7.令嬢は芸術を爆発させる
暗闇に月光が差し込み、窓の形に細長く床が照らされている。光が当たる所は新聞の文字さえ読めそうなのに、そこから外れたすぐ横の暗闇は何が置かれているかも判らない。
静かな空間の光溜まりのすぐ脇で、クッションに埋まっていたレイチェルは身じろぎして身体を起こした。
「うーん……昼間に寝すぎたのかしら」
目が冴えてしまって寝られない。
誰も怒らないから嬉しくてついつい昼寝をし過ぎてしまった。一人暮らしに浮かれ過ぎたかもしれない。
レイチェルは寝るのを諦めて立ち上がった。換気窓からちょうど月が見える。
「……いい月ね。今日はちょうど満月かしら」
冴え冴えと白く光る真円の月にしばし目を細めたレイチェルは、もう一度毛布をかぶる代わりに良いことを思いついた。
木箱を積み替えて、窓の下まで階段を作る。
「よいしょっと」
準備した荷物の中から高そうなキャリングケースを取り出し、作った木箱の階段を昇る。最上段に座ると窓に顔を寄せ、夜風を楽しんだ。
「月に向かって奏でるのも情緒があるわね」
レイチェルはケースから愛用の楽器を出し、夢見るような表情で一撫ですると唇に当てる。
星降る夜空に、軽妙な音色が響き渡った。
エリオット王子は寝巻の上にナイトガウンをまとっただけの姿だった。足元も土で汚れたスリッパで、寝室を飛び出してそのまま地下牢まで急いできたのが丸わかりだ。
最高潮に苛ついた顔で睨みながら、エリオットは静かに尋ねた。
「レイチェル、俺に何か言うことは無いか?」
鉄格子を挟んで楽器を持ったままのレイチェルは、同じく着ているナイトガウンの前を合わせながら恥ずかしそうにチラッと王子を見た。
「殿下……こんな深夜に乙女の寝室に忍んでくるなんて、褒められたことじゃないですわよ?」
一拍、二拍の沈黙を置いて。
エリオットがスリッパのつま先で鉄格子を蹴りつけた。
「それじゃねえよッ!? 言うことあるだろうが、他にさ! 迷惑かけてごめんなさいとか!深夜と判っていてパンパカパンパカとラッパを吹くな!」
「殿下……これはトランペットという名前がありましてね? 同じ吹奏楽器ですけど狭義にはラッパとは別物でして……」
「知っているわ! そんな事はどうでもいいんだよ!? だいたいこんな真夜中にけたたましい音を出した理由が、満月を見てセンチメンタルになったからだと!?」
「はい」
「そういうシチュエーションで、なんで吹いたのが『シング・シング・シング』と『茶色の小瓶』なんだよ!? 、どういう感性をしているんだお前は!?」
「あら……殿下、意外に教養がおありになるのね」
「馬鹿にするな! いいか、次にこんな事をやってみろ!? 今度こそ騎士団動員して、貴様をハリネズミにしてやるからな!?」
「そこは見栄でも自分がって言いましょうよ……」
ぷりぷり怒って帰っていくエリオットを見送り、レイチェルはホクホクした笑顔でトランペットをケースにしまった。
「届く確率は五分五分といった所だったけど、風向きが良さそうなので挑戦した甲斐があったわねえ」
賢者も駄目にするクッションをポンポンと軽く叩いて整え、満ち足りた顔で横たわる。
「あー……殿下の見事な吠え面を堪能できたので、今夜は良く寝れそうだわ」
朝食後になんとなく壁を眺めていて、レイチェルはハッとペンキを持ってきていたことを思い出した。
「そうだったわ。殺風景だろうから壁を塗ろうと思ってペンキも用意していたんだった」
昨夜の演奏でちょっと芸術を楽しむ心持ちだ。レイチェルはいそいそとペンキ塗りの道具が入った箱を探しにかかった。
木箱の隙間詰めに入っていた古新聞を地面に敷き、その上で良くかきまぜたペンキの缶をこじ開ける。とりあえず白で下塗りをした石壁を眺めたレイチェルは首を傾げた。
