第六話:再戦せし邪鬼
俺は今現在、男子トイレに篭っていた。
腹が痛いだとか便所飯だとかそういう訳ではない。
今朝からずっと誰かに見られているような感覚がある。しかも好意の眼差しではなく、殺意のような不快な感覚。
そして、昼休みである現在、トイレに篭って逃れているということだ。
あんな気持ち悪い状況で飯など食えるはずもなく、空腹に耐えながら状況を打開する策をここで考えている。
幸い、男子トイレにいるとその視線は感じない。そこから導き出される答えは――。
「ストーカーってやつか!」
「なんでそうなるんですかっ!?」
隣の個室からツッコミを入れてくる女のコの声が聞こえてくる。
絶対に有り得ない状況に若干震えながら、個室の扉を開けると、そこには見覚えのある女のコが立っていた。
おでこを出した金髪の少女。そしてその異質さを醸し出す青と黄色のオッドアイ。
先日図書室で出会った後輩らしき女のコだ。
「えっと……ここ男子トイレなんですが?」
男子トイレに堂々と侵入してくる女のコはこれで二人目。
「それはその……先輩に恩返しをしようと……」
「恩を売るような真似はしてないんですが……」
「えっと、本! 本を取ってくれました!」
さも今思いつきましたと言わんばかりに薄い理由。だが、本を取ったのも事実。彼女なりに恩義を感じてくれていたのかもしれない。
「まあなんでもいいや。取りあえずここから出ようか」
「はい!」
こういう時に限って不幸というのは起こる。
入り口付近で固まっている慎二の姿。女のコと共にトイレから出てきた俺。どちらに非があるのかと言えば、完全に俺だろう。
慎二の口元が徐々につり上がっていく。
「おい、ちょっと待て」
「おい、聞いてくれみんな!! 洋一がトイレに女のコ連れ込んでるぜー!!!」
そう言いながら走り去っていく。
今朝のデジャブを感じながら、慎二を追いかけることはせずに俺たちは食堂に向かう。
約五百人が入ることが出来る学校の食堂。食券も定番メニューから日替わり定食まで幅広い人気があり、いつもすぐに満席になる。
たまたま空いている席を見つけ、俺たちはそこに座る。
「んで、恩返しとは何をしてくれんの?」
激辛麻婆ラーメンを食べながら訊ねる。
「ほへはへふへ……」
「食うか喋るかのどっちかにしろ」
一方、名前不詳の謎の後輩はカルボナーラを食べながら喋る。
「先輩の願いを叶えてあげます!」
「願い? 具体的には?」
「例えば、地球をぶっ壊したいとか人類滅亡とか……みんなを裸族にしたいとか無理ですけど」
「待て、最後のなんだ!?」
地味な嫌がらせのような願い事など誰もしないだろう。
俺のツッコミを無視して話を続ける。
「億万長者になりたいとか未知の力が欲しいとか、嫌いな人を殺したいとかなら良いですよ」
不穏な単語が聞こえてくる。
本気の目をしたこの子は、おそらく願えば人ひとりくらい軽々殺してしまうのではないか、とそんな不安がよぎった。
「もちろん、一人と言わずに何人でも可能ですよ」
無邪気な笑顔が逆に怖く感じる。
人の命なんて蟻んこ程度にしか思っていないような思考が、俺には理解出来ない。
「考えとく」
「えー! 今考えてくださいよー!」
「また今度な」
そそくさとその場から退散しようとしたが、ゾワリ、と全身の毛が逆立つ。
朝から感じていた誰かに見られている感覚。
いや、本当はその正体に気付いている。聞き込みの時に葛城綾子も同じ症状に陥っていた。おそらくあの化け物が今か今かと俺を襲うタイミングを見計らっているのだろう。
「先輩、どしたんですか?」
その言葉で我に返る。
冷たい汗が頬を伝う。
「お前、本当に願い事を叶えてくれるんだよな?」
この子に頼むのは筋違いだ。
