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9.令嬢は牢番を買収する

 読書ばかりだと肩が凝るので、レイチェルは昼間は刺繍などもやってみたりする。


 しばらく無心にハンカチを縫っていたレイチェルは持っていた針を置き、キリが良い所までできた刺繍を眺めた。

 縁取りだけ出来た花を見ながらつぶやく。

「うーん……静かすぎますね」

 刺繍の事ではない。




 一か月近くも前に、つまり王子が密謀を相談し始めた頃からレイチェルは婚約破棄の情報を押さえていた。

 だけどいざという時の準備まで進めておきながら、レイチェルが阻止に動かなかったのは……その方が“面白そう”だったから。


 ボンクラ王子と腰巾着どもが、どこまでやれるか見てみたかったし。

 牢屋に押し込まれれば、その間王妃教育をサボることができるし。

 何か自分の思いつかないトラブルが発生しそうでワクワクしていたし。


 そんな考えで王子の陰謀に乗ってはみたものの……思った以上にエリオットの底は浅かったみたいだ。一週間経つのに、兵糧攻め以外は全然手を出してこない。

「これでは、せっかく甘んじて恥をかいたのに……つまらないわ」

 もっと王子が色々汚い手を繰り出してきて、それをガンガン打ち返そうと気合いを入れていたのに。

 冷めているお茶を一口すすると、それでも香りが鼻を抜けて行った。

 レイチェルはニコリと笑った。

「そうですね。待ちの姿勢は私らしくなかったかもしれません。今まで王子の方から仕掛けてくると思っていましたが……うん、こちらからガンガン行きましょう」




 脱獄は夜中が多いので、牢獄の巡回は夜にもやる。

「つっても、今王宮の牢屋にはお嬢一人しかいねえしなあ……あれが脱獄するとはとても思えねえ……」

 とはいえ、仕事は仕事だ。

 牢番がヒタヒタと足音を立てて地下牢に降りると、照明を暗めにして公爵令嬢は床に座っていた。起きてはいるようだ。クッションにもたれかかって、小さな窓から空を眺めている。

「何しているんだ?」

 純粋に疑問に思った牢番が尋ねると、月明かりに照らされた美貌が振り返った。

「あら、牢番さん。いい夜ね……今ちょうど月が見えるから、ちょっとお月見などを」

 そういうとレイチェルは指先でつまんだ小さなガラスのタンブラーをクッとあおった。流れてきた香りに牢番は怪訝な顔になる。

「おいおい、公爵令嬢がウィスキーかよ……」

 ウィスキーは強い酒だ。しかもショットグラスを傾けているということはストレートだろう。男ならたまに貴族でも愛飲者はいるが、およそ社交界には縁が無い労働者の酒だ。

「あら、香りでわかるなんて結構好きなんですの? おひとついかが?」

「おまえ、すでに酔ってやがるな……て、ええっ!?」

 いい心持ちで上機嫌に瓶を振るレイチェルに、呆れかけた牢番は……彼女の手の瓶を二度見して驚愕した。

「おいっ、それ『聖ヴァレンチヌス』の三十年物じゃねえか!?」

「あら、詳しいんですのね」

「とんでもない代物を飲んでやがるな……俺の給料二ヶ月分より高いんだぞ、それ」

「父の保管庫から封を切ってないのを持ってきたので大した話では。はい、グラス」

「いや、立場的に俺がもらうわけには……いや、でも『聖ヴァレンチヌス』三十年……」

「おつまみもありますよ」

 令嬢が出した盆には、スライスしたコンビーフやレーズンバター、ピクルスにスモークチーズ、レバーパテを塗ったクラッカー……。

「ささ、なみなみと……」

「おおお……これが、あの三十年物……!」

 好きな所へ持ってきて、伝説の逸品を貴方の分ですと差し出されて受け取らない牢番がいるだろうか(いや、いない)。


 つい受け取って魅力に耐え切れず、キュッと盃を干せば茶色の瓶が突き出される。

「良い飲みっぷりですね。さ、駆けつけ三杯ですよ」

 一瞬で飲んでしまった逸品をもったいなく思った所へ、なみなみと注がれる琥珀色の香しい液体。

 二杯が三杯に、四杯に。舌が慣れてくればレイチェルが次の一本をお勧めする。とうとう仕事を忘れて気持ちよく飲み始める牢番は、途中からレイチェルが口もつけていないのに気が付かない。

「やっぱりウィスキーはストレートで喉を通った余韻がたまりませんよね」

「わかるか!? この鼻に抜ける芳香がたまらねえんだ! 嬢ちゃんいける口だな」

「いえいえ牢番さんこそ。あ、チョコレートいかがですか」

「おおっ、悪いね!」

 完全に泥酔してしまった牢番は、酔って無警戒になったところへレイチェルの甘言を流し込まれる。たっぷり銘酒を御馳走になって、楽しく呑んで、お土産に未開封の一本を持たされて……。

「いやあ、話してみれば嬢ちゃんなかなか話が分かるな!」

「うふふふ、これでも人当たりは悪くないつもりなんですけどねえ。でもエリオット様ときたら、俺が俺がなんですもの。話が通じないんじゃなくて、できないんですよ」

「わかる、わかるなあ。ありゃあどう考えても王子様は頭が悪いよなあ。うん、嬢ちゃんは悪くない!」

 楽しい飲み会の記憶は、うまく丸め込まれているんじゃないかという猜疑心を押しつぶした。レイチェルが囁きかけた言葉はそのまま牢番の脳裏へインプットされる。お開きになる頃には、アルコールで濁った牢番の思考能力には『王子=馬鹿で悪、レイチェル=可哀そうで善』の図式が焼き付いていた。

「そろそろ夜も更けてきましたね。お帰りの時は足元気を付けてくださいね。せっかくのウィスキーを落とさないでね?」

「おおう、任せとけ! あ、そうだ! 城外とのやり取りには便宜を図るから、嬢ちゃんもまたいいのを頼むぜ」

「ええ、判っていますわ。お手紙や面会をフリーにしていただければどんどん差し入れをもらえると思いますわ」

「頼もしいねえ。よし、そこら辺の事は俺が何とかすらあ」

「お願いしますね」


 千鳥足で階段を上がっていった牢番が、大事な土産を抱えて外へふらふら出て行った後。

 地下牢の前室の光の当たらぬ隅から、すっと立ち上がる気配がして牢の前に闇が伺候した。

「お嬢様、あんな木っ端役人などを言い含めなくとも。我々ならば大抵の物は……」

 クッションの形を整えて寝床を作っていたレイチェルがフッと笑う。

「城門の連中と同じですよ。廷臣が王子より私の肩を持つという形が大事なのです。特に私の考えですと、エリオット様を面罵するのに彼らの同情と協力が必要になります」

「はっ、出過ぎたことを申しました。お屋敷の方は先日のお話の通り、準備を致します」

「よろしくね」

 闇から再び気配が霧散するのを横目に、レイチェルは毛布をかぶって灯りを消した。

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