじゃないからなんちゃってな感じになるけど」
「そう言えばワサビは寿司の薬味にも使うのだったな。剣路殿が美味いと言うからにはきっとそうなのだろう。見つかるのが楽しみだ」
そんなことを話しながら歩く。
幸いと言うべきか、魔獣とも一度遭遇しただけでそれ以降は特に問題もなく、些か険しくはあったものの二人はハイキングを満喫し、やがて渓流に辿り着いた。
剣路もポラも常人より遙かに体力はあるがここまで道なき道をずっと歩きづめでかなり疲労が溜まっていた。ウンディーネの加護を強く受けた水を両手に掬って飲むと、喉の渇きだけでなく疲労まで一気に吹き飛ぶかのようだった。
「ただの水でもこんなに美味いんだから反則だよなぁ」
「西国はあまり水が美味しくないのか?」
「あー……そんなことはないんだけど。それより釣り! 釣り教えてくれよ。ひとまず昼飯に出来るくらい釣れたらそれからワサビを探してみよう」
不思議そうに首を傾げているポラに笑って誤魔化し、剣路は釣り竿を組み立てるよう急かした。
……別に異世界から転生してきたのだと明かしても問題ないしポラならすんなり信じてくれるのではないか、と剣路も考えてはいる。
(まぁ、そのうち言う機会もあるかもしれないし)
焦って言うほどのものでもなし。
その後、剣路はポラからしっかりと釣りを教えて貰い、初心者ながらなんとか小ぶりなイワナを一匹釣り上げることに成功、ポラはポラでイワナだけでなくアマゴも数匹、昼飯分どころか帰ったら門下生達に振る舞える分の釣果を達したのだった。
「うーん、こことか生えてそうなんだけどなぁ……」
釣りを終え、食い道楽でありつつ料理上手でもあるポラが米を炊き、アマゴを捌いたりイワナを塩焼きにしてくれている内に、剣路は散策がてら今日の本命であるワサビを探して渓流沿いを彷徨っていた。
剣路の記憶と照らし合わせても、条件は満たしているはずなのだ。これまでの経験上、完璧な地球のワサビそのものとまではいかずともこの世界におけるワサビっぽいものがある可能性は極めて高い。そのくらいこの世界と地球の動植物は似通っている。
しかしあったらあったでどうして今まで食用として知られていなかったのかという疑問は残る。
野生の魔獣が生息する秘境と言っても、それこそ地球の、日本で例えるなら熊の出る山に山菜採りに行くのとそこまで危険性は変わらない気がするのだ。そこそこ腕に覚えのあるエルフならここまで来るのに大して問題はあるまい。
「にしても、本当に綺麗だ……空気も、水も澄んでて……」
聞こえてくるのは鳥の羽音と鳴き声、そして流れる水の音。
鬱蒼と茂った木々の間から射し込む僅かな光がただでさえ幻想的な光景をより一層この世ならざるものであるかのように昇華させている。
そんな中をぼーっと歩いていた剣路は、ふと、求めていた香りを嗅いだ気がした、……まさにその瞬間、
「……ん? これ、ワサ――びぃいッ!?」
ズボォッと勢いよく足が地面を踏み抜く。
正確にはそこは地面ではなく、二メートルくらいの段差になっていたところが生い茂った草や落ち重なった細い枝葉によって天然の落とし穴と化していたのだ。
「ずおっ、たぁ!」
転生特典によって耐久度も人類の範疇から大幅にはみ出している剣路だが、実は痛覚自体はそこまで大差は無い。痛みそのものに鈍感になってしまうと逆に気づくべき異常に気づきにくくなってしまうためだ。
なのでおもっくそ段差からずり落ちれば尻も腰も普通に痛い。
「ぁ痛ててて……ふぅ、……おっ」
湿気にぬめった地面でグチョグチョになってしまったズボンを気持ち悪そうに擦りながら立ち上がろうとした剣路は、眼前に生えていた植物の匂いと、白い小さな花に瞠目し、やがて興奮に手を叩いた。
「あった! やっぱりあったじゃないか!」
ワサビだ。
どう見ても、どう嗅いでも、まごうことなくワサビだ。
別に大好物ってわけではない。主な用途は所詮ただの薬味、なくても生きていく上でなんら困らない。
それでも、剣路は嬉しかった。
