第四話:願わくば神様に
まだ桜が残っている並木道を歩きながら、なんとも形容し難い感覚に襲われる。
空気が身体にまとわりつくような気持ち悪く、不快な状態。天気が悪いだとか湿度が高いだとかではなく、物凄く薄い膜の中を歩いているような感覚だ。
「どうしたの?」
終始無言だった結衣は足を止めて俺の方に振り返る。いつの間にか立ち止まってしまっていたようだ。
「いや、なんでもない」
肌寒くない程度の涼しい風が二人の間を抜けていく。ふと、風の来た方向を見る。
「――洋一ッ!!!」
結衣の叫びにも似た呼び声の刹那、身体が後ろに吹き飛ばされる。
意表を突かれた俺は、受け身を取ることも出来ずにみっともなく地面を転がってしまう。
打ち付けられた所を擦りながら、何が起きたのか確認する為に立ち上がると、二メートルほど離れた場所に結衣も倒れていた。
急いで駆け寄ると、目を背けたくなるような惨状が明らかになる。背中に大きな傷があり、そこから大量に出血していた。
「結衣ッ!!」
まるで熊に引っかかれたように斜めに三本の深い傷跡。みるみるうちに地面を赤く染め上げていく。
「おい、結衣! 大丈夫か!!」
抱き起こして意識を確認する。辛うじて呼吸はしているが、出血の量が尋常ではなかった。
医学の知識が無くても分かる。
このままでは、いずれ結衣は死ぬ――。
急いで携帯を取り出して救急車を呼ぶ。
「絶対に死ぬんじゃねぇぞ!」
今ここで出来うる限りの最善の処置を施す。
ワイシャツを破り、包帯代わりにする。あまりに広範囲かつ傷口が深いせいで、止血することもままならない。
「結衣ッ!」
どうやら救急車というのは予想よりも有能なようで、もう既にサイレンの音が近くまで迫っていた。
それから五分と掛からず結衣はストレッチャーに乗せられ、救急車に運び込まれていく。
俺も付き添いとして同乗していったが、彼女の容態が数値にして悪くなっていく様を見ると、最悪の事態を想像してしまい、さらに焦りが募っていった。
◇◆◇◆◇◆◇
無事に病院へ送り届けられ、手術と輸血の末にどうにか一命を取り留めた。
だが、血を失い過ぎたせいで何かしらの後遺症が残る可能性もあるらしい。正直、あの状態から助かったこと自体が奇跡に近く、今後容態が急変してしまうこともあると伝えられた。
俺は病院からの帰り道を歩きながら、公園での出来事を思い返していた。
あの時、結衣は何から俺を庇ったのか。そして、『何か』は何故俺たちにトドメを刺さなかったのか。
何よりあの場で何も出来なかった己の無力さに腹が立つ。
ふらりと自然にあの公園へと足を運んでしまう。
警察が立ち入ったのか、イエローテープが貼られており、それをくぐるようにして中へと入っていく。
俺たちが被害に遭った場所は何事も無かったかのように綺麗に片付けられている。
木々の間から木漏れ日のように月の光が地面を照らす。
もう夜か、と思っていると、再びあの空気が重くなるような感覚に襲われる。
一直線の並木道。その真正面の空間が不自然に歪んだ気がした。目を擦り、もう一度その場所を注視すると、紅く光る点が二つ宙に浮いている。
暗闇に目が慣れてきたお陰で、ソレがなんなのか見えてくる。人間にしてはあまりにも身体が大き過ぎるソイツは、数メートル離れたここから見ても俺の体の倍はあった。
右手に太い棒のような物を持ち、身体を布切れ一枚纏っているだけのデカブツの目が妖しく光る。
逃げろ。本能がそう警鐘を鳴らす。明らかにアレはこの世のモノではない。
『鬼』
知識の中で照らし合わせると、その表現がピッタリだった。
逃げ出したい。だが足は竦み、金縛りにあったように身体は硬直して動けない。
よくホラー映画で見る叫びながら逃げるということが、どれだけ器用なことなのか思い知らされる。
現実は逃げることはおろか、叫ぶことすらままならない。
鬼は地面を踏み鳴らしながら、一歩ずつ近付いてくる。
俺の目の前に立ち、怪物は棍棒のようなものを振り上げたその瞬間、『逃げろ』と声が頭の中に響く。
振り下ろされたと同時に俺の身体も動く。横に転がるように避け、間一髪で地面と一体化することは回避出来た。
