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ずっと一緒  作者: カサイ マキ
9/15

戸惑い1

 威風は初めて塾に遅刻した。その理由が浩人と一緒に居たからだ、というのが自分自身一番信じられないことだった。学校が終わると薄暗くてやたらと物がごちゃごちゃと置かれた狭い店に連れて行かれ、小さなチョコレートと丸いスナック菓子を買って食べた。そして浩人と喋った。最後の辺りは殆ど口を利かなかったけれども、何故か浩人の隣を去りがたかったのだ。そろそろ塾に行く時間だ、とは気づいていた。黙って座りながらもう間違いなく遅刻だ、とも思った。

 けれどもそれは特に威風が浩人の傍を離れる理由にはならなかったのだ。

 遅れて授業中の教室に入ると、黒板になにやら大声で喋りながら数式を書いていた講師が一瞬黙って威風を見た。けれども彼は特に威風に対しては何も言わず眼鏡の奥にある細い瞳をせわしなく瞬きさせながら喋り続けた。

 威風は塾という場所が好きだった。

 物も、人も、果ては人間関係も最低限のものしか存在しないからだ。教室に在るのは黒板と3人がけの長机、簡素なパイプ椅子、壁にかかる少し大きめな時計。あとは時間割と成績優秀者を並べて書いた紙が張ってあるだけだ。それだけ。誰かが画いた余計な絵も無ければ、意味の分からない標語とか、汚い字で書き綴られた学級新聞とかいうものも無い。講師も生徒に過剰な興味は示さない。彼らにとってはいかにして親に金を払わせるのかが最大の関心事項であって、子供は良い成績をとりさえすればそれだけでいい。授業を聞いていなかろうが、課題をしていなかろうが、テストの点さえ良ければそれだけでいい。

 分かりやすくて実にシンプルで威風はここに居ると呼吸が楽になるような気がするのだ。

 けれども今日は何だかいつもと違う。

 気が漫ろだ。

 鞄を開けてテキストを取り出す気にもなれない。ぎしっと軋む椅子に腰掛けて、ぼんやりと机を眺めながら頭は勝手に今日のことを回想してしまう。

 ― 威風、今日は塾無いのか?

 浩人の一言がなければ、もしかしてこの時間になっても自分はあの公園に居たかもしれない。

 ある、とだけ答えると浩人はそうか、じゃあ塾行かないといけないな、と言って笑った。

 威風の肩の上に置いていた手を退け、浩人が先に立ち上がる。ぱんぱん、と両手でズボンに付いた砂を払う。威風は何か言いたいことがあるような気がしたが、それを考える間もなく浩人に手を差し出される。その手を黙ってじっと見ていると、

 「何だよ。引っ張ってやるから、手ぇ掴めって」

 別にそんなことをしなくても一人で立てるが、威風は浩人の手をつかむことにした。握る彼の手は熱い。自分とは何か別の生き物のような熱を持っている。

 その後もう一度浩人の家に行ってランドセルをとり、威風は自分の家に帰った。浩人は家まで付いて行くと浩人は言ったが、威風はそれを断った。帰ると誰も居なかった。祖母の靴も母の靴も無い。二人で出かけたのか。

 威風は意識して何も考えないようにしながらいつも使っている鞄にそのままランドセルの中身を移し変えた。その時間には、もう塾が始まる時間になっていた。こんなに塾に遅れるなんて始めてのことだった。

自分もどうして彼の手は拒まないのだろうか。自分自身のことなのに分からない。

 新学期早々席を変えられていたことに腹を立てて教室を出ようとした。あの時教師に腕を捕まれた時は嫌だとかそんなことを思いつく前に身体が拒絶した。自分の腕に絡む指を力いっぱい振り払った。

 けれども浩人の手は平気だ。腕をつかまれても手を握られても。ましてや差し出された手を自分から握った。

 浩人と担任教師、どこが違う?性別、年齢、容姿、違うところばかりで分からない。

 そう言えば一年位前にしつこく絡んでくるクラスメートを殴ったこともあった。アイツと浩人の違いはどこだろう?性別と年齢は一緒。浩人もやたらと絡んでくるが、あの時のような激情は沸いてこない。それに対してあの同級生、クラスが替わったので最近は殆ど見かけないし存在を思い出すことも全くと言っていいくらいにない。名前は始めから知らない。威風が黙って教室の隅で本を読んでいたりすると、やたらと何か言いにやってきていた。徹頭徹尾無視していると、言い返せないのだと思われたのか何か知らないが、ある日頭を小突かれた。