「んー……壁紙みたいに塗るのもなんだかもったいないわね」
当初の予定では全体を好きなペパーミントグリーンに塗って、後は細かく所々に花を描こうと思っていたけれど……白一色の壁を見て、それがなんかもったいなく思えてきた。
「よし、大作に挑戦してみましょうか!」
インスピレーションが降りて来た。外に出れないから、景勝地のイメージで景色を書いてみるのもいいかもしれない。
執務机に肘をつき、しかめっ面で書類を眺めるエリオットにジョージが恐る恐る声をかけた。
「どうしました殿下……寝ていないんですか? 目の下にクマができていますが……」
「ああ……」
げっそりした顔のエリオットが俯いて、机に置いた手の甲に額を乗せた。
「クソッ、レイチェルめ……! 布団に入ってもメロディが頭の中で延々リピートされて一向に眠れなかった……」
「は?」
「いや、こっちの話だ……」
エリオットがなんとか背筋を伸ばした時、サイクスが入ってきて扉を叩いた。
「サイクス……ノックは部屋に入る前だ」
「ああ、そっか」
サイクスがやり直す為に出て行こうとするのを、イライラしながらエリオットが止める。
「マナー講座は家でやれ! 何か用事があったんじゃないのか!?」
「そうそう。いや、なんか地下牢から異臭がすると苦情が来まして」
エリオットとジョージは顔を見合わせた。
「……まさか、お前の姉がすでに腐乱死体に……?」
「それは殿下の願望でしょう。夜中に会ったんでしょう? 半日で臭いは広がりませんよ」
「いや、そういう生ものっぽい臭いじゃなくて。なんか、もっと刺激臭らしい」
「……?」
地下牢までやって来た三人は様変わりした壁に開いた口がふさがらなかった。
「お、おまえ……これ……」
昨日までただの石壁だった地下牢の側面の壁には、今や花咲く草原と雄大な峡谷、そしてその背景に万年雪をいただく白い山脈が広がっている。遠近法や陰影、一点透視を活用した立体的な風景画は写実的で、息を呑むリアルさだった。
しかし。
「ここ、地下牢なのに……」
こんな誰も見ない場所にこんな絵があっても……。
地下牢から流れ出る異臭はペンキの臭いだった。レイチェルが一日がかりで大量のペンキを使用したため、そのケミカルな臭いが地下空間に充満している。
「しかし、凄い臭いだな……レイチェル嬢は臭くないのか、これ」
サイクスに聞かれ、花畑の仕上げをしていたレイチェルが振り返った。
「最初は凄かったんだけど、半日も嗅いでいると鼻が馬鹿になっちゃって全然判らないわ」
「最初に嫌にならなかったのかよ……」
「始めたら気にならなくなったんだけど……」
仕上げを終えたレイチェルはできるだけ壁から離れてじっくり眺め……。
「もしかしてなんだけど……」
「もしかして?」
少女は首を傾げた。
「寝室にこの絵はなかったかしら」
「最初に気づけよ!」
鉄格子を挟んでレイチェルとサイクスがワアワア言い合っているのを見ていたジョージが、ふともう一人が静かなのに気が付いた。
「あれ? 殿下?」
振り返ったジョージが見たものは。
「殿下!?」
床の上に、グロッキーになって倒れているエリオットの姿が。
「殿下ーっ!!」
慌ててジョージとサイクスが抱き上げるが、すっかり白目を剥いている。
「寝不足の所へこの臭いだもんなあ」
「今は原因はどうでもいいだろ!? 早く外へ!」
男性陣がバタバタと出ていく中。レイチェルは一つの結論を出した。
「ま、殿下に一発かませたから良いにしますか」
現実の曲名は出すべきでないと思うのですが、レイチェルがおかしなチョイスをしたのがイメージしやすいように敢えて使わせていただきました。