芽生え2
「ただいま!」
今日は母が休日なので家の鍵は開いている。乱暴に玄関の扉を開け、靴も脱がずにランドセルを降ろす。
「ほら、威風もここにランドセル置けって」
玄関先で息を切らせながら無言で立っている威風に声をかける。けれども彼ははあはあと荒い息を吐きながら浩人をじっと見るだけだった。焦れた浩人は勝手に威風のランドセルを背中から降ろそうと手を伸ばした。
「お帰り浩人」
部屋から母親が出てきた。浩人は半ば奪い取るように威風の背中からランドセルを引き剥がし、玄関先に置く。
「あら、お友達も来てるの?こんにちは」
母が威風を見てにこりと笑う。
威風はまだ呼吸が整わないようで肩で息をしながら、ぼうっとした感じで母を見ていた。
「威風なにぼーっとしてんだよ。こんにちはくらい言えって」
浩人が嗜めたが、威風はただ母をじっと見るだけで何も言わなかった。
「今から遊んでくるから」
まあ仕方が無いか、と思いながら浩人はそのまま玄関を出ようとする。
「まー、宿題はどうするの?」
思ったとおりの母の言葉。家に帰ってすぐに宿題なんてするわけ無いのに、いつもこんなことを言うのだ。
「後でする!」
これ以上ここにいても宿題のことやらを煩く言われるだけだ。浩人は威風の腕を引っ張り、扉を開ける。
「あんまり遅くなったら駄目よ!」
「はーい!」
振り返りもせずに返事だけをして家を出る。駆け足でアパートの階段を降りると、後ろの威風の足がもつれていることに気づく。
「何だよ。もう疲れたのか?」
立ち止まると威風はじろっと浩人を睨んだ。
「まあお前体育も全然やってないもんな。ちょっとは走って体力つけないとやばいぞ」
笑いを含んでからかうように言うと、威風は浩人から視線をそらした。彼の表情が少し気まずそうに見える。
「へへへ」
自分の笑い声を、我ながら変な声だと思いながら浩人は威風の隣に並んだ。
「ほらこっちこっち。もう走らないから、ゆっくり歩いて行こうぜ」
浩人はわざと自分の肩を威風の肩にぶつける。ほんの軽く、小突くように。威風の身体が少しだけよろめく。怒るかと思ったけれど威風は何も言わなかった。
嬉しい。たったこれだけの触れ合いだけれども凄く楽しい。
「威風って駄菓子屋なんて行ったこと無いだろう?」
二人で並んで歩き始める。威風はやっぱり何も言わない。
「お前今日小遣い持ってる?百円あったらけっこういっぱい買えるぜ」
ポケットの中に入れていた小銭入れを取り出す。中にはちゃんとこの間「当たり」がでた飴玉の包みが入っている。それと、小銭がジャラジャラといくつかある。これで何を買おうか考えた。パンと飴は食べるようだがそれ以外に何を食べているのか全然分からない。
「あそこだよ。信号渡ったところの、駐車場の向こうに小さな店があるだろ。あれが駄菓子屋。」
道の向こうに店が見えてきた。威風は浩人が指差して見せた先にちらりと視線をやったが、さほど興味は内容でまたやや下を向きながら歩き続けた。
行きつけの駄菓子屋は、いつものように店先から雑然としている。店の中は小学生が5人も入れば身動きが取れなくなってしまうほどに狭い。昼間でも薄暗い店内には先客がいた。浩人は店の出入り口で立ち止まった。
「何か食べてみたいモンとか無い?」
きっと返事がないと言うことが何となく分かる。この問いかけは、威風の興味を引けるようなものではない。浩人はまだ自分のことを真剣に見ている威風の手を取った。
「ほら、中入ろうぜ。オレもう腹が減ってしょうがないんだ」
浩人は店の中に入ると、チョコやらスナック菓子やらゼリーやら、自分が食べたい物を適当に手に取った。スナック菓子の、明太子味を買うかチーズ味にするか迷いながら浩人は後ろに立っている威風を振り返りかえった。
威風はつまらなさそうにぼうっと店の外を眺めている。この店の中の何一つ威風の興味を惹くものはないらしい。
「おばちゃん、これ頂戴。あと当たりくじ」
