第七話:不可思議なイレギュラー
目を瞑るたびにフラッシュバックする。
耳を劈くほどの悲鳴と影に呑み込まれていく女性。あの影からは理性や本能などは感じられず、機械的に行っているように見えた。
二つの窪んだ目。深淵のように深く、全てを呑み込んでしまう穴が俺を見てこう言っているように感じた『ツギハオマエダ』と。
「洋一」
「ハッ……!?」
自室のベッドに座りながら呆けていた俺が、アルテミスの言葉で意識が戻る。
あれから俺たちは家に帰り、こうして俺の部屋に集まっていた。
ニケとアルテミスは声に出さずとも、心なしか怯えているようにも見える。あれほど喧嘩をおっぱじめそうだったのに、今では無言だ。
戦争や殺し合いなどの単純で分かりやすい恐怖には耐性があるが、先ほどのような得体の知れない恐怖というのには慣れていないのかもしれない。
「あれって、お前らでも倒せる……のか?」
「正直なところ、分からないわ。あんなヤツ今まで出会ったことないもの……」
だよなー、と一言返すとまた無言。
今まで俺たちが戦ってきた鬼が神隠しの黒幕ではなく、あの影だったとしたら、ふわりと消えるようにいなくなるのも合点がいく。寝ている間に襲われようものなら、叫び声を上げることなくどこかへ連れていかれてしまうのだから。
「そういや、ニケってなんでこの世界にいるんだ?」
「え、それは……アテナ様に勅命を頂いて……」
あまり詳しくは話せないようだった。
神の世界の事情はよく知らないが、守秘義務のようなものがあるならこれ以上の詮索をするのは野暮というものだ。
「アテナの勅命ね……全く、アイツはいつもどこか達観してるわよね」
アルテミスも気を使ったのか、話を別の方向へ広げていく。
「そのアテナって神とお前は知り合いなのか?」
「まあ、同じ『純血の契り』を交わした仲だしね」
「へぇ、仲良いのか?」
「あんなヤツと仲良いわけないでしょ! 基本的に神同士で馴れ合わないわよ」
気安い呼び方で否定するあたり、きっと仲は良いのだろう。アテナ様という神様像は分からないが、アテナ様がアルテミスをからかって言い合う所が容易に想像出来る。
「神様同士って馴れ合わないのか? じゃあ普段はどう過ごしてんの? ……独り?」
「アタシたちは神と信者ってコミュニティが出来上がってるの。人間のアンタでも理解しやすく言うと、一つの会社を想像すれば分かりやすいわ。アタシたちは社長で社員は信者で一つのコミュニティなの、お分かり?」
「……なんとなく」
言っていることは分かるが、いかんせん想像が出来ない。それは俺が宗教を信仰していないのが原因だろう。神を信仰するという事がどういう事なのか分からないのだから。
「いや、待てよ。今のこの状況って神様を信仰してるのか?」
目の前に紛れもない神様がいて、俺はそれを普通に受け入れている。崇拝こそしていないが、神様という曖昧だった存在を信じるようになったということは、立派な信仰に繋がるのではないだろうか。
「アンタ……神を前にしてよくもまあそんな能天気なこと言えるわね」
「なんだよ、今さら敬服する心なんて持ってねーからな」
「……まあ、そうね。アンタはそのくらい生意気よね」
妙に納得されてしまう。
そんな話をしていると、ふとあることに気付く。
俺たちの声以外が一切聞こえてこないのだ。ここは住宅街だが、大通りまでそんなに遠くない。車の音や人の声、風や野良猫の鳴き声が聞こえてきてもおかしくないハズ。なのに、それが一切無いのは不自然極まりない。
「まさか……ッ!」
床から突如として現れるあの影。
俺たちは一斉に窓から飛び出し、得体の知れないモノから距離を取る。
俺も部屋が二階あるというのに、思わず飛び降りてしまった。追い込まれた人間はなんだって出来るのだと自分の体で証明してしまう。
「洋一ッ!」
影の狙いは俺のようだった。