もう止まることは許されない。悪鬼から逃げる為に公園内を駆け抜ける。
チラッと後ろを見ると、怪物も追い掛けてくるが、スピードが遅いお陰で距離はどんどん離れていく。
公園を抜け、住宅街へと入っていく。家まであと少し、と意識が逸れた瞬間、脇腹の辺りを何かが掠めていく。体勢が崩れ、身体を地面に打ちつけながら転がる。
それでもその場から逃げることを最優先にし、立ち上がろうとしたが、ベチャリと左手に生暖かい液体が付着する。それは直近で触れたことあるモノ。
先ほど何かが掠めた脇腹に走る激痛と共に、現状がどうなっているのか理解する。
「――ッッ!!!」
腹は綺麗に抉れ、そこから生命の源が流れ出ていく。傷口は焼けるように熱いのに、身体の芯は冷えていくような奇妙な感覚と、死という身近にして非日常が迫っていることに心が慄く。
涙が出そうなほど痛かった。いや、泣いているかもしれない。でも、生き残る為に壁伝いに立ち上がる。
あわよくば内臓が見えそうな脇腹を押さえながら、少しずつ前に進むと何か硬いモノにぶつかる。
一歩下がりそれを見上げると、大き過ぎる体格に棍棒を持ち、赤く光る目の怪物がいた。
走馬灯が流れるより先にフルスイングの棍棒がぶち当たり、石の塀をいくつも貫通しながら吹っ飛んでいく。
何メートルも吹っ飛び、ようやく止まった時には頭から血が流れ、身体の骨は粉々に砕けていた。
もうすぐ死ぬ。そんなことが頭に思い浮かぶ。
既に思考は霞み、これ以上動くことも考えることも無理そうだ。
だが、感情は最後まで残っていたのか、それとも人間の性がそうさせたのか、最後の力を振り絞ってその言葉を口にする。
「……死にたくない、よ……だれ、か……たす……け、て……よ」
曇りがかる視界に映る大きな月に向かって手を伸ばす。
「助け、て……神様……」
光り輝く月に影が落ちる。正確には、俺と月の間を何かが隔てる。
低下した視力で見上げると、それはヒトだった。
月のように白銀に煌めくツインテール。海のように深く澄んだ瞳。凛とした姿勢で佇むその姿は神々しさすら感じられる。
ソイツは俺の存在に気が付くと、ニヤリと笑う。
「あら、人間。こんな所で何やってるのかしら?」
(コイツは……俺を迎えに来た天使か)
「誰が天使よ! アタシは神よ、神!!」
(宗教の勧誘なら間に合ってます)
「アンタってば、物分り悪いわね……」
(すまんな、昔から馬鹿なもんで)
「こうして意識の会話してることすら驚かないなんて……それとも驚く余裕がないのかしら?」
不覚にも俺は笑っていたと思う。こういう最期も中々面白いな、と。
「人間風情が生きることを諦めるの?」
(黙っとけ。神だかなんだか知らんけど、野次るなら他当たれ)
「素直じゃないわね。さっきみたいに懇願してみなさいな」
(誰がオメーなんかに……)
意識が揺らぐ。この状況でまだ意識が保たれていること自体がおかしいが、もう踏ん張ることも出来ない。
「ほら、もう限界でしょ? 早く願いなさい。態度次第で助けなくもないわよ」
(ド畜生め……)
声を出すことすら難しい。生きたいと口にすることがこれほど難しいとは知らなかった。
「死、にたく……ない、よ……!」
ゴボリ、と口から血の塊が零れ落ちる。まだ食道辺りに詰まっている感覚があり、口の中も粘ついて言葉を発することがさらに厳しくなる。
先ほどのように意識で語りかければいいのかもしれない。でも、これだけは言葉にしなくてはいけない。そんな気がした。
「……た、す……け……て、神……様ッ……!」
少女は再びニヤリと笑い、腰から取り出したナイフで自身の指に切り傷を入れる。
傷口から真っ赤な血が垂れる。
「飲みなさい。そうすれば助かるわ」
人差し指を差し出し、俺の口に近付けてくる。
迷っているヒマはない。俺はその血を受け入れ、喉を通す。
その刹那、辺りは眩いほどの光に包まれ始めた。心地よく暖かな光は次第に光度を増していき、白く世界を塗りつぶしていく。
「アンタの名前は?」
薄れゆく意識の中、少女の声が聞こえる。
「――よー……いち。あ、りさか……よう、いち……」
そこで俺の意識はプツリと切れた。