予選
「ランス、この後どうするの?」
歩きながら、振り向かずにランスは答えた。
「今日はもう遅いから宿に泊まろう」
素っ気ない後ろ姿のランスの後を、私は付いていった。
「予選は明日あるんだ。参加は当日で出来るから、今日はゆっくり休むように」
「うん、ありがと。お休み」
宿の部屋に入ると、私は安っぽいベッドに倒れこんだ。ベッドはふかふかして気持ち良い。
明日の予選はどんな事をするのだろうか。楽しみで胸がドキドキしていたが、しばらくすると瞼が重くなってきた。
私はそれに逆らわず、そっと目を閉じた。
「おはよ、ランス。よく眠れた?」
「まあまあだよ。君もよく眠れたみたいだね、寝癖がついてるよ」
頭のてっぺんを触ってみると、なるほど髪が逆立っていた。頭の上でハリネズミを飼っているようだ。
「それじゃ、会場へ行こうか」
私は頭を何度も撫でながらランスの後を付いていった。
会場は町の広場にあるようで、大きく開けた場所に人が沢山集まっている。
「すいません、僕とこの子、大会に出場したいんですけど」
ランスが受付にいた若い男に話し掛けた。男は私とランスの方を少し見ると、二人に鉢巻を渡した。
「それじゃ、これ付けて。予選はもうしばらくしたら始まるので少々お待ちください」
私は手元の帳簿に何か書き込んでいる受付に声をかけた。
「予選って、何をやるんですか?」
「マラソンですよ。ノウ・ウッズの町を一周。お二人を入れても参加人数はほんの百人程度ですけど、全員を戦わせる訳にはいきませんからね。上位二十人を予選突破とするんです」
私は目の前が真っ暗になった気がした。ランスに支えられ、私は受付の前を通り過ぎた。
泳ぐのも飛び跳ねるのも大の得意だが、走るのは別だ!
「良いかい? 足を前に出すときは腰から動かすんだ。腕は真っ直ぐ大きく振って、背中は伸ばす。足の動きは車輪をイメージして、着地したらいち早く蹴り上げるんだ」
落ち込む私をランスが一生懸命励まそうとしてくれている。それは嬉しかったが、マラソンの事を考えると気が沈む。
「君も、マラソン苦手なの?」
座り込んでいる私に古っぽいマントを着た青年が話しかけてきた。額には鉢巻をしている。
「うん。走んの、すっごい苦手」
青年は口元に手を当てクスリと笑った。人のよさそうな笑い方だった。
「実は、僕も走るのは苦手なんだ。面白そうだったから出場する事にしたけど予選がマラソンだとはね。参ったよ」
ランスより上手に青年は肩をすくめて見せた。
「そろそろ予選が始まるみたいだね。僕はもう行くけど、一緒に頑張ろうね」
そう言って青年はどこかへマラソンのスタート地点らしき場所に歩いていった。
「僕たちも、そろそろ行こう。座り込んでちゃ始まらない」
ランスに言われ、私はようやく重い腰を上げた。
スタート地点の辺りにやってくるとランスが私の腕を引いてきた。
「なに?」
「ちょっと前に出よう」
ランスに腕を引かれ、私は人混みを掻き分けるようにして前に進んだ。かなりマナー違反だが、仕方ない。
人を押し退け、無理矢理前へ出るといつの間にか最前列へ来てしまった。横を見ると、恐らく本業の剣士だろう、強そうな人が沢山居た。他にも、四十代くらいの労働者風の男。二十かそこらに見える踊り子風の女、様々な人が居た。
人の群れの端の方に先程の青年の姿も見られた。苦手だというマラソンを前にして神妙な顔をしている。
私達より後に受付をした人もいるようで、一人、また一人とスタート地点の人が増えていく
「ん、始まるみたいだね」
ランスが指差した方には銀縁の眼鏡をかけた初老の男性が立っていた。人垣の先頭辺りから出場者を見渡している。
「皆さん、お静かに」
男性が言うと、小さく準備体操などしていた出場者達が静まり返った。
「本日は晴天に恵まれまして、今大会を開くに当たってまことに……」
話の途中で先程の青年が手を上げた。
「ごめんなさい、緊張しちゃって胸が苦しいんで……早くスタートして欲しいです」
青年がそう言うと、男性は微笑みながらゆっくり頷いた。
「そうですか、そうですね。どうか皆さん、無理をされぬよう。では……スタート!」
男性の一声で皆が一斉に走り始めた。私達も人だかりに押されるようにしてスタートした。
走りはじめだけあってペースは決して悪くなかった。足の早そうな人も最初はあまり飛ばさないのか、今の所誰にも引き離されてない。
「とにかく、振り向かずに走れば良いんだ」
走りながらランスが言った。私は軽く頷いて、再び走ることに意識を集中させた。
しばらく走っていると、すぐに息が切れてきた。心臓が暴れ、胸が苦しい。段々と足がもつれてきて、走りづらかった。
横を見ると、いつもの余裕面は消えているものの、姿勢良く走り続けるランスの姿があった。
私達の横を走っていた速そうな人たちがペースを上げてきた。いや、私達のペースが落ちただけかもしれないが。ともかく、どんどん抜かされていくのが分かった。
今横を抜かしていったのは、何人目だろう? 別に私達が最下位ではないにしろ、上位二十人に入れないなら結局同じだ。
私がふと、横を見るとあのマントを着た青年が走っているのが見えた。しっかりしたフォームで、息もほとんど切らさずに走っている。
何だ、マラソンが苦手なんて嘘じゃないか。私は心の中で悪態をついた。
青年の方を見ていると、彼が突然こちらを見た。目が合うと、人のよさそうな笑みを浮かべた。
すると、突然前を走っていた人達が走るのを止めた。と言うより、走れなくなっていた。先頭近くを走っている人たちの辺りだけを物凄い風が吹きつけた。立ち止まった人は飛ばされぬよう踏ん張り、走り続けようとした者は転んでそのまま横の方へ転がっていった。
驚いて先程の青年の方を見ると、青年はもうそこには居なかった。強風地帯の先頭を走っている。
「よし、一気に突っ切ろう」
ランスに促され私は悲鳴を上げる体に鞭打ち、一気に加速した。風の中を突っこんでいく為に足を踏ん張っていたが、不思議と風に押される事は無く、普通に走れた。
「19位、20位っ。ここまで! ここまでが予選突破ですっ」
ゴール地点に早変わりしたスラーと地点横に立っている係員の声を私は座り込んで聞いていた。
ちなみに、ランスが16位で私が19位。滑り込みでセーフだ。
「お疲れさん」
既に立ち上がって歩いているランスが私の肩を叩いた。
「よかった……間にあって」
私はまだ息が戻らず、立ち上がる気力も無かった。
何となく、辺りを見渡してみるとマントを着た青年の姿があった。走っている最中は見かけなかったので彼も予選を突破したのだろう。彼は疲れた様子も見せず、しっかりと腹から呼吸をしていた。