第五話:狩猟と純血の神――アルテミス
部屋に暖かな陽射しが差し込む。
眩しさを感じながら瞼をゆっくりと持ち上げる。いつも見ている白い天井がそこには広がっていた。
記憶の整理がつかない。昨日、何がどうなってここにいるのか。
「確か……死にかけて……」
「アタシが助けたってワケ」
聞き慣れない声が聞こえる。
身体を起こすと、勉強机の椅子にその子は腰掛けていた。
透き通るような銀髪のツインテールの少女。白いワンピースを着て、黒い腰紐を丁寧なリボンにして結んである。
「えっ、と……?」
その美しさに思わず言葉が詰まってしまう。
聞きたいことは山ほどあるのに、視覚で捉える情報だけで脳の容量がいっぱいになってしまい、言葉が上手く紡ぎ出せない。
「アタシはオリンポスの神が一柱――狩猟と純血の女神アルテミスよ」
知識だけでは知っている。ギリシア神話の神様であり、オリンポスの十二神の一柱。
「あの、昨日は助けて頂いたようで……ありがとうごさいます」
生憎、神様に対する敬意の表し方などは一切知らぬが故に、社会的な語彙しか出てこなかった。
「……なんか調子狂うわね。もっと生意気な人間だと思ってたのに」
「いや、神様に会ったことなんてないから、どう接していいのか分かんないんだよ」
「ふぅん……会ったことない、ね……」
訝しげに俺の顔を眺めるアルテミス。
ある程度女性慣れしているハズの俺も、ここまで美しい女性にまじまじと顔を見られると恥ずかしさが込み上げてくる。
「な、なんだよ……?」
「いえ、なんでもないわ。それより、今ならアタシに質問する機会を許すわよ? 聞きたいことが沢山あるんじゃなくて?」
俺の心を見透かしたように妖しく微笑む。
「……なら、アルテミスの呼び方はどうすればいい?」
「くっだらない事から聞いてくるのね。そのままでいいわ。それが一番呼ばれ慣れてるもの」
「じゃあ、アルテミスはなんで俺を助けてくれたんだ?」
少し考える素振りを見せる。
神様である彼女がただの人間を理由も無く助けるとは思えない。しかも、ギリシア神話なんて俺とは縁もゆかりも無い。
助けてくれたことは感謝しているが、理由が不透明過ぎて逆に怪しんでしまう。
「目の前に死にそうな人間がいた。だから助けた、じゃダメかしら?」
「……いや、ダメじゃないけど……」
「じゃあそういう事にしておいてちょうだい」
「……」
何かを隠している。直感的にそう思った。
俺を助けた理由は他にある。アルテミスは確かに俺を意図して助けたが、その理由までは話せない。本音と建前の乖離性が激しく、俺自身もそれ以上追求することは避ける。
「案外、人間味があるんだな」
「アンタは神をなんだと思ってるのよ」
「想像上だともっと傲慢で自分勝手だと思ってた」
「お望みならば、そうしても良いのよ?」
いたずらっ子のように笑うその姿は、もう立派な人間だと言っても差し支えないだろう。
もしかしたら神様は人間と対して変わらないのかもしれない。今まで物語や想像では、荘厳で神々しく、文字通り手の届かない存在のように描いてきたが、それは人間の勝手なイメージの押しつけでしかなかったのかも。
「聞きたいことはそれだけかしら?」
「いや、最後に一つ。昨日の夜、死にかけだった俺をどうやって治したんだ? 神の為せる技ってやつか?」
「まあ、そんなところよ。アタシの神性には『純血の契り』っていうのがあるの」
「『純血の契り』?」
「そっ! アタシの処女性が失われない限り、あらゆる傷は瞬時に修復される。それが『純血の契り』よ」
「それでどうやって俺の事を?」