 その瞬間、威風は自分でも訳が分からないほど激昂したのだ。ごんっと頭に衝撃を受け、自分が何をされたのか理解するまで物凄く長い時間がかかったような気がした。ゆっくりと彼を見ると、にたにたと薄気味の悪い笑みを浮かべてこちらを見ていた。

 わっと頭の中が熱くなり、意識が飛んだ。

 気がつけばさっきまで薄笑いを浮かべていた少年に馬乗りになり、拳で殴りつけていた。殴られる彼にはもう笑みなど残っては居なかった。くしゃくしゃに顔を歪めて涙を流し、助けて止めてと叫んでいた。

 大勢のクラスメートに取り押さえられる頃には大分冷静さを取り戻していた。床に転がったままわんわん泣き続ける彼を見て威風はただ、「面倒なことになった」と思った。そしてその後予想通り職員室で説教を受けた。その下らない教師の話と無駄な時間に辟易し、もうあんな真似は二度とするまいと心に決めた。原因がなんにせよ、ああいうことをしてしまえば面倒なことになるのは分かりきっていたのに、抑えることが出来なかった。本当に頭の中が真っ白になり、自分を制御することが出来なかったのだ。

 あれほど一瞬とはいえ強烈な怒りを感じた相手のことはもう殆ど覚えていない。職員室で説教を受けている間もビービー泣き続けていたのは覚えているが、その後姿を見た記憶も無い。

 浩人はといえば、声をかけてくるのが鬱陶しくて無視していたが、彼は全く気にする様子もなく飽きずにべらべらと一人で喋り続けていた。

 けれど何故か、彼の言葉には時々反応してしまうようになった。そしてたった数日で彼の隣を去りがたいとまで思ったのだ。

 手を握られ、強引に訳のわからないところに勝手に連れて行かれ、何だかよく分からない物を食べさせられ、誰にも聞かれたことの無い自分の思い出を話した。

 浩人は何が違うのだろう?

 急に自分の隣にやってきて、自分を振り回すのにそれに嫌悪を感じなくなってしまったのは何故なんだろう?

 「守山!守山、聞いてるのか!」

 神経質に尖った声が、不意に耳に入ってきた。はっとして声のしたほうを見ると、黒板の前に立つ講師が明らかに苛立った顔で威風を見ていた。

 「3番の答え、言ってみろ」

 いきなり『3番』と言われても何のことか全く分からない。テキストを開いてさえもいないのだ。机の上には何も無い。講師もそれには気づいているだろうに。

 「聞いてなかったので分かりません」

 威風は躊躇うことなく素直に答えた。講師の頬がひくりと動いた。

 「話にならん!中田!お前が答えろ!」

 吐き捨てるように言い、威風の後ろの席に座る者を指した。注意の矛先から自分が逸れたらしいので威風はまたぼんやりとし始める。

 もし、今この隣に浩人がいたら。

 多分一言じゃ済まない。

どうしたんだよお前、何ぼーっとしてるんだよ。腹でも痛いのか、具合でも悪いのか。

 実際にそんなことを言われたことは無いのに、何故か目の前で彼が本当にそう喋っているかのようにリアルに情景が浮かぶ。

 ひどく意識がぼんやりとして、現実に定まらない。遠くで微かに講師の声が聞こえるが何を喋っているのかは分からない。塾に来てこんなにぼんやりとするのは初めてかもしれない。算数はわりと好きな科目のはずなのに、今はテキストを開く気にもなれない。

 「守山!何だお前はさっきから!座ってるだけなら帰れ!」

 どうも今日この講師に目をつけられてしまったようだ。神経質でよく特定の生徒を怒鳴りつけることがあったが、威風が対象になったことは無かった。

 名指しで怒鳴られ威風の胸の中がぐらりと不愉快になってくる。ぼんやりとしていた気持ちが負の方向へ明確なものに変わって行く。

 ああ、不愉快だ。塾は学校と違って下らないことで叱られることがないところがいいのに。高々テキストを開かずに座っていただけで怒鳴られていたのでは堪らない。

 これじゃあ学校と何も変わらない。

 「いい加減にしろ!」

 バアァンと講師が殴りつけた黒板がかなり大きな音を立てて揺れた。何をそこまで怒っているのか、威風は不愉快に感じながらも疑問だった。男の怒声は、女と違って甲高くは無い。だからまだ、この男の怒鳴り声のほうがマシだった。

 まだこの椅子に座って一時間も経っていないだろう。威風は時計を見ながら席を立った。

 鞄を肩にかけ、教室の出入り口に向かう。

 「おい守山!」

 そういえば、塾を途中で勝手に帰るのは初めてかもしれない。

 何だか今日は初めてのことが多いな、と威風は呑気に考えた。いや、初めてのことが多いのは今日に限ったことではないか。何だか新学期になってからまだ数日しか経っていないはずなのにいろいろなことが起こりすぎているような気がする。

 威風は塾を出る。そしてゆっくりとした歩調で駅に向かう。

 これからどうしようか。

 家に帰るか?