でも、人を殺してのけるようなヤツだったら、もしかしたらもしかするかもしれない。
「退治して欲しいヤツがいるんだけど……」
「退治? 桃太郎ですか?」
言い得て妙とはこの事だろう。
やって欲しいのは鬼退治に変わりない。だが、何も関係ないこの子を巻き込んでいいのか。僅かな良心が俺の中で最後の枷となっていた。
「ちょっと、こっち来い」
後輩の手を引いて食堂から出ていく。
やって来たのは誰もいない空き教室。ここなら誰にも聞かれる心配はない。
「先輩……」
「どうした後輩」
「何かあったんですか?」
「なんでそう思う?」
「手、震えてますよ」
そう言われて初めて自覚する。
後輩の手を握っている俺の手はみっともなくガタガタと小刻みに震えていた。
「さっきのお願いはやっぱり無しだ」
「え、良いんですか?」
この女のコの言うことが本当だったとしても、巻き込むことは俺の心が痛む。自分の問題は自分でどうにかするしかない。
「ああ、ただ……神隠しだけは気をつけろよ」
「神隠し?」
「そうだ。死にたくなかったらな」
そう言い残して、空き教室を出る。
丁度よく昼休みが終わるチャイムがなり、未だに感じる視線を背に教室に戻ることにした。
◇◆◇◆◇◆◇
午後の授業を全て消化し、俺はアルテミスと一緒に下校していた。
転校生という特別な存在と、その容姿も相まってクラスの中ではすっかり人気者になっているようで、俺が話しかける隙が全く無かった。
お陰でアルテミスはすっかり疲弊した顔をしている。
「人気者はお辛いようですね」
「疲れたわぁ……人間ってどうしてこんな事で舞い上がるのかしらね」
「そりゃ、目新しいものには興味を惹かれるからな」
バカばっかと毒づきながら、身体を伸ばす。
「それで、なんで学校に入ったんだ? 単なる物見遊山じゃないんだろ?」
「……さぁね」
喋る気はないようだった。
第一ここにいる理由すら分からないのに、学校に転入してくる理由をすんなり教えてくれるハズもない。
人間界を楽しみたいなんて簡単な理由でもなさそうだ。言いたくないのならそっとしておくに限る。
「そういやさ、今日ヘンな後輩に会ったんだよ」
「アタシからしてみれば、人間みんな変だけど」
「まぁそうだろうけども……とにかく、その後輩がマジでヤバい奴でさ、男子トイレに入ってくるし、へんな恩義感じて願いを叶えてくれるって言うし、外国人みたいな金髪でオッドアイなんだよ」
「……へぇ、確かにおかしなヤツもいたものね」
緩やかな坂を下り終えるとある事に気が付く。
先程まで感じていた視線を全くと言っていいほど感じなくなっていた。
それで逃れられたとは思わないが、悩みの種が消えるに越したことはない。
「あ、ちょっと病院寄ってっていいか?」
「別に構わないけど、何? 怪我でもしたの? そのくらいすぐに治るでしょ」
「違うっての。昨日、俺が殺される前に大怪我負ったヤツがいてさ、そのお見舞いに」
「怪我で済んで良かったわね。最悪殺されてたかもしれないのに」
「そうだよな。命だけでも助かって良かったよ」
こうしてアルテミスと不思議な気持ちにさせられる。
会ったのはつい昨日の話なのに、何故かずっと前から知り合いだったような距離感で会話することができる。少し気を抜くと、相手が神様だということを忘れてしまいそうになりそうだった。
彼女もこの距離感で文句は言わず、コチラとしても付き合いやすい。だが、俺以外の他人を相手にした時、若干警戒心を剥き出しにするのは何故だろうか。
行きがけに適当な花を買い、結衣の入院している市内の病院に立ち寄る。
既に集中治療室ではなく一般病棟に移っていたが、意識が回復するのはまだ先のようだった。
花瓶に挿さっていた花を取り替えて、先程買った花を挿す。
「この人間が?」