「はい。飴はその中から一個好きなのとって良いよ」
じゃらじゃらと小銭だけで会計を済ませ、小さなビニール袋に菓子を入れてもらう。
後ろにいる威風を見ると、彼はまだ床を睨みつけていた。
「威風、行こうぜ」
腕を掴み、歩き出す。威風はぐらっとよろめき、ちょっとの間足が縺れていた。
「どこで食おうか。昨日の公園行く?」
一応威風に聞いてはみるが、答えが返ってこないことは分かりきっていたので元より公園に行くつもりだった。家に帰っても良かったけれど今日は母が居る。他の誰かがいては何だかゆっくり話せない気がしたし、あのお節介でおしゃべりな母親が威風に何も言わずに黙っているとは思えなかった。浩人は威風の腕を引きながら公園まで歩いた。
「あそこの公園夜はたまにヤンキーがいるんだよ。昨夜は居なかったけど、あんまり夜にはあの公園行かないほうがいいぞ。今は昼だから大丈夫だろうけど」
多分こんな言葉じゃ駄目だな、と思いながら浩人は喋る。きっと威風の耳に自分の言葉は入って行っていないだろう。ちらりと威風を振り返ると、さっきの床を睨みつけていたような思いつめた表情ではなく、ぼんやりと弛緩した表情だった。どこも見ていない。何も考えていない。そんな感じだった。
「なーまずなにから食べる?チョコから食う?これ当たりくじついてるから、ちゃんと確かめるんだぞ」
そんな威風の腕を引っ張り続けて公園にようやくたどり着く。公園には何人かの子供がきゃーきゃーと歓声を上げながら走り回っている。ブランコはすでに使用中だったので、浩人は公園の隅にある花壇を仕切るブロックに腰掛けた。しかし威風はぼんやりと立ったままで浩人の隣に座ろうとしない。
「何やってんだよ。座れって」
けれども威風は浩人の隣を見続けるばかりで動こうとしない。
「立ったまんまだったら足疲れるだろう?そんなにオレの隣に座るのいやなのか?」
すると、威風は何故か目を細めて眉間に皺を寄せた。
「何だよ…。そんなに嫌がること無いだろ」
手を握っても嫌がらなかったのに、どうして隣に座るのを嫌がるのかが分からない。浩人は少し寂しさを感じながら、もう一度立ち上がって威風の手を引いた。
すると、威風は露骨に嫌がって浩人の手を振り払う。
ばしっと、音を立てて威風の手が浩人の手を拒んだ。浩人は、数日前に威風が担任教師の手を凄い形相で振り払った光景を思い出す。
「あっ…」
浩人の胸がずきっと痛む。手を振り払われてしまった。嫌がられてしまった。今まで勝手に話しかけても強引に腕を引いて歩いても嫌がれることは無かったのに。
どうして今振り払われてしまったのだろう。
「…そんなに嫌だったか?」
何となく、昨日今日のことで自分は威風にとって特別なんじゃないだろうかという妙な自身が沸き起こっていた。けれども、さっきの一瞬でそんな些細な自信はあっけなく崩れ落ちてしまう。でも良く考えてみれば、二日も経っていないような関係なのだ。威風があの教師を睨んだように、いつか威風を殴った同級生を睨んだように、さっき、駄菓子屋で床を睨んだように、今自分を睨んでいるような気がして浩人は俯いたまま顔を上げることが出来なかった。
「ズボンが汚れる」
ぽつりと威風の呟きが聞こえた。
浩人は驚いて顔を上げた。
威風もまた、俯いていた。もう眉間に皺はない。何だか、困った顔をしている。
「…座ったらズボンが汚れるから、嫌だったのか…?」
言葉の意味を確認すると、威風は視線を下に向けたまま頷いた。
浩人の気分がぱっと明るくなる。さっきかなり落ち込んだ反動で、自分でもびっくりするぐらいに胸の中が軽くなった。
「な、なんだ!そんなことか!ビックリした!オレお前に嫌われたのかと思った!」
必要以上に声が大きくなってしまうのを自分で認めながら、それでもそれを抑えることが出来ない。
「じゃあ、じゃあじゃあ、何か敷こう。その上に座れば大丈夫だから」