 そう考えた時、ついこの間強烈に感じた拒否感のようなものは沸いてこなかった。家に帰るのがどうしても嫌で、公園に居たあの時のような。あの時は塾がもっと長ければ良いのにと考えていた。それなのに今日は帰ることがそれほど嫌ではない。祖母が居ることで家がどんな状態になってしまうかと思ったが、思ったほどの劇的な変化は無い。何よりも危惧していた母のヒステリックな爆発はないし、今朝見た母の様子は異常だったけれども威風に直接何か被害があるわけではないからまあ良いだろうと思える。

 ふと威風の脳裏に祖母の顔が浮かんでくる。彼女はいつでも微笑んでいる。あの人が母親の母親。自分の母親が、あんなふうに微笑んでいたことなんてあったっけ…?

 威風の記憶の中にそんな母の姿は存在しない。もしあったとしても、それはきっと威風が物心付くより前の話だ。もしくは、自分が生まれるよりも前。

 ポケットから定期を取り出し、改札を通る。運が良いことに、駅には丁度電車が出発を待っているところだった。車内に入ると、威風は出入り口に近い席に座った。

 正面に同じ制服を着た二人組みが座っている。きゃっきゃと高い声ではしゃぎながら嬉しそうに会話をしていた。威風が何とはなくそちらに視線をやると、彼女たちがチョコレートの箱を持ってお互いに分け合って食べているのが見えた。

 その瞬間威風はさっき公園で食べたチョコの味を思い出した。浩人がくれたチョコの味。

 昨夜食べた祖母のロールキャベルトは違い、ただ甘いというだけの単純な味だと思った。

 浩人は美味いだろう?と言った。二つも食べるんだから、お前はチョコが好きなはずだと言った。なら途中で食べるのを止めてしまったロールキャベツは、嫌いということになるのだろうか。

 「あ」

 そんなことを考えていると、威風はふと下らないことを思い出した。

 ― 飴を貰っていない

 当たりくじと引き換えに浩人が貰っていた飴。自分にくれると言っていた飴。あの飴、どうしたのだろうか。実に下らないことだとは分かっているが、威風は少し気になった。

 威風は鞄から本を取り出す。『中央アジアの文化』は、もう何度繰り返し読んだか分からないほど気に入っている本の一つだった。こういう本は自分がまるでそこに行っているような気分を味わえるから好きなのだ。どこか、自分が知らない遠くへいけるような気がして。自分一人で誰も自分のことを知らない場所へ。

 車内アナウンスが流れ、電車が間もなく発車することを告げた。

 カラーの写真には乾いた広大な平地の写真。どこまでも広がって、空の下をただ一直線に地平線が伸びている。その陰を邪魔するものなど何も居ない。青く澄んだ空には雲さえ浮かんでいない。青い空と茶色の大地。それだけ。それだけの景色。

 ― だけどここには、飴はないだろうな…

 ふと、今までならそんなこと思いもしなかったことが頭に浮かぶ。けれどもそんな自分をおかしいとかいつもと違うとかそんなことは全く思わなかった。

 浩人の言っていた「青りんご味の飴」。それは一体どんな味なんだろうか。浩人が美味いという味はどんな味なんだろうか。

 本を読んでいるうちにいつもの駅に着く。駅の改札をくぐり、タクシー乗り場へ向かう。いつものコースだ。

 今日乗ったタクシーの運転手は、前にも見たことのある男性だった。彼は無口で、何も喋らない。威風も行き先だけを告げて、あとは窓の向こうの景色ばかりを眺めていた。

 そのうち、威風は車窓から見える風景が今日浩人と歩いた道だということに気がつく。ここは、浩人の家の近くだ。そう気づくと何故だか胸が高鳴った。

 けれども車はあっという間にその辺りを走りぬけ、威風の家へと向かう。胸の高鳴りも、それに併せたかのように静まっていく。

 やがてタクシーは威風の家の近くで静かに止まる。運転手は運賃すら威風に告げなかった。おそらく彼も威風に見覚えがあったのだろう。いつもと同じ金額を差し出すと、彼は礼も言わずにそれを受け取って後部座席のドアを開ける。それでいい。むしろそれくらいのほうが良い。車から降りる。結局、運転手は一言も声を発さなかった。

