3.令嬢は牢をリフォームする
いまだに夜会会場でマーガレット嬢といちゃついていたエリオットを引っぺがし、サイクスが牢まで連れて来た頃には……状況はさらに進化(悪化)していた。
「なっ……!」
地下牢の様子を見て、エリオットも言葉を失った。覚悟していたはずのサイクスも言葉が出ない。牢の中は、ほんの三十分前と全く違う空間になっていた。
地下牢は四角い一つの部屋を鉄格子で二つに区切っただけの施設だ。
鉄格子を挟んで手前の前室は牢番が待機・監視につく為の部屋で、端に壁と同じ石でできた階段がある。家具は粗末な机と椅子が一セット置かれているだけだ。
囚人の食事は上階の宮廷内の使用人の厨房から運ばれてくるので、この部屋には別に調理設備のような物はない。取り調べも同じく近衛兵の詰所で受けることになっているので、ここには家具がいらないというわけ。
奥の部屋が囚人の入るところで、いわゆる“地下牢”はこちらを指す。内装は前室と変わらず石の壁と床、天井があるだけで、隅の方に便器とシャワー、洗面台があった。二つの部屋は素通しの鉄格子で区切られているだけで、実質続いた一部屋になる。
地下牢と言うだけあってほぼ地階にあり、窓は壁の高い所に数か所換気と明かり取りを兼ねた細長い物が設けられているだけだ。建物の外からは床下の通風孔に見えるように工夫されていて、当然鉄格子がはまっている。部屋の明かりはこれだけなので、ランプか蝋燭が無ければ昼間でさえ薄暗い。
この殺風景な空間での生活が大変かどうかは、入った人間の地位と入れた側の度量の広さに依る。
囚人が配慮の必要な大物だったり、あるいは収監させた者が囚人に優しさを持っていれば。牢内に敷物や寝具、机や椅子が与えられ、トイレや風呂の前には衝立が許される。
囚人を虐げる目的、あるいは残虐な指示者が見せしめとしたならば、それらは一切与えられない。寒さに震えて石畳にうずくまり、床に置かれた盆から食事を食べ、排泄や入浴の一部始終を看守に見られるという辱めを受ける。
この話を聞くだけで大抵の者は震えあがる。収監が決まっている者ならなおさら……。
とはいえ、それらの話は実のところほとんど都市伝説だ。
そもそもこの牢獄が使われることは最近ではまずありえない。
昔に比べるとはるかに受刑者に人間的な対応がされるようになったので、今は配慮されるべき収監者は地下牢なんか使わず、逃げ場のない客室に監視付きで押し込まれるようになっている。
逆に配慮がいらない木っ端犯罪者は、わざわざ王宮の地下牢なんかに入れない。郊外の立派な大型監獄へ庶民と一緒にぶち込めばいいだけだ。
この地下牢は内乱や陰謀が日常茶飯事だった大昔に、失脚した有力者を虐待するために作られたようなものだ。だから平和になって長い今では、この部屋は貴族か廷臣しか入れないけど普通の囚人以下に扱う相手専用という矛盾した存在になってしまっている。
そう考えると久しぶりにそこへ押し込まれたレイチェル・ファーガソンは、まさにその矛盾した条件に合う人間と言える。公爵令嬢にして、王子の憎しみを一身に受けてひどい目に遭うのを期待されている者。今時そんな人間はなかなかいない。得難い人材と言えよう。
もっともエリオット王子は、そこまで深く考えていたかというと……?