そう言いながら浩人はズボンのポケットを探る。ポケットの中には確か三日前くらいに突っ込んでおいたままのハンカチが眠っていた。殆ど使っていないから汚くは無いはずだ。
「ほら威風、この上に座れよ。な?」
浩人は再びブロックの上に座り、隣にハンカチを広げた。ハンカチがあってよかった…。浩人は今までの人生の中で初めてハンカチに感謝した。そして登校しようとするたびに「ハンカチは持った?」なんて言ってくる母親にも。威風は浩人とハンカチを交互に見下ろして、少し躊躇ったようだがようやく浩人の隣に座った。
「チョコ食おう、チョコ。お前どっちがいい?」
自分のためと、威風のためにいくつか買ったチョコ。そのうちの二つを右手と左手に一つずつ乗せて威風に見せると、彼はじっと手のひらの上のチョコレートを見ていた。
「何だよ、じっと見て」
見るばかりで、取ろうとする気配が無い。
「もらえない」
その言葉に浩人は驚く。ここまで来てそれは無いだろう。
「何で」
「貰う理由が無い」
威風はそう言うと、ふいっとチョコレートから顔を背けてしまう。
「何だよそれ!そんなこと言うならはじめから言えよな!」
ちょっと怒ったように言ってみせたが別に本気で怒ってるわけではない。威風はチョコレートから顔を背けたまま黙っている。浩人は作戦を変えて右手に持っていたチョコレートの包みを開けて自分の口の中に放り込む。そのまま左手に持っていた包みも開けた。
「威風、チョコ嫌いか?」
威風は何も言わない。浩人の口の中では、べたりとチョコレートが溶けていき、甘い甘い味が口中に広がっていく。
「ほら、食べてくれよ。」
浩人はむき出しにしたチョコを威風の口元へ持っていく。唇のほんの先にチョコレートを差し出すが威風は口を開かない。
「お前のために買ったんだから、お前が食ってくれなきゃ意味が無いだろう?」
威風が、ちらりと視線だけを動かして浩人を見た。
「早くしないと溶けちまう。美味いから一緒に食おうぜ」
ついっと、殆ど唇に触れるほどまでにチョコを近づけると、ようやく威風は僅かに口を開いた。浩人は威風の気が変わらないうちに、と即座に彼の口の中にチョコを押し込んだ。
威風は抵抗することなくチョコを口に含む。
「な?美味いだろ?」
浩人の問いかけには答えずもごもごと口を動かしている。浩人は黙ってそんな威風の様子を観察していた。彼の口の中にも浩人と同じようにあの甘い味が広がっているはずだろうに、やっぱり無表情だ。美味いとか不味いとか、威風には分からないことなのだろうか。
「…甘い」
ごくりと咽を動かした後威風が感想を呟く。
「甘いの、美味いだろ?」
その質問には答えず、何かやたらと難しそうな顔をしている。
「そう深く考え込むなよ。考えるようなことじゃないだろ?」
浩人は威風の肩をそっと掴む。
「もう一個食う?」
俯いて思い悩む威風の顔を覗き込み、目の前にまたチョコを差し出した。今度は包み紙のままで。威風はじっとチョコを見つめていたが、何も言わない。
「お前が食わないなら、オレが食う」
そう言うと、浩人はさっと包みを開けて二個目を口に放り込む。
威風はそんな浩人の顔をじっと見てきた。
「何だ、やっぱり食うのか?」
威風は食べるなんて一言も言っていないが、笑いながらからかうように言うと威風は否定もしなかった。浩人はもう一つチョコレートを取り出し、包み紙を勝手に開ける。そしてさっきそうしたように自分の指で摘んで威風に差し出す。口元へ持っていくと今度はすんなりと威風の口が開いた。
浩人はふと、いつだったか理科の授業で見たビデオを思い出した。ツバメの巣で雛が親鳥の持ってかえったえさをせがんでピーピー鳴きながら口を開けるシーンだ。
彼の口の中にチョコを含ませると、前歯が微かに当たってこつりと小さな音が鳴る。
「チョコ、美味いだろ?」
そんなことを思い浮かべたってことを素直に威風に言ったらどうなるだろう?怒るだろうか。それともいつものように無視をするだけだろうか?