「そう、俺の幼なじみでさ、俺を庇って重傷だよ。全く、何やってんだか……」
痛くなるほど拳を握りしめる。
俺を助けて一人だけ怪我を負った結衣にも腹立つが、一番は無力な自分に腹が立つ。ただこうして眺めていることしか出来ない。
「俺が神様なら、助けれたのかな……」
「そうね。この人間を助けれなかったのは、アンタに力が無かったから。これからも大切な人を守り続けたいなら、力を付けなさい。万人を救える力を」
その言葉は、だいぶ昔に夢見ていたヒーローに熱を灯す。
俺はみんなを幸せにしたいからヒーローに焦がれた。でも、何故ヒーローになりたかったのかそのきっかけは忘れてしまっていた。
「ああ、そうだな」
「ただ、自分の力量も弁えずに突っ込んでいくのは愚者のすることよ」
決意を新たにしようとしたところで、アルテミスから痛い指摘が入る。
「でも、何もせず逃げることは下劣のすること。立ち向かう意志を持っている人間がこの世で最も優れていると思っているわ」
褒められているのだろうか。
昔、誰かに同じことを言われた気がした。誰に言われたのか、それだけが思い出せないが、とても大切な人に言われた気がすることだけ思い出せる。
「用が済んだならさっさと帰りましょ。アタシお腹空いたわ」
「神様でもお腹は減るんだな」
「当たり前じゃない! ほっといたら餓死するわよ」
そんな冗談を言い合いながら、俺たちは帰路に着く。
が、そうは問屋が卸さない。
帰る頃には時刻が午後六時を指していた。
絶好の帰宅ラッシュの時間帯のハズなのに、周りはあまりにも静かでこの世界に取り残されてしまったのではないかと錯覚してしまうほど。
隣のアルテミスを見ると、同じ感覚を受け取っているようで、厳しい表情をしていた。
普通の住宅街だというのに、人の声が聞こえないとここまで別世界のように感じるのか。
「アルテミス……」
背中を貫かれるような殺気。
後ろを振り返ると、そこにはあの怪物が佇んでいた。赤い目が俺を捉えるなり、咆哮しながらまっすぐに突っ込んでくる。
「ほら、行ってきなさい」
突然、背中を蹴り押される。
友達の輪の中に息子を送り出す母親のような行動に、俺は思わず呆気に取られてしまう。
「早くしないとそのまま殺されるわよ」
正面に向き直ると、既に邪鬼は数メートルの場所まで来ていた。もう接敵するまで一秒も無い。
「ちっ……くしょぉぉ!!!!」
このまま逃げるくらいなら、ぐちゃぐちゃにひしゃげるまで戦うしかない。
敵わぬ相手だと分かっていても拳を振り上げ、怪物に向かっていく。
俺の拳が怪物の拳とぶつかり合う。
本来ならそのまま押し潰されて、俺は跡形も無くなっていたハズだが、目の前で起こったことはその真逆だった。
ベチャっと遥か遠くに肉塊が落ちる。
それは、俺のものでもアルテミスのものでもない。目の前の怪物の腕が俺の拳によって吹き飛ばされたものだった。
「……へ?」
耳を劈くほどの断末魔が響く。
悪鬼は千切れた腕を押さえながら悶え苦しむ。
「これって……」
殴った衝撃こそあれど、俺は五体満足でここにいる。
「洋一、まだ来るわよ」
アルテミスの声で我に返る。
吹き飛ばしたハズの怪物の腕はいつの間にか再生され、敵意はさらに増大していた。
掴みかかってくるその足を目掛けてもう一度その拳を振り下ろす。
だが、腕より足の力の方が強いのは人体構造の道理。俺のちっぽけな身体は足の一振で音速に近い速度で数百メートルも吹き飛ばされる。
民家の壁を突き破り、地面に身体を何度も打ち付けながらようやく運動エネルギーが尽きる。
全身が痛いでは表しきれなかった。脳の容量は既に痛みに支配され、自我を守る為に大量の神経伝達物質が脳から溢れ出ているだろう。
「……あっ……かはッ!!」
口から赤い塊を吐き出すと、身体の芯が冷えるのを感じた。
