26.国王は湯治を堪能していた
旅館の部屋としては十分に豪華だけど、王の居室としては質素な一室で。
頭を下げて控える使者に片手を上げて応えながら、国王は軽やかに裾を翻し臨時の玉座についた。
ガウンで素足にスリッパ姿の王は、使者に楽にするように言いながら冷茶に口をつける。
「いやすまぬ、湯治中なのでこんな格好だ。お主も楽にしてくれ」
「はっ!」
わずかに姿勢を崩した侍従は、王宮より預かって来た報告書を大量に取り出した。
「各部署よりそれぞれ上申が出ておりますが……大別いたしますとエリオット王子の政務に関する不安の声が数多くを占めまして、特に先日ご報告しましたレイチェル・ファーガソン公爵令嬢に対する婚約破棄の一方的な宣言から……」
「大体似たような内容なら、要約してくれ」
「はっ!」
侍従が広げた報告書を重ね直した。
「早く帰ってきて。以上です」
「そうか」
王はグッとグラスをあおると空になったコップを脇に置いて、ローテーブルに並べられた報告書をちらりと眺める。
「うむ。余も早く都に戻りたいのはやまやまなのだが、腰の具合が思わしくなくてな……」
「ははっ……それと、こちらは城代様からです」
「叔父上からか」
さすがに王族の重鎮からの親書は臣下に代読させるわけにいかず、王は封筒を受け取ると口を開けて便箋を広げた。
『心臓に悪いことが多すぎて身体がもたない。早く帰ってきて』
ヴィヴァルディ大公の手紙を封筒にしまい、王は宿に用意させた便箋にペンを走らせた。
『鋭意努力します』
「ではこれを叔父上に届けてくれ。余も都の様子は気になっているのだが、いかんせん肩の具合が治りきらぬでな。出発できるようになったら、改めて連絡する」
「はっ!」
使者が退出すると王も謁見の為の部屋を出て、宿舎に指定した離れに入る。
「お帰りなさいませ、陛下」
応接セットに座っている王妃と公爵夫妻が出迎えた。全員バスローブ姿だ。国王もガウンを脱ぐと同じ格好をしている。
うんざりした顔でどっかとソファに腰を下ろした王は、給仕代わりのメイドが運んで来た大振りのジョッキを受け取った。
「まったく、帰って来い帰ってこいと催促ばかりだ。余は足が痛くて湯治中だとさんざん言っておるのに……体調も悪いから馬車の長旅には耐えられんのだぞ?」
昨日爽やかにポロで汗を流した国王は、快調そのものの顔色でジョッキになみなみ注がれたピルスナーを喉に流し込んだ。
「まあ陛下、でしたら飲酒は控えませんと」
ニヤニヤ笑う王妃に言われ、げっぷをした王は平然と答えた。
「だからアルコールで消毒しているのではないか」
王宮では絶対出ない、庶民向けの濃味料理が並ぶテーブルを一瞥する。漬け焼きの骨付きチキンを選んで手づかみで口に運び、黄金の炭酸水(アルコール入り)で流し込む。
「こういう楽しみを人前でできんのを考えると、ホントに国王なんぞ成るものではないな」
「イメージが大事な商売でありますれば。たまに羽目を外すから楽しいのですよ」
鳥の脂の付いた指先を舐めながら、王はサイドテーブルにあった報告書をめくる。
「まったく……政庁や宮廷から送られてくる報告の方が、内容も頻度も牢内の令嬢に負けるとはどういうことだ」
先ほど王宮からわざわざ侍従が持って来た報告書の山は一応目を通したが、簡単に言えば内容は二点だけだ。
一つ目はエリオットの当てにならなさ。牢に入れたレイチェルに嫌がらせをするのに一所懸命で、政務の方が滞っているというもの。
二つ目は、エリオットの政務放棄に関連してやたら騒動を起こすというもの。必ずしもエリオットのせいではないみたいだが、彼のグループがなんだかんだと事件の当事者になっているのは間違いないようだ。
だから結局のところ結論は、どうにも収拾のつけようが無いから早く帰ってきて、と……。どれもこれも大同小異な内容ばかりだ。
「留守はしっかり守って見せるから、気楽に行って来いと言えないものかな、あいつらは……」
都で留守を守っている筈の者たちの顔を思い浮かべながら、国王は苦いものを飲んだような顔になる。
「さすがにイレギュラーもいい所ですからな、今回の騒動は」
ファーガソン公爵もほろ苦く笑う。王子も娘も良く知っているけれど、それがこんな騒ぎを引き起こすとは考えてもいなかった。
……娘については、可能性を考えたくなかったのもある。
「それにうまく対応するのが政治家であり官僚であろう。こんな事では他国の者どもに鼎の軽重を問われるわ」
そう言い放った王が、彫りの深い理知的な顔に人の悪い笑みを浮かべる……旅館備え付けのバスローブ姿だといまいちかっこが付かないが。
「それに、この事態にただ一人対応できている者がいるではないか、なあ父上殿よ」
言われた公爵の方が、今度はしかめっ面になった。
「対応できていると言いますか、遊んでいると言いますか」
公爵はチラリとお替りを運んで来たメイドを見上げた。
