4. 『最恐の鬼』
――「ひぇぇえっ!どうするの!?」
『シュクルラウドの森』の中で、スピカは全力疾走していた。
背後からは、獣が群れになって襲ってくる。
「どうもこうも、逃げるしかないだろう」
「あなたが元凶なの分かってる!?」
悠長に先を行く彼に、スピカは怒声を投げかけた。
森に入って、数十分。
今まさに、絶体絶命である。
「勝手に噛み付いてきたんだぞ?避けようがない」
「そういう問題じゃ無いの!」
体力的にも劣っているスピカは、早くも獣の餌になりそうだ。
「お願い!助けてぇぇえ!」
「悲鳴を上げずに走れ!」
容赦ない彼の無情さが伝わる。
後ろで唸り声が聞こえ、振り返る事を強制却下した。
「グルルルッ!」
「キャーッ!」
「声を上げたら、余計来るだろう馬鹿!」
「もう注文やめて下さる!?」
永遠に鬼ごっこを、続けられる様な気分になる。
そう言えば、幼い頃も鬼ごっこだけは極端に避けていた様な……。
体力がある訳ではなく、頭脳にも長けていない。
実際、スピカは落第して、退学という経験がお有りだ。
「こんな時に役に立たないなんて!運動でもやっておけば良かったわ!」
恨み言しか言えない有様である。
「はぁ」
それを間近で見ていた彼は、楕円の眼鏡をかけ直す。
「こうなったら仕方ないな」
彼は逃げ足を遅めた。
「アネスト」
――周りに、沈黙が広がる。
先程、噛まれた手を治した時と同じ呪文。
紅い燐光が放たれるのを待ち、彼はそう告げる。
追うなと、そう告げる。
ビーム、と言う様な、言わない様な。
細い光が、獣達の首を一瞬にして撃ち抜いた。
「――ゥ?」
そして。
5秒経っただろうか。
「――ぶ」
獣の細い首筋から、鮮血が飛んだ。
「きゃうん!」
平仮名の配列になる様な、弱々しい声が聞こえる。
獣達が追って来なくなる。
逃げ足を再び早めた彼は、手の調子を確かめた後、楕円の眼鏡を軽くかけ直した。
「手こずらせるんじゃない」
「あなた、何を――」
彼が獣を指差す。
見ろと、そう言う様に。
その指を追って。
スピカが気づいた時、背後には――獣の死体が転がっていた。
「っ!?」
「これ以上声出すと、お前にも同じ事をするぞ」
「すみませんそれだけは許して下さいお願いします!」
それはもう、怪我では済まされないかもしれない。
改めて彼は救世主であり、爆弾なのだと知る。
スピカは全力疾走、と言うには程遠いスピードだが、足を速めた。
この調子ならいけるかもしれない、と思った。
しかしそれが、油断大敵というやつだとは、スピカは気づかない。
森を宛てもなく走っている所からして、おかしいのだが。
油断、していた。
「――あーら。嫌だわ。嫌いだわ。私の敵だわ。貴方達」
韻を踏んだ声がした。
「私のペットが死んじゃった。貴方のせいだわ。貴方のせい。責任とってよ。――この殺人鬼ッ!」
鬼、だ。
2本のツノを生やした鬼。
肩より長いの髪を靡かせ、瞳を不気味な色に染める。
そんな鬼。
「その目。その目嫌だわ。その目は嫌だ。貴方。貴方――最悪ねッ!死になさい!ダイア!!」
目を瞬く様な光に覆われ、目を塞ぐ。
宝石の様な光が、目を攻撃する。
「嫌ぁぁあ!」
「口を塞げ!隠れろ!」
彼がスピカに指示する。
この女は、彼が出会ったものの中で、最強だった。
最強で、最恐。
それが、彼女。
――最恐の鬼。
「あら、あらあらあらあら!素敵ね。素敵!あなた紳士ね!見直した!偉いわ。偉い!素敵よ。素敵!私、あなたに惚れちゃったっ♡」
気持ち悪い声で、気持ち悪い動きで、ころころと変わる気持ち悪い思考で、彼女は追ってくる。
