元夫はストーカー
5年ほど前、私がこの店で働くずっと前である。
彼、元夫のタイガー様が大公の称号を受けると聞き、私は彼に離婚を突き付けた。
なんてことはない。
彼が大公となれば、私は大公妃。
それが嫌だったのだ。
もともと結婚も私が望んだものではなかった。
ここで勘違いしないでいただきたいのだが、私は決して結婚したくなかったわけではない。
政略結婚でも、夫婦として務めを果たすつもりでいた。
しかし、私と旦那様の関係は他よりも拗れていた。
そりゃもう、切るしか他に方法のない釣り糸のように絡まっていた。
ざっくり話すと、自分の息子を皇太子にしたい第二王子の母、王妃が男爵令嬢である私を、旦那様と無理やり結婚させたのだ。
旦那様のお母様は、平民出身の召使い。
王となる後ろ盾は、妻の家が頼みの綱であった。
もちろん、それら全てが丸く収まったから、彼は今大公と言う地位にあるのだけれど。
私は、無理やりやらされた旦那様を貶める悪女も、王妃にすり寄って悠々自適に暮らす馬鹿な女にも、親のために売り飛ばされた可哀想な子にも、うんざりしていた。
大公妃でいれば、その汚名は一生付き纏う。
場合によっては、旦那様の名誉まで傷つけるだろう。
これが、私が大公妃という権力を棒に振った経緯である。
「ご注文は何になさいますか?」
「……。」
私の問いかけにまたも無言の彼は、ゴツゴツした指で私を指した。
小さくおすすめと呟くのもいつものことで、私が働き始めて半年間、毎日かかさずやってくる。
元夫として心配しているのか、はたまた王妃の手先だった元妻に目を光らせているのか。
おそらく後者だろう。
別れる前から、私の行動は彼の部下によって厳しく監視されていたし、今も商会に月に一度やってきては私の商品を買っていく。
「チョコと抹茶のスフレ1つでーす。」
大公がこんなところにいると知れれば、きっと厄介なことになる。
いや、逆にこんなところに大公がいるなんて誰も思わないか?
注文されてもいないコーヒー豆を挽きながら、店の東側に飾った風景画を眺める。
離婚してすぐ滞在していた東の国の絵だ。
休暇をとってまた滞在するのも悪くないかも知れない。
挽き終えたコーヒーをカップに注いで、使わぬであろう砂糖とミルクも添えて彼の前に置いた。
「いつも御贔屓にしていただきありがとうございます。大したものではありませんが、隣国から取り寄せた豆を使っています。」
私から話しかけたのが驚きなのか、一瞬全身を硬直させた旦那様。
毒でも入っていると警戒されたのか。
結婚当初からの疑り深く慎重な性格は変わらないらしい。
この国には、コーヒーと言う文化はなかった。
それを、商品化しようとしていた隣国を差し置き、先に販売したのはこの私。
今や、気候の関係で品種は隣国に劣るも、堅いコネクションを築いている。
故に、この豆が飲めるのは、王都はおろかこの店のみである。
「この店特製の豆です。きっと陛下と言えどこのコーヒーはお目にかかれませんよ。何せ王都では取引すら難しいのですから。」
なぜならば、私モモラは半年前この地に足を踏み入れて以来、大公領から出ることができないのだ。
出ようとすれば、何十何百の書類を書かされ、それが終われば大公と直々の面会を求められる。
つまり、私はこの男に領地に監禁されているのだ。
「私が王都に行ければ、この領地の繁栄も繋がります。ですが、残念なことに私がこの地を離れるのは、大公様がよく思わないようです。」
大公と言う言葉に、肩を少しぴくりとさせた彼は、誤魔化すようにカップを手に取った。
実は彼、自分が大公だとばれていないと思っている。
こんな巨漢どう考えても、武神様以外あり得ないだろう。
「この領地も良いところですが、私としてはいろんな国に行ったみたいのです。昔から旅行が好きで、根無草のようなことをしてたら、元夫によく叱られました。」
あえて元という部分を強調して話す。
こうやって知らないフリをして、何度本人に旦那様の愚痴を言ったことだろう。
その願いは叶ったことは無いけれど、彼は根はいい人だと思うから、少しばかりは心に留めてくれてるのではと思ってしまう。
無駄話でしたね。失礼しますと、彼に背を向ければ、厨房のカウンターからスフレが頭を出した。