この世界に転生し、圧倒的な戦闘能力と地球の知識で成り上がってやろうと目論んですぐさま挫折を味わいその後も立て続けに膝を折った剣路にとって、ようやく見つけた転生者としての優位性、それこそがワサビだった。
白い可愛らしい花がなんとも愛おしい。
今すぐ持って帰り、ポラが用意してくれた米とアマゴで寿司を作ろうと意気揚々ハッピーうれピーよろピクねー状態な剣路に、
「離れろ、剣路殿!!」
叫んだのは、他ならぬポラだった。
「あっ、ポラ! やったよ、見つけた見つけた! ほら、これがワサビで……」
「触るな!! 触ってはいかん、それは、その草は……危険な毒草だ!!」
「……は?」
先程剣路が落ちた段差の上では、ポラがこれまで見たこともない、まるで怯懦に震える子供のような顔で声を張り上げている。
「いやいや毒草じゃないって。他の草と勘違いしてるんじゃ……」
「勘違いなどではない! かつて幾人ものエルフが生死の境を彷徨い“エルフ殺し”と呼ばれたその忌まわしい毒草、実物を見るのは初めてだが幼い頃から図解付きで何度も何度も繰り返し注意を受けてきた! エルフなら誰もが知っている特一級禁忌種だ!! クソ、根絶やしにされたと聞いていたのにまさかまだ残っていたとは……」
忌々しげに舌打ちし、ポラは掌をかざすと魔力を集束させた。群生するワサビを全て焼き尽くすつもりだ。
「待って待って! 仮にその、エルフ殺し? とワサビが似てたとしてもいったん調べてからでも遅くはないだろ!? ポラは……解析魔法は使えたよな? 毒物の」
「エルフ殺しの厄介なところは解析しても人体に有害な毒物の反応は出ない上に、さらに解毒魔法も効かないところなのだ。それでいて摂取すると鼻から脳を貫かれたかのような凄まじい激痛で三日三晩は悶え苦しむという。……くぅ、なんと怖ろしい!」
「……うん?」
鼻から脳を貫かれたかのような凄まじい激痛、と聞いて剣路は小首を傾げた。
「あー……たしか、エルフって俺達人間よりも五感が鋭敏なんだよな? 嗅覚とか、味覚も」
「? そうだ。なのでエルフは基本的に人間よりも薄味を好む。剣路殿には少々物足りなく感じるかもしれないが……」
「別にそれはいいんだ。俺も薄味には大分慣れてきたし、慣れると素材の味が感じ取れて美味しい……じゃなくて! ……それで、エルフ殺しは解析しても毒物ではない、と」
「先程も言った通りだ! さぁもういいだろう、その危険物は全て焼き払ってくれる!! 喰らえ、精火劫燐・妖禽獄炎爬!!」
ポラの手から無数の炎が鋭い爪のように伸び、ワサビ? に襲いかかる。が、その全ては剣路の鉄刀によって迎撃されていた。
「あっつ!? 熱っ、熱ゃあ! ……くぅ、炎を鉄の塊で迎撃なんてするもんじゃねぇなぁ。冷却冷却……」
「ぐ、むぅ、そうまでしてエルフ殺しを庇い立てするとは……まさか、最初からエルフを滅ぼすつもりでこの国に!? それとも……そうか、さてはエルフ殺しに操られているのだな!!」
「違うから! そんなこと考えてないし操られてもいないから! ってか洗脳能力のあるワサビとかスゲぇな!? とにかく誤解、すれ違い! ちゃんと話そう、俺達には言葉がある! 言葉で無理なら歌を唄うのでも温かな人の心の光で繋がるのでもなんでもいいから相互理解を目指そう!! ヤック・デカルチャッチャ! サイッコフレイム! ユーハ、ソコニ、イマスカ!?」
「問答無用! 今助けるぞ、剣路殿!!」
距離を取っての魔法攻撃では埒があかないと見たのか、ポラは鎧通しを腰だめに構えて剣路に突撃を敢行した。
並の相手なら避けるも受けるも能わず即決着だったろう渾身の一撃は、けれど剣路の鉄刀の一振りで事も無げに弾かれてしまう。
「やはり、私如きがどれだけ全力で挑もうとも通じぬか。……操られながらもこれだけの技量、流石だ。……くっ! 妖草エルフ殺しめ、必ず剣路殿を救い出してみせるぞ!」
「だーかーら! これは! ワーサービーッ!! あ~~~、もう!!」