揺らめく視界で捉えたのは、ゆっくりとコチラに向かってくる悪鬼の姿。
「や、べぇ……よ」
指先くらいしか動かない状態でこの危機を脱することは出来ないだろう。
アルテミスはどこに行ったのだろうか、と頭の片隅でそんな事を考えられるくらいには余裕があるが、依然としてピンチなのは変わりない。
「先輩ッ!!!」
怪物が腕を振り上げた瞬間、聞き覚えのある声が響く。
俺の横を金髪の少女が駆けて行く。
手に持っている身体の倍ほどある槍を使って、怪物を軽々と薙ぎ払う。
「おま、え……」
振り返ったその姿はやはりあの後輩で、オッドアイの瞳が悲しそうにこちらを見ていた。
「ゴメンなさい、有坂先輩。騙すつもりは無かったの。けど、もう言い訳は出来ないかな」
なんとなく想像はついた。
どことなくアルテミスと同じ雰囲気を纏っている。この子も神様なのではないか、と。
「ヴィクトリアの加護よ!!」
その小さな背中からは、両手を広げても足りないくらい大きな翼があった。
まだ動く悪鬼に向かってその槍を構える。
紅く不気味に輝く神槍を携えて一気に上空まで羽ばたく。
「撃滅せよ、クアドリガ・ロンヒッ――!!!」
周り衝撃波を発生させながら、その槍は怪物の身体を貫き、地面に倒れることなく粒子状になって跡形もなく消えていった。
「やっぱりアンタだったのね、ニケ」
降りてきた金髪の少女に対して、いつの間にか俺の隣にいたアルテミスが言い放つ。
「アルテミス……何故アナタがここに?」
「アンタこそ、洋一にちょっかい出そうなんて……死にたいのかしら?」
不穏な空気が漂う。
ヘタな行動を取ろうものなら、このまま戦争が始まりかねない。
「ま、待てよ! こんな所で喧嘩なんて始めんな!」
二人の間に割って入る。
アルテミスの神性を分けてもらっていたお陰で、あれだけの大怪我をしていたのに大体は治っていた。
「退きなさい洋一!」
「退いてください先輩!」
今にも諸共殺されそうな勢いに足が震える。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
突如として街に響き渡る絶叫。
女性の声だが、ニケやアルテミスのものでは無い。別の誰かが上げた叫び声だ。
今の今まで敵対し合っていたが、自然とその声のした方へと走り出す。
割と近い場所にソレはいた。
影。表現するにはそれが精一杯だった。人の形を成した影が女の人を地面に呑み込んでいく。
「……な、なんだよ、アレ……」
声が震えているが分かる。
あまりにもおぞましく、理解の及ばない光景に俺たちは言葉を失っていた。
助けることも出来ずにその影は女性をあっという間に呑み込んで消えていく。残ったのは何事も無かったかのように存在するコンクリートと、それを見届けてしまった俺たちだけ。
俺や結衣を襲ったあの鬼であればまだ分かりやすい。化け物であることには変わりないが、本能的に殺されることや喰われることは理解出来る。が、あの影は全く得体の知れない何か。俺の知見では形容すら出来ない化け物というカテゴリから超越したモノ。
「……ッ!」
周囲に戻った雑踏で我に返る。
あれだけの事があったにも関わらず、周りの人間は何事もなくその地面を歩いていく。
逆にぼーっと立っている俺たちを通りがかる人々は奇異の目で見てくる。
「……なんだったんだ?」
「分かるわけないじゃない……!」
「先輩……」
震えを隠すように金髪の後輩は俺の制服の裾を掴む。
「……と、取りあえず家に帰ろう」
強烈に刻み込まれたあの光景を振り払うようにして、二人を連れて家へと向かう。
複雑怪奇した『神隠し』は俺たちの予測出来ぬ方へとさらに加速している。
深淵へと誘う手からは、もう逃れることは出来ないのかもしれない。