1章―始まり― 中編
1章―始まり― 中編
―1―
長影が指を「パチン」と鳴らした。
空気が澄み切っているのでその指の音は遠くまで山彦を立てるように反響して伸びていった。
すると目の前にあった木に霞がやけに集まってきた。木を見えなくするほどに。
「なんで、あんなにあの木に霞が?」と長影に問いかけると、
「まぁ、見ていてください」
と、返答を返されたのでジッとその、霞が集合している木に目線を集中させた。
時間がたつにつれて、木にかかっている霞の量減っていき、霞の向こうの「物」の姿がだんだんと見えてきた。時間にして30秒くらい経ったのだろうか。
「な!?えっ…」
これは俺の驚きの声だ。
隣では長影が静かに微笑している。
先程、目の前にあった「木」の形をした「物」がたった30秒やそこらで別の「物」に変わっている。そう、日常生活の中でよく目にする、「物」に。
「―これは一体、何が、起こったんだ!?」
そう、目の前の先程まで「木」であった「物」は今では「扉」という名の「物」に変わっているのだ。
長影は草を「ザッ、ザッ」という音を立てながら歩を進めていき、扉の前に止まると、扉のノブに手をかけ「グイッ」と回し扉を開いた。
そして、俺のほうへ向き直るとこう問いかけてきた。
「この扉の向こうに霞様がいます。心のご準備はよろしいでしょうか」
俺は長影の問いに答える前に扉の中に視線を移した。
扉の中は真っ暗だった。光おろか、光源になりそうな物が1つも無いのだろう。本当に真っ黒で何も見えない。俺は長影のほうに顔を向けた。
「なぁ、長影。扉の向こうには何もないように見えるんだが」
長影は少し首を扉のほうに傾けた。
「何も無い様に見えますが、大丈夫です。中はきちんとありますよ」
いや、その俺には何も無いようにしか見えないんだが…。という質問をまたしようと思ったのだが、俺はやめた。これ以上追求してもしょうがない。とりあえず、扉の中に行けばおのずと答えが出るはずだ。それなりの答え―が。
俺は覚悟を決める素振り、顔を扉の中に向き直り、長影が先程やったように歩を進め、扉の前で停止した。
長影のほうに1度顔を向けてみると、長影は苦笑とも微笑とも取れる顔をした。今思うと、この表情が1番、長影らしいかもしれない。会って間もない俺が言えた事ではないが。
「それでは、行きましょうか」と長影が俺に声をかけると、扉の中1歩手前という所で止まり誘導するように手招きをしてきた。
俺は1歩づつ歩を進め、長影の3分の1歩後ろにペタリとくっ付くと、そのまま長影と一緒に扉の中に入っていった。
―2―
「これがあの真っ暗かった扉の中かよ…」
と俺の発言に「そうです」と長影が俺のほうを見て言った。
俺が今いる場所は、先程の湖でもなければ、真っ暗な場所でもない。
あちらこちらに霞草が生えている原っぱだ。
「この場所は普段は隠されていて普通、入れないのです。特別な場合が無い限りは」
その特別、というのがまさしく俺の例なのか。と心の中で思った。
「何で隠れている必要があるんだ?」
「それは…」
長影はそう言うと、口篭り顎に手を当て考え始めた。
たっぷり1分待ってようやく長影が口を開いた。
「奏永様。すいませんがその事はまだ―」
「あら、長影いいじゃないのその位」
いきなり自分の真横から長影の声を遮る声が発せられたので反射的に声の元の方を向いた。さらに声の元の方を向いた理由を付け加えるとその声を聞いたことがあるからだ。
真横の人物は間違えなく俺が夢で出会った、緋野 霞そのものであった。紺色のコートを羽織っていて、紺色のスカートと腰まで伸ばした長く艶のある黒髪が印象的な少し大人びている少女。
「お前が―」
「そう。私が緋野 霞。長影の主であり貴方を呼んだ者よ」
と、落ち着いて威厳の在りそうな声でそう告げた。
俺が5秒程、驚きが顔でポカンとしていると唐突に長影を向き、
「よし、決まったわ!見てよ長影!奏永ったらこんなに驚いてる!あははっ!」
そう、言葉を投げられた長影は苦笑をしているが当の緋野 霞は「あははは」と今でも腹を抱えながら笑っている。そんなに受けたか、俺の驚きが顔に。
俺はまたポカンとせざる終えなかった、今度はたっぷり10秒間。こんな初対面下奴はもちろん生まれて初めてだ。
「おい、まだ俺の質問に答えてもらってないぞ、どうしてこんな所に隠れているんだ!?」
俺は緋野 霞に少し語勢を強くして問いかけた。緋野 霞は長影を一瞥し「やれやれ」という手の動作をした。
「おい、こっちは真面目に―」
「怒らなくてもいいじゃない。もう、奏永は連れないわねぇ。分かったわ。貴方の質問に答えましょう。あと、私のことは霞でいいわよ。分かった!?」
「分かったよ。…緋野」
「だから!霞って言ってるでしょ!」
と緋野は少し語勢を荒立たせた。
「別に…名字でもいいだろ」
「駄目っ…!名前じゃなきゃ…絶対…絶対駄目!!」
緋野はヒステリックに声を先程より荒立て、こちらに槍のように鋭い赤黒い目の視線を向けてきた。
「霞様少し落ち着いて…」
と会話から除外されてた長影が緋野を宥めるべく緋野に近寄ったが、