過去いったいどれだけの被害者を出したのか、エルフにとってワサビはよっぽど忌むべきものなのだろう。今のポラは殆ど錯乱状態だ。
おそらくこのままではいつまでも平行線、説得は困難と判断した剣路は、「ええい、ままよ!」とワサビ? を一本引っこ抜き、茎の中程でポキリとへし折ると、微細な傷によって凹凸のある鉄刀の腹に押し当てて猛然と擦り下ろした。
「……は? え、ちょっ、剣路殿……?」
「そこまで信じられないなら証明してやる! 見さらせッ! かつて文化祭でロシアンたこ焼きのワサビ入りを引き当てて泣きながら悶絶した俺の覚悟を!!」
吠えるや、剣路は下ろしたてのワサビ? を一気に口内へ放り込んだ。
次の瞬間、まさに鼻から脳を貫かれたが如き凄まじい衝撃がツーーーーーーーンと駆け抜けていく。
「ふごっ、ほんごぉおおおおおお~~~~~~~~~~~~~~~~~~ふっぶほぉおっ!?」
「剣路殿ぉおおおおおおおっ!?」
眉間を押さえてうずくまりながら、剣路は大慌てて駆け寄ってくるポラを見ていた。涙目の彼女はきっと『剣路殿が毒で死んでしまう!』と大いに焦っていることだろう。
もっとも、仮に今食したのがワサビではなく本当に毒草だったとしても、剣路は毒にも強い耐性を持っているためまず死にはしないという目算はあった。
あったのだ、が。
(毒じゃない。毒じゃないけど……キッくぅう~~~~~~~死ぬ! これマジで死ぬぅぶふぁああああっ!?)
脳の血管がブチ切れそうな痛みに、剣路はふと、日本にいた頃に読んだ幾つかの料理漫画の内容に思いを馳せていた。
料理漫画、主に寿司漫画においてワサビネタはある種の鉄板だった。ワサビ農家の人が自分の畑からワサビを卸している店へとわざわざ出向き、ワサビの扱いがなっていないと憤慨するのだ。
読む度に『ワサビ農家ってめんどくさいなぁ』『祖父ちゃんとこの近くにあるワサビ農家の人もこのくらいめんどくさいのかなぁ』なんて、まったく酷い風評被害もあったものだと思う反面、ああも複数の漫画でネタにされるということはやはり何かあるのだろうかと邪推してしまったりもして。
そこでワサビの成分や正しい取り扱い方など注釈が入るのだが、正直その辺の蘊蓄は流し読みだったため今の今まで剣路も忘れてしまっていたのだ。
辛み、刺激、痛みが、そんな記憶の蓋をこじ開けていく。
ワサビの辛み成分――アリルイソチオシアネートは非常に揮発性が高く、擦り下ろしてからほんの数分で風味が飛んでしまう。反面、その数分の間の刺激たるや、凄まじいものがある。
かつて剣路が文化祭で引き当ててしまったワサビ入りたこ焼きは、所詮はチューブ入りのワサビに過ぎなかった。
今回のこれは豊かな土とウンディーネの加護が宿った清水で育った天然物の下ろしたて、しかもワサビの細胞は潰した方が辛みが強く出る。偶然とは言え鉄刀の腹の凹凸で擦り潰すように下ろされたことにより最大限まで引き出された辛みはチューブモノとは雲泥の差だった。
人間の剣路でさえこうなのだから、もし感覚の鋭敏なエルフがこれを味わってしまったとしたら……
(……冗談抜きで、死ぬかも知れない)
まったく、エルフ殺しとはよく言ったものだ。
ポラの語った通り、かつてのエルフ達は解毒も出来ない正体不明の毒草としてワサビを怖れ、決して口にすることなかれと子々孫々まで語り継いだのだろう。結果、エルフ国にしか生えていないワサビはこの世界では食用として扱われず長年に渡って存在を抹消されてきた、というわけだ。
「剣路殿! 剣路殿ぉお!! あ、ああ、エルフ殺しをこんなに……どうすれば、いったいどうすれば……このままでは剣路殿が、剣路殿が!」
涙目で慌てふためいているポラは、心から剣路の身を案じているのだろう。彼女が本気で救出しようとしてくれていたのもわかっている。
だから剣路は、いまだツーンと鼻の奥を痺れさせている刺激痛に耐えながらなんとか「だい、じょーぶ……死んだりしない、から」と頑張って笑ってみせた。
