数字とカメラ
以下は散歩中に空を眺めていて考えたことの書き置きである。文中にカメラのレンズに関する記述が出てくるが、全て織野の想像により補完された情報であり、検索ウィンドウに文字列を打ち込んで確認する作業すらしていない。したがって書かれている情報の真偽に関してはまったく保障しない。何か間違いがあった場合は並行世界の人間が書いた文章ってことにしてください。
私の父親はカメラが好きであった。
そして幼少の織野は(現在もだが)手持ち無沙汰になると手当たり次第に文字を読む癖があった。おそらくその合わせ技で目にしたのだと思うが、カメラのレンズについて記述した雑誌か何かが目に入り、そこに「無限遠」という文字があるのを見つけたのである。望遠レンズとか接写レンズとかそういう言葉を聞いたことがある気がするので、多分、撮りたいもののスケール感に応じてレンズを適切に選ぼう、みたいな記事だったんじゃないかなあと思う。確認する術はないが。
それはそれとして、無限――である。
当時は数学どころか「さんすう」を学んでいたかも怪しいため、無限という概念を正確に把握できていたとは思いがたい。だがその言葉に含まれている望遠にして雄大なイメージは、何となくではあるが知っていた。なんか途方もなくでっかいもの。どれだけ大きいものより更に大きいもの。当時の織野にとって「無限」とは絶大なパワーワードだったのだ。よく分からないがそのレンズは「無限」を収められるらしい。めちゃくちゃ凄いではないか。
でも同時に「あれ?」と思ったのである。カメラのレンズなんてせいぜい数センチの厚みが良いところである。幼子の手でも握れる程度のサイズ感しか備えていないくせをして「無限」様と対等な顔をしているのは何事だ? そんな小さな引っかかりが、記憶の奥のほうにトゲとなって残っており、散歩しながら空を眺めていたときにふっと思い出したのである。
今から思えば多分、あれは焦点距離の話をしていたのだろうな、と想像する。レンズと焦点距離の話は中学校理科で重要なトピックのひとつだ。蝋燭のような点光源と凸レンズ、そしてスクリーンという三者の位置が特定の関係性を満たすと、スクリーンに蝋燭の実像が映り込むアレである。蝋燭と凸レンズの距離が焦点距離を超えるかどうかで像のできかたが変わる。そして、蝋燭を際限なく遠くまで離した場合は、レンズに差しこむ光を「平行」と見なせるのである。
要するに、先述のカメラ雑誌の記述で織野が引っかかりを覚えた「無限遠」とは「平行」を差していたのだと思う。気がついてしまえばそれだけのこと。十数年の空白を経て疑問が解け、なぁんだ――と苦笑したが、いやいや、これはなかなか面白いことだぞ、と感じたので文字に起こした次第である。
無限というのは文字通り、限りない大きさを示す空想上の概念である。無限の大きさとか無限の重さとかは現実には存在しない。だが「無限遠」からやってきた光が「平行」に限りなく近づくことで、その光は有限の焦点距離の向こうで重なり合う。手が届かないはずの無限が、ほんの数センチに収まったのである。要するに1/n(n→∞)がゼロに収束することへの感動を、あの幼少の日に、僅かながらも掴んでいたんじゃないかなぁと思う。