「影の者に手渡しにしろとは言わないが、せめて報告書は机に置いておいてくれんものかな? 朝起きると枕元に置いてあるのは心臓に悪いわ」
レイチェル付きのメイド、リサが頭を下げた。
「ご主人様、お嬢様からの手紙は私が昨日運んで来たのが初めてですわ」
「公式にはな」
娘がこの状況を楽しみ過ぎているのが気になる。
三日にいっぺん枕元に置いてある報告書の内容も、事務的に書いてあるけどツッコミどころ満載の内容なのが気になる。
グラスを置いた王妃が、見ていたレイチェルからの報告を王に渡した。
「やはり次の王妃にはレイチェルさんしか考えられないわね。このレポートを見てくださいな。内容の充実ぶりと要点をまとめた整理ぶり。週に一度、不完全な報告を上げて来るだけの王宮の者の不甲斐なさときたら……」
なぜ内容が充実しているかと言えば、王子の足を引っかける舞台裏まで書いてあるからじゃないかなあと公爵は思った。客席から寸劇だけ見せられる廷臣たちには書けるまい。
「しかしこれを見れば、とてもレイチェルとエリオット様の結婚はさせられないでしょう。これだけやらかしていますと、結婚生活が一年と維持できると思えません」
公爵夫人がだいぶアルコールの回った顔で言った。手元の報告書にはサイクスが辺境送りになった一件が書いてある。
王妃が冷たい為政者の顔で夫人のグラスに冷たいワインを注いだ。
「エリオットを止めて次男のレイモンドを王太子に据えます。エリオット派の者どもを説得せねばなりませんが……このやらかしぶりなら、彼らもすでに諦めているでしょう」
王妃の言葉に王も乗っかる。
「というか、レイチェル殿はそこまで考えて事件を起こしているのだろう……そうだな、仕返しをされないためには相手を引きずりおろしておくのが一番だ」
王と王妃が見つめ合った。
「やはりレイチェルさんを王妃に望んだのは間違いでなかったですわね。自分より権力が上の者を相手に、余裕で翻弄して見せるこの才覚。どんな状況も冷静に予測して、事前準備を隠し通す力も捨てがたいですわ」
「ああ。エリオットを池に突き落としてバンバン石を投げつけていた時は驚いたが……話を聞けばしれっと冷静に説明する姿には大いに感銘を受けたものだ。相手の親にだぞ? 有能で面の皮が厚い、しかも万事わかった上でだ。あれは臣下より国を動かす立場に相応しい」
王と王妃は楽しそうに、手に持つビールをぶつけ合った。
「プリズンイエーッ!」
公爵が散らばった報告書のバックナンバーを乱雑に搔き集めて控えるリサに渡す。
「しかしソレを考えればそろそろ、片を付けねばなりませんな。いつまでも政権中枢が空洞化しているのも宜しくありませんし……」
「ああ、そうだな……やれやれ、二か月に及んだ楽しい湯治もそろそろ仕舞いか……」
王が大儀そうに嘆息すると、背もたれに寄りかかる。王妃と公爵夫妻も顔を見合わせた。
「飯と風呂と昼寝をローテーションする日々……」
「王宮では食べられない市井の珍味に、マナー無用の気楽な宴会……」
「社交界みたいに外面を取り繕わずに良くて……」
「足を引っ張る部下も、嫌味に無駄な時間を使う政敵もいない……」
四人はぐで~っとソファに長くなった。
「あ~、帰りたくないなあ……」
地下牢の闇に、メイドが浮かび上がった。
「お嬢様」
「うん? 今日は報告の日じゃないわよね? どうしたの?」
ヘイリーと遊んでいたレイチェルが目を向けると、メイドが頭を下げて報告した。
「フラッカー温泉郷へ派遣したリサより至急の連絡です。陛下とご主人様がいよいよお戻りになられます」
「ふうん」
起き上がったレイチェルが顎をさすった。
「それは表の報告ね? 裏は?」
「両陛下はエリオット様を切り捨て、レイモンド様を王太子に据えることに決められた、との事です」
「まあ!」
レイチェルが小首を傾げた。
「殿下は何か、やらかしたのかしら」
別に返答を要求されているようではなさそうなので、メイドは黙って待っていた。
しばらく無言で考えたレイチェルがボソッと呟いた。
「ところでレイモンド様って……どういう方だったかしら?」
「……すべてを掌握されているのに、肝心な部分だけが興味が無くて抜け落ちてますよね」
「エリオット殿下の三歳下というのは覚えているんだけど」
「……明日にでも身上書をお持ちします」
「ああ、つまり口で言えない性癖持ち?」
「そう取られましても……」
レイチェルは仰向けになってベッドに転がった。
「あ~……休暇はたった三ヶ月でおしまいかあ」
「お嬢様……世間の人は普通三ヶ月も休んでしまうと、職場に席があるか心配になるものです」
「そうなんだ」
レイチェルはごろごろ転がりながらにんまり笑った。
「お嬢様。後の利用価値を考えるとお嬢様は公爵令嬢をクビにならないと思われます」
「……お願い、空想して楽しむ余地は残しておいて?」