「ふぇ? ……ほ、本当に、大丈夫か? 私を安心させるために、嘘をついているわけではないのか? ……だって、あのエルフ殺しを煎じて飲んだのだぞ!?」
「うそなんて、ついてないから……く、つ~~~……いや、めっちゃキいたけどね? でもこれ、やっぱり毒じゃないよ。いや、エルフには毒……か?」
「?」
涙目で固まっているポラに、剣路も涙目のまま「さてどう説明したものか」とさらに深く眉間に皺を寄せたのだった。
「つまり、揮発性の高い辛み成分が我々エルフの鋭敏な味覚や嗅覚に対してあまりにもクリティカルすぎたのが原因だった、と」
「だいたいそんな感じ」
まだ微妙に納得のいかないといった顔ではあるが、実際に剣路が僅かな休息で回復してしまったためポラとしても信じざるを得ない、といった状況だった。
「だが毒物ではなかったとしても結局我々エルフにとっては危険物であるのに変わりはないではないか。ワサビ死すべし、慈悲はない」
「ところがそうでもないかも知れないんだ」
そう言うと、剣路は先程鉄刀の腹で擦り下ろしたワサビの残りをポラへ差し出した。
「ヒッ!? ち、近づけないでくだされ! 剣路殿は人間の中ではかなり感覚が鋭敏だとは思うがそれでもエルフはおそらくその数倍はあるでゴザル。もし食べたら拙者死んじゃうでゴザルよ。間違いなく死ぬ。脳味噌吹き飛んで死ぬでゴザル!」
「えっ、なんで突然ゴザル口調になってんの? テンパるとそうなるの? ……まぁ、多分もう大丈夫だと思う。……よし! さっきの場所に戻ろう。アマゴは捌いてあるんだよな?」
「あ、ああ。捌いてあるが……それよりもう大丈夫って、何かしたのか?」
「何かした、と言うか何もしなかった、と言うか……まぁいいや。ポラ、君を見込んで頼みたい。……ワサビの味、試してみてくれないか?」
……………………
「はぁああああああっ!? いやいやいやいやいや、だから毒でなかったとしてもエルフには無理だと言ったではないか!」
よもやの頼み事にポラは狼狽を隠しもせず腰を引かせた。
剣路の様子から察するに何かしら考えがあってのことだとはわかるが、ワサビが『もう大丈夫』というのには何一つ保証は無い。『やっぱり駄目でした!』となったら死にはせずとも悶絶してのたうち回る羽目になる。
「難しい頼みだってのは承知してる。でも、その……この世界に来てようやく巡ってきたチャンスというか、逃したくないというか……」
激渋な顔でブツブツと独り言を呟く剣路。
理由はわからない、わからないが、今の彼を無碍にするのも憚られてポラは『う~~~……』とひとしきり唸ってから、幾つか尋ねた。
「……本当に、大丈夫……なの、か?」
「……おそらく」
「エルフ殺しではなく、ワサビ……美味しいというのも、嘘ではないのだな?」
「それは保証する。正確にはワサビを使えば寿司や、それに蕎麦なんかも美味しくなる」
寿司も蕎麦も、ポラの好物だ。それらがさらに美味しくなる薬味とあらば、正直吝かではない。
元々ポラは相当な食い道楽であり、美食のためなら労苦を厭わない面がある。“エルフ殺し”への忌避感はまだまだ強いが、剣路を信じて試してみてもいいのではないか、というくらいには早くも天秤が傾きつつあった。
だいたい遙か昔、解毒魔法が一般化するよりも前はどんな食材もトライアル&エラー、命懸けで過食部位を割り出すのが当たり前だったのだから――
……というある種の言い訳探し、詭弁、自己弁護が始まってしまえば、その後はもう早かった。
ポラも大概チョロい。
「もっ、もし駄目だったら……」
意を決して、ポラは剣路を正面から見据え、言った。
「責任取って貰うからな? 一生面倒みて貰うからそのつもりでいて、もらおう……!」
「いっ、一生!? エルフの一生って……え、どんくらい? ……えと、と、まぁ……うん、はい。わかった。もし駄目だったら俺が一生、面倒、見ます」
端から聞けばプロポーズともとられかねないやりとりの果て、剣路はさらに何本かのワサビを刈り取り、ポラは服の裾をキュッと摘まんで、二人並んで歩き出した。