何のことは無い。ただ単にかわいいマーガレットを虐めたレイチェルを、酷い環境に置いて虐めたいだけだった。居住環境がどうなっているかなんて初めから頭の片隅にも無かったし。
王子がなんとなく考えていたのは、貴族にとって屈辱的な投獄でレイチェルが絶望してマーガレットに土下座すれば許してやらんでもない、というポワッとしたイメージ。具体的な話は何にも考えていなかった。
しかもレイチェルを社交場から追放してマーガレットとイチャイチャしている間に、王子はそんな“どうでもいい事”はサイクスに引きずられるまですっかり忘れていた。
だから側近が何を慌てて悪女を自分に見せようとするのか、牢につくまで理解できなかった。
……そして牢に着いたら、エリオット王子は目の前の光景が理解できなかった。
地下牢の中、床が見えているスペースで婚約破棄された公爵令嬢がくつろいでいる。
石畳が見えている筈の所には幾何学模様のラグマットが敷かれ、奥のむき出しだったはずのシャワーやトイレのブースには品のいい花柄のカーテンが掛けられている。
今日入ったばかりの住人はすでにイブニングドレスから簡素な室内着に着替えを済ませていた。ラグマットの上に賢者も駄目にするクッションソファを置き、そのうえでゴロゴロしながら本を読んでいる。つまり本も読めるほど明るい照明が彼女の傍に置かれている。
着の身着のままで突っ込まれたはずなのに、なぜ彼女は着替えているのか?
家具はどこから持ち込んだのか?
ありえない。
この光景はありえない。
鉄格子のこちら側は確かに地下牢で。
それなのに向こう側も地下牢の筈なのに、狭いながらも快適そうな居住空間が広がっている。
不可思議な光景に言葉もなく一同が見つめていると、何かに気が付いた令嬢が身を起こす。
「?」
レイチェルは鉄格子の外を完全に無視して座り込むと、アルコールランプからやかんを取り上げ、沸かしていた湯をティーポットに注いで蓋をする。殺風景な牢の中に、あきらかに場違いな香り高い紅茶の匂いが広がった。
「むっふー……」
香りを嗅いで満足げに微笑むレイチェル。
まさかのティーセットまで用意されている牢内に、すでに呆けていたエリオットはさらに顎を落とした。サイクスと牢番も顔を見合わせたけど、喉から言葉が出てこない。
たっぷり五つ数える時間をおいてから、王子はハッと我に返って鉄格子にしがみついた。
「貴様! どこからこんなものを持ち込んだんだ!」
対するレイチェルの返答はにべもない。
「私が自分で用意したんですから、別に国庫に負担をかけてはいません」
「そういう問題じゃない!」
「私物なんですからとやかく言われる筋合いはありません」
「だからそういう話じゃなくて!? この中にあるものはどこから出したんだと言っているんだ!」
かみ合わない会話に歯ぎしりするエリオットの前で。
何かが足りないという顔のレイチェルは辺りを見回し、木箱の一つを開けて茶菓子を取り出した。最初から持ち込まれていた、不要物を詰めている筈の木箱。
「……そこかあ!?」
サイクスが叫ぶ。
「なんだ!?」
事情が分からない王子に牢番が説明する。からくりが判り、クッキーをかじりながら幸せそうに紅茶をすする元許嫁にエリオットはめまいを覚えた。
「こ、この事態を予想して、すでに公爵家が籠城物資を持ち込んでいたというのか!?」
王子の愕然とした呟きに、平然とレイチェルが答えた。
「正確には私の手の者が、ですわね。まあ、こんなこともあろうかと準備してましたの」
二の句が継げない王子たちを尻目に、レイチェルは読んでいた本のしおりを挟んだ箇所を開いて再度読書に没頭し始めた。
レイチェル・ファーガソンは誰もが認める美人でありながら妙に存在感が薄くて、時として王子は一緒にレセプションに出ているのを忘れるほどだった。
線の細い美貌は表情に乏しく、基本無口であまり意思表示をしない。意見を聞かれても王子に合わせる。
いかにも王子の陰のような彼女は連れ歩く側からは都合のいい女で、王子様の横を狙う令嬢たちからは華が無く相応しくないと口撃の対象になっていた。
輝く美形の王子の横の、邪魔にならない添え物だった美形だが目立たぬ許嫁。
自分が無く王子を立てる奥ゆかしい、だからこそ面白みのない令嬢。
そういう女だから、エリオットは大した抵抗もあるまいとあんな場で婚約破棄を突き付けたのだけれど……。
だから、思う。
……今目の前で、とんでもない場所で好き勝手やっている女は誰なんだ?