「嗚呼、見たら素敵じゃないの。素敵じゃないのっ♡私、あなたを大事にするわあっ♡」
「気分が良いところ悪いが、君は片想いだよ。俺は恋をするつもりはない」
「まぁ!言うわね、あなた。素敵よ、あなた。敵じゃなかったら、良かったのにィ」
あくまで平然を装う彼に、スピカは頼もしさを感じつつ、無力を思い知らされる。
「――い」
もっと役に立てればと、そう思う。
落第しても良いから、ランニングはしておけば良かったと、今更ながらに後悔。
「お前」
ランニングが無理なら、勉強でもしておけば良かった。
今を無能として生きるよりも、元の世界をやり直したいと、後ろ向きに思う自分が嫌になる。
「おい、お前!」
「へ?」
考えに没頭していたせいか、彼はかなりお怒りの様だ。
眉間にしわが寄り、いらいらしている様子が、見てとれる。
「ウル・アクア」
「え?」
「唱えろ!」
スピカは不満に思う。
これ程理不尽な事があるだろうか。
人に命令しておいて、理由もなしとは。
少し歯向かってみようと、好奇心が顔を出した。
「どうして?」
「アネス――」
「唱えます唱えます!」
即座に却下。
――酷い。
スピカは口を開く。
嫌々ながらも呼吸を落ち着かせる。
息を吸い込んで、唱えた。
「ウル・アクアーっ!」
羽の先から、鱗粉が舞った。
青白い、綺麗な光の粒達が、スピカを取り巻く様に動き、水の矢へと変化した。
「えいっ」
随分と気の抜けた掛け声に合わせ、矢は鬼に当たっていく。
「うわぁ。痛いわ、痛い。おかしいわ、おかしい。素敵よ、素敵。綺麗よ、綺麗!!」
「邪香に取り憑かれたにしては、不思議なものだな」
「あら、そんな事ない、そんな事ない。私は自我を持っているもの!嗚呼でも、そうね。そうだわ、そうね。あなたから殺してあげるわ♡ルスペクア!」
銀色の宝石が降ってくる。
その飛礫を避けながら、涙目になって走る。
「何でこんなに無傷なの!?」
「鬼だからだ!以上!」
「理不尽!」
この世界の圧倒的な差に、早くも心が折れそうだ。
あの鬼と戦うのはどうだろうか。
「うふふぅっ♡」
「無理!」
真っ向から立ち向かうのは、自殺行為としか言いようがない。
やめよう。
だったら――、
「えーっと!えーっと!出口!出口!」
森を抜ける出口を探す。
走りながらで、咳き込みながらも懸命に探す。
「あーらあら。見つかっちゃう、うわ、どうしよう。大変だわ、だわ、どうしよう。抜けられちゃう、うわ、どうしよう。きゃーっ♡逃・げ・な・い・で〜っ!」
韻を踏んだ様な喋り方も、神経を逆撫でする声も、気味の悪い話し方も、不気味に光るツノも嫌。
一刻も早く、ここからいなくなりたい。
その時。
「あっ!あそこ!出口よ!出口!君、早く!!」
「言われなくても分かる!」
二人で出口を目指す。
一筋の、希望の光に向かって。
「やーっ!」
威勢の良い掛け声と共に、闇から光へと抜けた。
「あーあ。失敗よ、失敗。敗戦よ、敗戦。黒星よ、黒星。あーあ。つまんない〜っ♡」
鬼は息切れするスピカ達をおいて、去ってゆく。
あっという間だった。
気づいたら襲われ、気づいたら去っていく。
「何はっ、ともあ、れ、よかっ、た」
「はっあっ、はっあっ。つ、かれたっ」
手をつき、息を調節。
異世界転生早々、飛んだ目にあった。
早く、安全な道へ――
「別の道で行くか。後で、報告するから案ずるな」
早く――
「おい、聞いてるのか?」
安全な――
「――ねぇ、森に入ったのって、私達だけ?」
「は?……!それは――」
彼が口籠る。
スピカは、しっかりと覚えていた。
頭の中で蘇る。
――他にも、森に入った人がいた事を。