互いにどこかぎこちなくも妙に浮かれた、おかしな歩調だった。
「むむ、うむむ、ぐむむむむ……」
剣路が四苦八苦しながら握った出来損ないのおにぎりみたいなアマゴ寿司を前に、ポラは大いに葛藤していた。
「ほんとは押し寿司作りたかったんだけど、ちょっと試してみる分にはこっちの方が簡単かと思って。……不格好なのは勘弁してくれ」
「……念を押すが、食べても大丈夫なんだな?」
「ダメそうだったらすぐに吐き出してくれていいよ」
剣路によるワサビの説明は確かに納得のいく部分もあるし、彼のことは信じたい。
だが、それでもやはり“エルフ殺し”は怖ろしい。毒の正体が判明したからと言って、子供の頃からずっと危険だからと教え込まれてきたのだし、つい一〇分かそこら前の剣路の悶絶ぶりを見ていればどうしても不安は拭いきれなかった。
「……っ」
アマゴ寿司の隣にはキャンプ用の紙皿が置かれ、そこには醤油が差してあった。
ただし、醤油は濁っている。
剣路はワサビを直接アマゴと酢飯の間に挟むのではなく、醤油に溶いて「これにつけて食べてみてくれ」とポラに差し出したのだ。
今のところ、強い匂いはしない。
醤油に混じって多少刺すような刺激臭は感じるものの、このくらいであればポラも全然耐えられるレベルだった。むしろ、香り自体は悪くない。
しかし実際に口に入れてどうなるか……
ゴクリ、と喉を鳴らし、ポラはアマゴ寿司を掴むと、逆さまにしてチョンチョンッとワサビ醤油にネタ部分をほんの少し触れる程度につけた。
おそるおそる、口元へと近づける。
「……お、女は、度胸ッ!!」
剣路から真剣な眼差しで見つめられているのを意識しつつ、ポラはついに覚悟を決め、握りを口中へと放り込んだ。
瞬間、香りが弾けた。
アマゴの甘く爽やかな川魚の香気と混じり合い、醤油と、酢、米、そしてポラにとっては未知の衝撃的な香気が鼻腔を抜け、脳を強烈に直撃した。
「ふっ、はぁ……~~~~~ッ!?」
(あ……私、もしかして、死ぬ、のか?)
これがエルフ殺しの効能なのだろうか。
眉間に手を当て、目をギュッと瞑って痛みに堪えようとするも涙腺が勝手に決壊しそうになる。
死ぬ、死んだ、もう駄目だ――
そこで、ふと気づいた。
いつの間にかポラはムシャムシャと寿司を咀嚼していた。
泣きそうなのに。
鼻の奥がツンとしてるのに。
(……あれ? 私、いつ死ぬんだ?)
不思議だ。
それとも死ぬ時ってこんな感じなのだろうか。
死んだ経験がないのでわからない。
でも、……美味しい。
「おしゅし……おいちい」
ゴクンと呑み込む頃には、もう痛みは消えていた。
なんだろう。今まで味わってきた寿司の味に、さらにもう一本、ピンと芯が通ったかのような、不思議な感覚だった。
その感覚の正体を確かめるため、ポラはもう一貫、握りを手にすると先程よりもやや多めにワサビ醤油をつけて頬張った。
「~~~~~~~~~ッ!!」
やはりツンとくる。
鼻の奥がジンジンして、涙が溢れそうになる。
なのに美味しい。
とても美味しい。
手が止まらなくなる。
「ワサビの辛みは揮発性が高い、だから擦ってからしばらく置いておくと風味はどんどん飛んでいく。さらに、えーと……確か醤油に含まれてる、なんだったかな? メテオール? と反応すると香りが落ちるってのも利用してみたんだけど、エルフにはそのくらいで充分じゃないか?」
メテオールではなくメチオノールなのだが、ともあれ剣路の言う通り、人間にとっては大分風味が落ちてしまっている状態がエルフのポラには丁度良い。
結果、剣路が試しにと握ったアマゴ寿司八貫はポラがペロリと平らげてしまった。
「……ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
長いエルフの歴史の中で、おそらくは初めて“エルフ殺し”の美味を堪能したであろうポラは、満足とばかりにふぅっと嘆息した。