「二個食べるくらいだから、美味いと思ってるんだよ」
威風は黙ってまた口をもごもごと動かしている。浩人は手の中に残っているチョコの包装を広げて中を見る。中には何も書いていない。当たりだと「あたり」と書いてる。つまりこれはハズレだ。4個とも、全てハズレだった。
「あー全部ハズレだ。ついてねぇな」
もし当たりがでたら、明日もまた威風と一緒に駄菓子屋に行く理由が出来る。小遣いは限られているから、そう毎日毎日駄菓子屋にいけるわけじゃない。
「じゃ、今度はこれ食ってみろよ。これはくじ付いてないんだけど美味いぜ」
スナック菓子を袋ごと差し出すと、威風は不思議そうにその袋をじっと眺めて何故か妙に慎重な手つきで手に取った。
「チョコ好きだろ?」
袋を開けもせずにじっとそれを見ているだけの威風に問いかける。
威風は袋から視線を話して浩人の顔を見た。
「よく分からない」
「二個も食っといて嫌いなわけないじゃないか」
すると威風は黙って俯く。そして掴んでいた菓子の袋を手の中でぎゅっと握った。
「お前そんなことしたら菓子が中でぼろぼろになるぞ」
浩人が慌てて威風の手からそれを取り上げたがもう遅い。外からでも分かるほどそれは完全につぶれてしまっていた。
「あーあつぶれちゃった。仕方ないなあ。こっちやるよ。もう潰すなよ」
自分用にと持っていたスナック菓子を威風の手に握らせる。そして浩人は袋をそっと開け、それを口元に持っていき、袋を逆さにしてぼろぼろになってしまっている中身を口の中に流し込む。気がつくと、いつの間にか威風は浩人をじっと見ていた。
「何だよ。お前も食えって」
けれど威風は黙って浩人を見るばかりだ。
「まさか、まだ遠慮してんの?」
否定も肯定も無い。黙って見られるだけだ。
威風の手の上には渡した菓子が乗ったままだ。それをもう一度手に取り、さっきそうしたように包みを開け、差し出す。
「ほら」
けどまだ威風は動かない。浩人はさらに包み紙から中の菓子を取り出し、指で摘んで威風の口元に持っていく。
すると彼は口を開いた。菓子が彼の口の中に入る。がり、っと音を立ててそれを噛む。ぽりぽりと噛み砕く音が聞こえる。やがてごくりと彼の咽が鳴る。
「…なあ、どんな感じ?」
彼が食べ終わるのを見届けて問いかける。
「オレと菓子食うの、楽しい?」
威風はまた俯く。
「お前ハワイと比べるなよ?ハワイ行くより楽しいなんてオレも思ってないからさ」
楽しくない、と言われるのが怖くて浩人は慌てて付け足す。
「そこまでじゃなくてもさ…ちょっとは楽しいだろう?何にもしてないよりも、ここで菓子食ってるほうが楽しいだろ?」
何もしてないほうが楽しい、といわれては落ち込むな…と言ってしまってから考える。けどここまで付いてきてくれたのだ。さっきちょっと手を振り払われたりしてしまったけれど、それを除けば物凄くここまで良い感じだと思う。初めて言葉を交わしてからたった二日でここまで来れたのだから、大したものだとさえ思う。
けれど威風は何も言わない。
さっき教室で、友達になろうと言った時にうなずいてくれたような気がしたのは、やっぱり気のせいなのかなぁ…。
「威風、ハワイってどんなとこ?」
浩人は自分から話題を変えた。威風が今どんな気持ちなのか知りたかったけれども、ずっとお互い黙って座っているだけじゃ詰まらない。せっかくの時間がもったいない。
「オレ写真でしか見たことないし…やっぱ、海すげー綺麗なの?」
「青かった」
威風がポツリと独り言のように呟く。彼が喋ったことにほっとしつつ、次の質問を考える。やはり威風にとってハワイの思い出は特別なもののようで、彼の周りにある空気が和らいだような気がする。
「やっぱそうなんだ。写真とかで見てもすげー青いモンなあ。泳いだんだろ?やっぱ日本の海とは違うのか?」
すると威風は首を横に振る。
「泳いでない」
「泳いでない?ハワイまで行ったのに?」
驚いて思わず声が高くなってしまう。ハワイまで行って泳がないなんてことがあるんだろうか?浩人にとってはハワイに行くのと泳ぎに行くはほぼ同意味なのだと思っていた。
「何でだよ、風邪でもひいてたのか?」
威風はまた首を横に振る。
「じゃあハワイで何してたんだ?」
「買物」
「買物ぉ?」
ハワイまで行って買物?わざわざハワイまで行って?買物くらい日本でいくらでも出来るじゃないか。浩人には全く理解の出来ないことだった。
確かに日本にいたって海で泳ぐことはできるだろうけれども、日本の海で泳ぐこととハワイの海で泳ぐことは大きく異なることだと思っている。それに比べて日本で買物をするのとハワイで買物をすること、この二つに大きな違いがあるとは浩人には思えなかった。