「長影は黙ってて!これは私と奏永の問題なの!」と緋野に長影は押しのけられまた会話から離脱させられた。
会って数分しかしてない奴と2人だけの問題といわれても説得力が無い。でも、こんなことではいつまで経っても話が進行しない。
「…霞…」小さな声で俺は呟いた。
「えっ?何?」と霞はこちらに耳を向けてくる。
「だから、霞って言ったんだよ!これでいいだろ!」
霞は「わぁ」と一言声を上げこう繋げた。
「聞いた?長影!奏永が私のこと名前で呼んだのよ!ふふっ、霞…だって!あはは」
今確信した。こいつはあれだ。俺の妹の千鶴によく似てる。一言俺が断るとその断りを解消するべく何とか俺を説得してくる。まさに今の状況だ。千鶴の場合だと俺はいつも説得されてしまうのだが、まさかこいつにまで説得されてしまうとは…。
「ところで、だ。霞、まだ話の途中なんだが…」
「ああ、そうだった、そうだった」
先程まで無邪気でご機嫌だった霞は、1拍置くとこう切り出した、
「私たちが隠れている理由…それは『竜』がいるからよ」
「ざわ」と周りの空気が変わる。特に霞の辺りの空気が殺気を帯びているかのように、黒い。
「『竜』なんて…この世にいるわけ無いじゃないか!?」
と、主張するものの、俺は霞の言ったことが本当と分かる。なぜなら―
「奏永。貴方はもう鳥人間と会ったでしょう?」
霞が俺の言いたいことをそのまま言ってくれた。そう、俺はもう鳥人間とは対面してる。
俺は長影を一瞥してから霞にまた訊いた。
「100歩譲って、『竜』がいるとして、なぜ俺が関係あるんだ!?」
霞は3拍ほどの時間俯き、顔を上げこう告げた。
「聞くのは自由。貴方にその権利はある。その権利を使うのは自由。誰にでも許されること。でもね、奏永」
霞は1拍ほど間を置きこう繋げた。
「その事を聞いて本当にコウカイシナイ?」
なんだ?このうるさい音は。
きちんと同じリズムを刻みながら「ドクン、ドクン」と。
どこが音源だ?
…いや、俺は知ってる。これは俺の心臓が「聞くのはやめろ」と警告している音だ。
―3―
『コウカイシナイ?』
この言葉に俺はかなり動揺した。いや、俺が動揺したというか俺の内に眠る、動物的本能が警告しているのだ、「やばい、早くここから立ち去れ」と。
考えろ、冷静に考えればおのずと答えが出るはずだ。俺がこの話を聞くべきか聞かぬべきが。
…だが、冷静に考えても答えは出ない。むしろ俺の動物的本能のもう一つが顔を出し始めてきた。そう、奇妙な「好奇心」という名の本能が。
ちらっと霞の方を向いてみた。霞は下を向いていて表情が見えない。
どうする…聞くべき、なのか?それとも…、
「ざわっ」と周りの霞草たちがざわめく。息が詰まる空気だ。好きじゃない。
「なぁ、霞。その話を聞いて俺がどう後悔するんだ?」
恐る恐る聞いてみる。霞が顔を上げた。
「……ッ!」
霞の表情は「悲」そのものだった。悲しげに潤ませた赤黒い瞳には涙が溜まっている。
「…そう。駄目だったの…悲しいことだわ。分かったわ。ありがとう」
と、霞は独り言のように話している。
「おい、霞…今誰と話してたんだ?」
こういう自然な質問が俺を少しでも和ませる。だが、返答は意外な物だった。
「何でも無いわ、奏永…いや、でも、もし貴方が先程の話を聞いたなら貴方にとってとても重要なことになるわね」
そんなこと言われたら俺の「好奇心」がまたしゃしゃり出て質問したくなってしまうではないか。
「…そろそろ、時間の関係上聞かないと終わりね、この話は」
先程の長影の空を飛ぶときと同じだ。『時間』というおそらくはこの世で一番覆せない物が俺に迫ってきているようだ。
『覚悟を決めるしか…ないのか』
そんな事は、霞が涙を浮かべたときに既に分かっていた。だが、分かっていたからこそ聞けなかった。俺は駄目な奴だ。
「霞」
「何?」
「頼む。その話を聞かせてくれ。俺は…後悔してもいい!だけど、それが俺に関わる大事な事となるなら、聞く。そうでなければ俺は…」
意を決するために1拍置いてこう言った。
「俺は―千鶴を守れない!」
霞は僅か、本当に僅かながら微笑んだ。俺は感じた。これが霞の本当の顔なのだと。先程の大笑いは作り物。本当は儚く、触れてしまえば崩れて落ちてしまいそうな程、繊細な微笑が霞の本当の顔なのだ。会って間もないもあるも関係ない、俺はそう感じたのだ。
「ねぇ、奏永。その話を聞く前に一つだけ質問してもいいかしら?」
「ああ、いいとも。何でも質問してくれ」
霞は「クスッ」と笑うとこう訊いてきた。
「奏永は…霞草の花言葉って知ってる?」
思わず周りを見渡した。
「この花たちの花言葉…」
正直に言うと知らない。花言葉にそんなに詳しい方でもないし、むしろ全然詳しくない。
「いいや、知らない」
「それじゃ、教えてあげるわね」
そういうと、霞は屈んで、近くにある霞草の1つを手にとり、胸の前、手のひらで霞草を包み込み、目を閉じ、こう言った。
「霞草の花言葉はね…『切なる願い』…なの」
心の奥に霞の声が響いてくる。霞草と霞はそっくりだ。美しい花びらに身を包み儚い、自分の本当の姿を隠している。
『切なる願いか…』
俺は…この時、この花言葉だけは忘れまいと心に刻んだ。
1章―始まり― 中編・終