「そう……か。エルフは素材の新鮮さを好むところもあるから、過去にワサビを擦り下ろして食べてみたエルフ達はみんな採り立てを擦った途端に口にしてぶっ倒れてしまったのだな。そしてその話が訓戒を込め幾らかの誇張も交えて伝わり、解毒も出来ない危険食材――エルフ殺しとして長らく忌避されてきた、と」
「多分そんな感じじゃないかなぁ。……あー、えーと、それで、俺が子供の頃に住んでた地域ではたまたま人間がワサビを見つけて食べてたんじゃないかな、うん。きっと、そんなん」
エルフとワサビの間に起こった悲劇? についてうんうんとしきりに頷いていたポラは、剣路の適当な誤魔化しにもすんなり納得した。
実際、同じ国であっても一部の地域や民族には食べられているけど他はまったく口にしない食材なんて幾らでもある。ポラとしては特に疑問の余地はなかった。
「フ、フフ。しかし結果として剣路殿には大層な美味を教えて貰ってしまったな。正直最初に口に含んだ時は『あ、これ駄目だ。死んだ』と気が気でなかったが」
「無茶なお願いして悪かったよ。でも、そうでもしないとここでワサビの栽培を始めるなんて無理だと思ったから」
剣路の発言にポラは目を見開き、やがて深々と首肯した。
「そう、だな。仮に人間相手の輸出を主とするにしても、まずはエルフの誤解を解かねばここに畑を作って栽培するなど不可能だろう。エルフ殺しへの認識を放置したまま強引に事を進めれば面倒な事になるのは火を見るより明らかだ」
「西国に苗を持って帰って向こうで栽培するって手もあるけど、多分ここ以上にワサビに適した環境を整えてやるのは難しいだろうし、あと……」
「エルフ米からは離れがたい、だろう?」
「それなー」
クスクス、と笑い合いながら、剣路はポラに追加でアマゴを捌いて貰い、自分は酢飯を準備して押し型に詰め始めた。
「さーて、と。俺も腹ごしらえしなきゃ。いっぱい食べて、それからワサビ田を作るのに良さげな場所でも探そうかなぁ。……と言っても、俺は農業素人だからまずは色々と勉強しないとだけど」
「それなら私の方で協力出来ると思う。父方の実家は農家なのでな」
「へ? でも、確かポラの家ってお武家さんじゃ……」
「それは母方。父は農家出身の三男坊で、継ぐ畑もないからと剣の道を志し、うちの道場に通ってるうちに母とくっついて婿入りしたのだ」
「え。凄くない?」
「私も我が父ながら凄いと思う」
だから我が家は婿入りの敷居はさして高くないんだ、と言ったポラの頬は、少しだけ赤かった。
■■■
~それから~
街に戻った剣路とポラは、まずは家族や道場の門下生を相手にワサビを広め始めた。
年配のエルフはさすがに難色を示したが、ポラの親世代辺りからはそこまで抵抗もなく受け入れられ、宣伝のために始めた寿司の屋台は大当たり。二年後にはそこそこ大きな店子で寿司屋を開店するに至った。
並行してワサビ農家としても成功を収め、渓流に作ったワサビ田は年々拡大、他国にも輸出を開始し高級食材として重宝されるようになる。
五年後、寿司屋の二号店、さらには三号店を開店させたのと同時に剣路はポラと結婚。プロポーズへの返事はムスッとした顔で『遅すぎる』だった。
ちなみに結婚と同時に剣路はポラへ自分が異世界からの転生者だと明かした。
夫からの一世一代の告白に対し、彼女の反応は案の定『だから?』といった程度のもので、何の盛り上がりもないイベントだった。
その後も幾つか新規事業を開拓し、成功と失敗を繰り返しながら剣路はそれなりに幸福な異世界転生ライフを送った。
結局、まともな戦闘と言えばワサビ探しの際に戦った魔獣との一戦のみだった件に関しては晩年まで『やっぱり他の特典貰っておけばよかった』とぼやいていたのだが、その度にいつまでも若々しい妻から『私が旦那様のことを気になりだしたのは転生特典とやらがきっかけだったのですから、結果的にはよかったではないですか』と微笑まれるやりとりを幾度となく繰り返したという。
~おしまい~