「アタシの神性をアンタに分けたのよ。ただ分けるだけじゃ、人間の肉体は神性に耐えれずに爆発四散するから、その前にアタシの眷属とすることで安全に神性を分け与えたってワケ」
言っていることの半分理解出来ていれば御の字だろう。
人間の物差しではその規模を理解出来ず、どれだけ凄いことをされたのか分からなかった。
「ちょい待ち、神性を分けられたってことは……」
「あら、察しがいいのね。アンタは半分神みたいなものよ」
思わず身体をまさぐる。
特に変わった様子はなく、至って普通の人間のままであることに安堵する。
「おにーちゃん! もう朝だよー!」
突然、ノックもなく部屋の扉が開かれた。
ベッドの上に座る俺とそれと向かい合う形で椅子に座っているアルテミス、そしてその状況に出くわしてしまった夜琉。
冷たい汗が背中を伝う。
「お、おおお……お兄ちゃん……その人」
「あ、いや……その……」
アルテミスに助けを乞うが、プイッとそっぽ向かれてしまう。
「お姉ちゃん!! お兄ちゃんが部屋に女の人連れ込んでるー!!」
叫びながら下の階へと走っていく夜琉。
こうして波乱万丈に満ちた高校生活二年目の三日目が始まった。
◇◆◇◆◇◆◇
「あの……なんというか、その……」
テーブルを挟んだ向かい側に姉さんと夜琉が座っている。
夜琉は呆れと怒りを全面に押し出したがら腕を組み、姉さんは笑顔で俺の次の言葉を待っているが、逆にそれが全てを見透かされているような後ろめたい気持ちにさせられた。
「コイツは、昨日俺を助けてくれた女性で……」
俺の隣には相変わらずそっぽ向いているアルテミス。
「神様、なんです」
「お兄ちゃん、嘘つくならもっとマシな嘘つきなよ」
「いや、本当なんだってば! 昨日死にかけた俺を助けてくれたんだよ!」
「つまりその女のコはよーくんの彼女?」
「姉さん今の話聞いてた!?」
つまりうちの家族は誰も今の話を信じていないらしい。
だが、普通に考えればそうなるだろう。人間と一切変わらぬ女のコを前に神様だと言っても、信じろという方が無理だ。
「なあ、アルテミス。お前からも何か言ってやってくれよ」
「はぁ……仕方ないわね。アタシの名前はアルテミス。オリンポスの十二神が一柱、狩猟と純潔の神――アルテミスよ」
渋りながらも堂々と自己紹介をしてくれるが、二人の頭の上にははてなマークが浮かびそうなくらい呆けた顔をしていた。
「まあ、面白い彼女さんねぇ」
「姉さん、コイツは彼女でもなんでもない!」
「まさか……それじゃ、体だけの関係〜!? ダメよ、よーくん! そんなの健全じゃないわぁ!」
我が姉ながらこの天然ぶりにはお手上げだ。
このままじゃ話が進まないと悟り、俺は学校へ行く準備を始める。
「もうこの話の続きは帰ってきてからするよ。そろそろ行かないと遅れるし」
「あ、もうそんな時間!?」
「そうだ、アルテミスはどうすんだ?」
「アタシはテキトーに過ごすわよ」
「そっか……んじゃ、行ってきます」
姉さんの『行ってらっしゃい』という言葉を背に俺たちは家を出た。
学校へ行くまでの間、夜琉は終始無言を貫いていた。
「なぁ、頼むよ。機嫌直してくれって」
「ふんっ……」
「ごめんて……」
何故夜琉がここまで腹を立てているのか、俺には分からない。確かにあんな場面に出くわしてしまったなら誤解を招いても仕方がないのかもしれないが、こんなに怒ることだろうか。
「お兄ちゃんが昨日死にかけたってどういうことなの?」
頭の中で悩んでいると、ぶっきらぼうに聞いてきた。
「ああ、それは公園で鬼みたいな……」
とそこまで言ってある可能性が思い浮かんでしまう。
それは、夜琉が巻き込まれてしまうことだ。アレが俺や結衣を襲った正体で、神隠しの元凶だとするならば、身近な人間に魔の手が迫っているといっても過言ではない。