 自分の家が見える。窓には灯りが灯っていた。塾に出かける時はいなかったが、戻ってきたらしい。家の中に入ることに躊躇いは感じなかった。取っ手に手をかけるとドアは何の抵抗もなく開く。鍵はかかっていなかった。

 扉を開けた瞬間まず威風が感じたのは匂いだった。

 肉の焼ける香ばしい匂いがした。こんな匂いを嗅いだのは本当に久しぶりだった。

 威風は少しの間玄関に立ち尽くした。ここが本当に自分の家なのかどうか分からなくなってしまったのだ。

 さらにキッチンからは笑い声が聞こえた。軽やかな声。威風はのろのろと靴を脱ぎ、そっとリビングを隔てる戸を開いた。

 リビングの向こうのキッチンで祖母と母が並んで料理をしていた。いや、正確には料理しているのは祖母だ。母は…。母は。母は。

 母はコンロでフライパンを持つ祖母の背後から彼女に抱きついていた。背は祖母よりも高くどこからどうみてももう良い大人なのに、無邪気に…というか威風からみればみっともないくらいに笑って祖母にじゃれ付いている。

 威風は凍りつく。

 ここは一体どこか。そして目の前の光景は何か。

 混乱する威風に気づいたのは祖母だった。

 「あらふーちゃんおかえりなさい」

 彼女は何でも無さそうに威風を見る。母の目に威風は映っていないらしく、祖母から離れようとしない。

 「お風呂沸いてるから、ふーちゃん先に入ってきて。上がる頃にはご飯準備できてると思うから」

 威風は何も言わず扉を閉めた。そして祖母と母との空間を自分から遮断した。

 肩に提げていた鞄がずるりと抜け落ちぱたりと微かな音を立てて着地した。言葉には形容しがたい衝撃が威風の身体の中を駆け巡る。

 これはどう考えたっておかしいだろう?どう見たって普通じゃない。尋常じゃない。

 威風はふらふらとする足取りでバスルームへ向かった。衣服を脱ぎ捨て、脱衣所を通り過ぎ、浴室へと足を入れる。

 浴槽には湯が並々と張ってあった。

 どぼんと倒れこむように湯の中に身を浸す。

 ばちゃんと湯が揺れ、浴槽からざばっと溢れ落ちた。

 威風は湯船の中に頭から浸かった。水中で目を閉じずにいると、湯が目に沁みる。けれども目を閉じず、呼吸が限界になるまで潜っていた。

 水面を見上げると、浴室の明かりがゆらゆらと揺れている。苦しくてごぼっと息を吐き出すと、大きな気泡が同じようにゆらゆら揺れながら水面に上っていく。

 耐え切れなくなって水中から顔をだす。

 「はぁ…」

 肩で息を繰り返して気持ちを静めようとした。髪の毛からぽたぽたと垂れ落ちるしずくを見ていると、自分が今とても馬鹿らしいことをやっているのだということに気づいた。それと同時に頭と胸の中でぐるぐると渦巻いていた生暖かくて気味の悪いものがさーっと引いていくのが分かる。

 何をやってるんだ。別にこんなこと大したことじゃない。あの女がおかしいのは前からだ。更におかしくなったとしても、別にわめき散らすわけでもないし自分に直接の害があるわけじゃない。別にこんなことはどうってことない。

 そうだ。何でもない。こんなことは何でもない。

 気持ちが徐々に落ち着いてくる。湯船から上がったが、何だかまだ水中に潜り込んでいるみたいに周りの空気がゆらゆらしているように感じた。

 脱衣所には着替えが用意されていた。自分は何もしていないから、これを持ってきたのはおそらく祖母なのだろう。等閑に身体をバスタオルで拭き、用意されたパジャマに着替える。脱衣所を出るのを無意識に躊躇った自分に気づき、威風は舌打ちした。こんなことは大したことない、別に何でもない。