物理法則を無視して壁を降りてきたソイツにアルテミスたちと分断されてしまう。
「ここでやってやるしかないわね」
いつの間にか手に持っていた弓に矢を装填し、弦を絞る。その狙いの先には黒い影。およそ人間の目では捉えられない速度で放たれた矢は、影を貫通することなく庭に生えていた木に突き刺さる。
決して外したワケではない。当たる直前にぐにゃりと身体を変形させたのだ。避けるという防衛機構は備わっている。しかも、あれだけの速度の攻撃を避けたのだ。俺の拳でもニケの槍でも倒せるという保証はない。
「……こりゃやべぇな」
もうお手上げ状態だった。あとは、避けるということすら無意味にさせる圧倒的な威力で押し潰せる何かが必要だろう。それこそ核兵器のようなものだ。
だが、そんな事をしたらこの家が無事ではない。
「洋一、場所を変えるわよ!!」
「場所変えるったって……」
一つ、どれだけ暴れても被害が無い場所を思いつく。あの怪物に出会った公園だ。
そこならば人的被害は及ばずに戦えるかもしれない。
それならば急いで移動したいが、生憎家の周りは俺の身長が隠れるくらいの塀に囲まれている。
悠長に登っていれば、あっという間に影に捕まるだろう。だったらやる事は一つ。
「飛び越えてみるか」
三歩後ろに下がり、目の前の壁に相対する。
影が襲いかかってくると同時に俺は全力で地面を蹴る。
ふわり、と有り得ない跳躍を見せた。
軽々と塀を飛び越えたことに俺が一番驚く。ほんの一瞬だが、飛んでいる感覚も味わえた。
感動に浸かっているのも束の間、影の腕のようなモノが塀から覗く。
俺は急いであの自然公園へ駆ける。
公園の入口にはニケとアルテミスが待っていた。
「「遅いッ!!」」
声を揃えて遅刻に対して咎められる。というより、今この状況で遅刻なんて気にしてる方がどうかしてる。
「わりぃって! 取りあえず、アイツはまだ追いついてないみたいだ」
「……のようね」
後ろを振り返っても街灯に照らされた夜道が続いているだけ。あの影が追いかけて来ている気配はない。
だが、また突然近くに現れるとも限らない。二人を連れて公園内に入っていく。
「一つ、作戦を思いついたんだけど」
「ポンコツなのだったら承知しないわよ」
「ポンコツかどうかは聞いてから決めてくれ。ところでアルテミス、お前の弓って着弾と同時に爆発させることって出来るか?」
「……そんなの簡単だけど」
俺の発言の意図を図りかねていると言った顔をする。俺をアルテミスと挟み込むように歩いていたニケは大方の予想はついていたのか、心配そうな目をコチラに向けていた。
「んだったら、この先にかなり大きな湖があるんだけども、そこの中心に俺があの影をボートで誘導するから、今から五分後きっかりにお前とニケ、二つの武器でアイツを撃ち抜いてくれないか? 圧倒的な火力で叩き潰してほしい」
「待って、それって……アンタ諸共撃ち抜けっていうの!?」
「ダメだよ、先輩!!」
「……バカヤロ、そんな心中願望はねぇよ。ちゃんと時間を計算して逃げ出すっての」
心配してくれる彼女たちに頬が緩んでしまう。
否定をするが、二人はイマイチ俺の言葉を信用し切ってくれないみたいだった。
「アルテミスが言ったんだぞ。立ち向かう意志を見せろって。だったら、俺は俺のやり方で戦ってみせるさ! な?」
目を閉じ、考える素振りをみせる。
彼女たちがそこまで俺の身を案じてくれる理由は分からない。ただ利用出来る人間が消えることが嫌なだけかもしれない。せっかく眷属にしたのに、その苦労が水の泡にすることが嫌なのかもしれない。
だが、どんな理由があれども、俺はまだまだアルテミスたちと生活したい。この先に何が待っているのかを見に行きたい。その為に今を生き抜く。それが俺の立ち向かう意志。
やがて、開かれた目には覚悟の光が見えた。