「どしたの?」
途中で言葉を止めたことに対して怪訝な顔をする夜琉。
だが、ここまで言ってしまったのなら、最後まで言わないときっと納得しないだろう。俺自身もここから誤魔化せる言い訳を用意していない。
「俺と結衣は……鬼みたいな化け物に襲われたんだ」
結局、正直に言うことを選んだ。
どの道巻き込まれてしまう可能性があるならば、その脅威を認識している方が何かしらの対策は立てられるかもしれない。
「鬼? 何それ、漫画の話?」
「いや、現実だよ。現に結衣は重傷を負って、今病院にいるからな。んで、俺もソイツに殺されかけた。いや、一度殺されたのか?」
「……うそ。うそだよ!」
家の時とは打って変わって真面目な雰囲気に、夜琉もすんなりと信じかけているようだった。
「たぶんあの鬼が神隠しの黒幕だ。アレが人を喰ってたんだと思う」
喰っていた。そう、あの怪物が人間を喰っていたのだとするならば、何も残らず消えるようにしていなくなるのも頷ける。
「俺も殺されかけたところをアルテミスに助けてもらったんだ。だから、あまり邪険にしてやらないでくれ」
「そんなのうそだよっ! ……そう、お兄ちゃんは騙されてるんだよ! 催眠術とか洗脳とかで騙されてるだけなんだよ!」
「おい、夜琉っ!!」
あまりに突拍子のない話に夜琉は、その場から走り去っていってしまう。
仕方のないことだ。全て信じろといっても、普通の人間なら間違いなく頭がおかしくなったと思うハズだ。
「騙されてる、か……その方が何倍も良かったかもしれないな」
もう既に非日常な世界に足を突っ込んでしまったのだ。遅かれ早かれあの鬼が、もう一度俺や結衣を殺しにくるなんてこともある。その時、夜琉や姉さんを巻き添えにしない為にも、このまま避けてもらった方が良いのだろう。
そんな事を考えながら歩いていると、いつの間にか学校に着いていた。
ふと、背筋に悪寒が走る。それは、怪物に出会った時に感じたものと似ていた。
思わず後ろを振り向くが、当然そんなモノはいない。
「……神経質になり過ぎか」
「はよー、洋一!」
下駄箱で上履きに履き替えていると、慎二が現れる。
「はよー……」
「なんか疲れた顔してんな。昨日あの後何かあったのか?」
「色々ありすぎて脳が疲れてる。取りあえず昼休みにでも話すよ」
「そっか……」
話しながら教室に入ると、何故かクラスの雰囲気が浮き足立っていた。主に男子全員がそわそわしている。
「何してんだ?」
「お前ら知らねぇのか? 今日転校生が来るらしいんだよ。しかも、とびきり可愛い女のコな!」
なるほどと納得する。
だが、この時期に転校生は不思議な話だ。普通は新学期に合わせてくるが、もう三日も経っている。手続きが遅れていたのか、それとも何か事情があるのか。どちらにせよ、そのとびきり可愛い女のコとやらに俺も少し興味が湧く。
予鈴が鳴り、俺たちは席に着く。
少しすると教師が入ってくる。そして、その後に続くようにその子は現れた。
ウチの学校の制服を着た銀髪の女のコ。俺はソイツを知っている。
「ギリシャから来ました。アルテア・ストラウスと言います。よろしくお願いします」
「なっ……!?」
黒板に名前を書き、ぺこりとお辞儀をしてから自己紹介をする。
そのツインテールは紛れもなく狩猟と純潔の神――アルテミスだった。
「マジかよ……」
アルテミスはそのまま俺の後ろの席に着く。
「よろしくね、洋一」
こっそりと俺だけに聞こえるように耳打ちしてくる。
この神様が考えてることはよく分からないが、これだけは言える。これから平穏な学校生活は送れなくなるだろう。