 もう一度自分に言い聞かせ、扉を開ける。通路の向こう側はリビングに通じる扉がある。そこを開くことにはもう躊躇わなかった。

 「あら、ふーちゃんもう上がったの?早かったわね」

 すぐに祖母の明るい声が耳に飛び込んでくる。テーブルの上には湯気のたつ料理が並べられていた。母は既に椅子に座って料理を食べ始めている。

 「こら亜由美、ふーちゃんがくるまで待ってなさいって言ったでしょう?」

 自分を嗜めるのと大差ない口調で祖母が母に言う。母は、「だって」と甘えた声を出した。祖母が「しょうがないわね」と笑う。母は笑いながら食事を続けている。

 「さ、ふーちゃんも一緒に食べましょう。今日はハンバーグにしてみたの」

 威風はふらふらと祖母に言われるままテーブルに近寄り席に着く。隣には母がいるが、なるべく自分の視界には入れないように皿に盛られたハンバーグばかりを見つめた。

 「食べてみて?きっと美味しいと思うわ」

 祖母も席に着き、三人での食事が始まる。いただきます、と祖母が言うので威風も小声で真似をした。箸を手に取り、一口ハンバーグを口に含む。ゆっくりと噛み締め、舌の上で味が広がっていく。

 「どうかしら?美味しい?」

 祖母が威風の顔を覗き込んでくる。柔和な笑顔。けれど目は真剣に威風の様子を窺っているのが分かる。ちょっと、緊張しているようにも見えた。

 分かっている。彼女が自分のどんな答えを期待しているのか。

 「…美味しい」

 そう答えると、祖母の顔がぱっと輝いた。

 「美味しい?ハンバーグ美味しい?」

 「…うん」

 すると、彼女はほーっとため息を吐いた。

 「良かったわぁ…今日のハンバーグはね、ふーちゃんのママと一緒に作ったのよ。亜由美、ハンバーグふーちゃんが美味しいって」

 思いがけない祖母の言葉に、威風はぎくっと身体が固まる。

 「本当?」

 隣で母の声。

 自分を見ているのが気配で分かった。

 「本当に?威風」

 威風は恐る恐る首を捻り、母のほうを見た。

 母は特にこれといった感情の読み取れない顔をしていた。ただ単純に威風の言葉を気にしているだけのようにも見えたし、何か少し不機嫌そうにも見えた。けれど、今にも金切り声を上げて感情を爆発させそうな危うい雰囲気は無い。

 「…本当だよ」

 そう答えると、母は笑った。

 満足したというか、料理の出来を誇るような、子供じみた自慢を含んでいるような笑みだった。

 威風は混乱する。

 いったい今何が起こっているのだろう?母のこの表情をどう解釈したらいいのだろう?変化していることは確かだが、それが良い方なのかそうでないのかが見当もつかない。自分に当たられることがなくなるのならそれでいいけれど、母は確実に退行している。

 動揺を押し隠すように威風は食事を続けた。本当に美味しいかどうかなんて良く分からない。昨日のロールキャベツと違うものだということは分かるが、それと同じようにひどく複雑でいろいろなものが混ざった味がする。

 ただ、祖母が「美味しい」と答えるのを待っているのが分かったから言ったのだ。

 祖母が望むことを。祖母が喜ぶことを言ったのだ。目の前の皿に盛り付けられた料理が全てなくなるまで威風は必死に食べた。さほど空腹ではなかったが、何もしない時間が怖くてひたすら食事を続けた。

 「あらあら…ふーちゃん全部食べてくれたのね。お代わりは?」

 明るい祖母の声を聞くと、威風はふと我に返った。口の中にはまだ最後に口に入れたサラダのレタスが残っている。それを噛みながら首を横に振った。

 「よかったわね亜由美。ふーちゃん全部食べてくれたわよ。明日は何つくろうかしらね」

 最後に出されたお茶を一気に飲み干すと、威風は席を立った。そのまま早足でリビングを出る。背後で祖母が何事か声をかけてきたような気がしたが、振り返るような余裕は無かった。

 灯りもつけずに階段を駆け上がり、自分の部屋に入る。ドアをバタンッと荒々しく閉め、ベッドに飛び込んだ。頭から布団をかぶり、ベッドの上で丸くなって目を閉じる。

 別にこんなことは大したことじゃないだろう…。何が起こったって別に何でもないはずだ。母がおかしいのは前から。今更もっとおかしくなったって、自分の知ったことじゃない。祖母が来てもっとおかしくなったんだから、祖母が責任とって面倒を見てくれればそれでいいじゃないか。自分には関係ない。全く持って関係のないことだ。