「分かったわ。五分きっかりで撃つ。巻き込まれないようにちゃんと逃げる事ね」
「絶対に生きて帰ってきてくださいね、先輩」
「あぁ!」
拳を突き合わせ、互いに背中を向けて走り出す。
この湖はボートで遊覧することも出来る。その為の桟橋が近くにある。
勝手にボートを使い、あまつさえ破壊してしまうことに少し気が引けたが、そんなことは後でどうとでも出来るだろう。
携帯の時間を確認すると、あと三分を切っていた。
急いでボートに乗り込み、オールで漕いでいく。
なるべく湖の中心へ向かう。陸に近すぎると、爆発の跡や施設に損害が及んでしまう。そんなことになれば、かなりのニュースになる。避けるべき事案だ。
およそ中心だと言える場所まで来る。
残りは三十秒ほど。黒い影はまだ見えない。
不思議と気分は高揚していた。漫画の世界だと思っていた非日常が今現在で展開されているという事もあるだろうが、背中を預け合って戦うというのは心が踊る。まるで体育祭の騎馬戦の時の感覚。
「来たな……!」
ワクワクを噛み締めていると、ボートの底から這い出てくるようにあの影が現れる。
時間は残り十秒ほどだろう。もっとも効果的にダメージを与える為に、ギリギリまでこの影を引き付けなければならない。
いつ襲われてもおかしくない距離感で睨み合う。
「俺を殺したいか? でも残念だったな、死んでいくのはお前だけだ」
空が一瞬だけ光る。
きっとニケの神槍とアルテミスの矢が放たれたのだろう。
それを見計らって、俺はボートを思いっきり蹴って飛び出す。やはり、俺の身体能力は人間なんかと比べ物にならないくらい上がっていた。
ほんの少しの滞空。その直後――。
俺の身体を軽々と吹き飛ばすほどの衝撃波と共に湖の水が高々と舞い上がった。
「うわっぷ――ッ!!」
無様に背中から水面に叩きつけられ、身動き一つ取れずに水中に沈んでいく。肺に溜まっていた酸素は水泡となって水面に逃げていってしまう。
薄れゆく意識の中、何かの記憶が流れてくる。
俺の知らない記憶。いや、知らないのも当たり前だ。これは俺の記憶ではない。
全く他人の負の記憶。悪意と憎悪の塊。それも一つや二つではなく、幾人もの記憶が一斉に流れ込んでくる。
胸が酷く締め付けられる。
これはきっと、あの影に襲われた人たちのモノなのかもしれない。
助けることが出来なかった人たちが、みんな最後に口を揃えてこう言う『どうして自分がこうなるの』と。
(あぁ……みんな、生きたかったに決まってるよな。誰かに助けて欲しかったんだよな)
手を差し伸べることすら出来なかった自分に対して、やり場のない怒りが湧く。
死者が手招く水底に堕ちていく。
これが人々を助けられなかった自分への罰なのか、と諦めかけた時、ふと腕を引っ張られてとてつもない勢いで水面に引き上げられる。
「先輩ッ! 大丈夫ですか!?」
ゲホゲホと肺に入った水を吐き出し、霞む視界でソレを見ると、金髪の少女が俺を抱き上げていた。
どうやら、俺が溺れた直後に救出してくれたようだ。ニケも俺もずぶ濡れになりながら、陸に降ろされる。
「洋一っ!」
駆け寄るアルテミスは今まで見たこともないくらい必死な形相をしていた。
「……や、やった、のか?」
「ええ……バカのお陰でね」
「へへっ……酷い言われようだ……」
「先輩が生きてて良かった……」
二人ともふにゃふにゃになりながら、地面に座り込む。
俺も立ち上がる余力はなく、仰向けになりながら夜空を眺める。煌々と輝く月は昨日と変わらず、俺たちを照らしてくれていた。
「二日連続死を覚悟するなんて、貴重な体験だな」
周囲に喧騒が戻り、虫の鳴き声や遠くで走る車の音が心地良い。
ふとアルテミスたちの声が聞こえてこないと思い、首だけ上を向けると、二人とも肩を預け合いながら寝息を立てていた。
人間味溢れるその姿を可愛いなんて場違いなことを思いながら、今日の夜はもう少し続いた――。