 自分にそう言い聞かせながらも、威風は自分の身体が寒くも無いのに震えていることに気づいている。

 この気分は嫌だ。思い出したくないことを思い出しそうになる。

 耳の奥で声がする。もう長らく聞いていない父の声、そしてヒステリックな母の金切り声。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ…。

 どうしてこんな気分になる。どうして思い出してしまう。

 ― 不安なのか。

 また、あんな日に戻るんじゃないかと。

 いや、そんなことはありえない。だって家に父は居ないのだし。

 もうどれくらい顔を見ていないのだろう。顔が、咄嗟に浮かんでこない。

 こんこん、と軽やかなノックの音が耳に届き、威風はびくっと身体を震わせた。思い出したくない記憶がぷつりと途切れる。

 「ふーちゃん…」

 ドアが開く。祖母がベッドに近づいてくる足音が聞こえる。

 「どうしたの?お腹でも痛いの?」

 労わるような口調。けれども、祖母は分かっているはずだ。自分がこうしている理由が腹痛なんかのせいじゃないことは分かりきっているはずだ。

 「ね、ふーちゃん。頭が痛いの?」

 そっと彼女の手が布団に触れる。そっとはぐられ、暗がりの中に威風の顔が晒された。

 「そんなこと、知ってるくせに」

 灯りのない部屋の中でも、祖母が微笑んでいるのが分かる。ゆっくりと首を振る様も、はっきりと見えた。

 「分からないわ。ふーちゃんのこと何でも分かって居たいけど、分からないの。教えてくれないと、おばあちゃんには分からないわ」

 嘘だ。分かっているはずだ。それなのにどうしてそんなことを言うんだ。

 「ママは、どうしたの」

 ベッドの上で丸くなったまま、視線だけを祖母に向けて尋ねる。

 「ママはね、おばあちゃんに甘えているの」

 祖母の手が、威風の肩に触れた。昼間、浩人に触れられたのと同じ位置だった。

 「ママは今まで甘えられなかったから、今思い切りおばあちゃんに甘えているの」

 威風の頭の中に、朝食を食べ零し、汚れた口を祖母に拭いてもらっていた母の姿が目に浮かんでくる。

 「ふーちゃんも、おばあちゃんにうんと甘えて良いのよ?今までずっと寂しかったでしょう?」

 威風は視線をシーツに向けた。膝をぎゅっと抱えてますます身体を丸くさせる。

 祖母は威風が何か言うのを待っているようだった。けれど威風は何も答えない。何か言う代わりに、身体の向きを変えて祖母に背を向けた。

 背後で、祖母が悲しそうなため息をつくのが聞こえた。

 「あのね、ふーちゃん。おばあちゃんも、ママも、ふーちゃんのこと大好きなのよ…?」

 そう言いながら祖母は威風の肩に布団をかけた。威風は何も言わない。言うべき言葉など、思いつかなかった。

 「おやすみなさい」

 祖母の手が威風の髪を優しく撫でた。

 足音が遠ざかり、扉がぱたんと静かに閉まる。

 部屋が閉ざされた瞬間、威風の両目からだらりと涙が溢れた。

 寂しい。

 とても寂しい。

 今、とてもとても寂しい。

 甘えても良いと祖母は言うけれど、一体どうやって。大きな子供になってしまった母がいるというのに、どうやって威風にも甘えろというのか。祖母は一人しかいない。腕は二本しかない。もはや彼女の身体は自分よりも小さい。

 母が祖母に寄りかかって、さらに自分も寄りかかったら潰れてしまう。

 寂しい。

 別にもう、誰に甘えなくたって寂しくなかったのに。どうして今更寂しくならなければいけないんだ。

 涙が溢れ、流れて枕を濡らす。

 ― 飴が…。

 そんな時ふと口の中には何も無いのに、昨夜舐めた飴の味が蘇る。

 ― 寂しい…。

 脳裏に、明るく笑う浩人の顔が浮かんだ。手を差し出して、チョコレートを食べさせてくれた。それを思い出すと涙がさらにどっと溢れてくる。胸が痛くて呼吸が苦しい。

 別に飴だってチョコだってそれ以外だって何でも良い。昼間のように自分に食べさせてくれないだろうか。

 浩人に会いたい。

 自分でも驚くほどはっきりと威風は思った。

 早く夜が明けないだろうか。朝になって学校が始まらないだろうか。

 こんなにも学校に行きたいと思ったのは初めてだ。

 明日になっても彼は笑っているだろうか。手を差し出したら彼は、浩人は、自分の手を握ってくれるんだろうか。

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