「…ハワイで何買ったんだよ…」
「僕は何も買ってない。ママが服とか化粧とか色々買ってた」
さらりと威風が口にした『ママ』という単語に浩人は驚いた。小学六年生になって、同級生の前で堂々と『ママ』なんて呼んだら『マザコン』なんていわれてからかわれる格好のネタだ。威風は母親のことを『ママ』なんて呼ぶんだ、と浩人は何だか聞いてはいけないことを聞いてしまったような気になった。
「ほ、他には?買物以外にはなにしたんだ?」
「レストランで、ロブスターを食べた」
初めて聞く単語だ。そんな食べ物、全く想像がつかない。海のものか山のものか、野菜か果物か、もっと他の何かか。
「ろぶすたぁ?何だそれ。ハワイの豚?」
聞き返すと威風は眉間に皺を寄せて訝しげに浩人見た。黙ってじっとこちらを見ているだけだが、何を言い出すんだこいつは、と目が言っている。無知をバカにされているのかもしれないと思い、思わず頬が熱くなる。
「な、何だよ。悪かったなー知らなくて。ロブスタァって何だよ」
その語感から、てっきり豚か何かの一種なのかと思った。けれど威風の表情を見る限り、豚とは全く違うもののようだ。
「ザリガニだ」
威風の答えは、あらゆる浩人の空想を遥かに超えていた。
「ザリガニ?ザリガニってあれだよな、学校の裏庭の池でつれるあれだろ?赤くてはさみがある…あれ食うのか?」
「もっと大きい。種類も違う」
威風が静かに言う。冗談を言ったりからかったりするとは思えない。ハワイでは本当にザリガニを食べるようだ。
「あれよりもっとでかいザリガニ…?そんなの美味いのか?」
呆然と呟くと、威風の表情が突然硬直する。
さっきまで浩人の「ハワイの豚」に呆れた顔をしていた威風がいきなりそんな表情をみせて、浩人はどきりとする。自分は何かおかしいことを言っただろうか?心配しながらじっと威風の顔を見つめていた。
「もっと食べたかったんだ」
沈黙を破った威風の言葉に、浩人は驚く。
彼は呆然としていた。視線は浩人のほうを向いているが、彼の視界にはもっと遠くの何かが映っているようだった。
「けど、駄目だって言われた」
うつろな目で囁くと、視線がゆらりと揺れる。彼の右手が自分のシャツの裾をぎゅっと握り締めるのが見えた。
「だ…誰に」
「ママに」
「どうして」
「手が汚れる。汚いから、駄目だって…」
汚れる。その言葉に、浩人はさっき威風に手を振り払われたことを思い出す。あの時もズボンが汚れると言って嫌がられたのだ。
「で、どうしたんだよ」
「残りはパパが食べた」
パパ、という響きにも浩人は違和感がある。父を「パパ」と呼んだことは浩人には無いせいだけではないと思う。
「ママは怒ってた。そんな汚い食べ方って。パパも怒ってた。そんなことでいちいち文句を言うなって」
さっき学校でハワイのことを聞いたとき、威風は「楽しかった」と言った。けれどもこの話を聞く限り、浩人にはあまりそれが楽しい旅行だったとは思えない。海で泳ぎもしないで、ずっと母親の買物に付き合って、レストランで両親が喧嘩したということだろう。
親の喧嘩がどんなに嫌なものか、浩人は知っている。浩人は1回だけ両親が喧嘩するところを見たことがあるが、とても悲しくて嫌な気持ちになった。自分は一言も怒られていないのに涙が出てきて止まらなかった。
威風は浩人から顔を背けて、膝を抱えた。目を閉じて、じっと思い出に浸っているように見えた。
「美味かったんだな」
そう声をかけても、威風は何も言わない。瞼を瞑ったままで黙っている。聞こえているのか聞こえていないのかも分からない。
「ザリガニって美味いんだなあ…」
とてもそうは思えない。学校の裏庭に小さな人工の池があって、そこにザリガニが住んでいる。聞く話によると、何年か前に理科の授業で飼っていたザリガニを池に放したら繁殖したそうだ。増えすぎたから釣っても怒られないし、家にもって帰っても怒られない。けど、あれを食べるという話は聞いたことがない。
きっとハワイのザリガニは、特別なザリガニなのだろう。学校にいるザリガニとあのハワイの青い海とでは、仮に元は同じでも長い時を経れば全く違うものになってもおかしくないような気がする。
威風が「もっと食べたかった」という味は、どんな味なのだろう。
「ハワイ、三人で行ったのか?」
浩人はまた何も喋らなくなってしまった威風に話しかける。けれども威風は目を閉じたままだ。
「いいなあ」
浩人も威風の真似をするように目を閉じる。瞼の奥に父の面影が浮かぶ。羨ましいのは、ハワイに行ったということだけでなく、母と、父と、三人でどこか遠くへ行ったということ。浩人にとっては、家族旅行などもう何があったとしても叶うことない夢だ。
「オレもハワイでろぶすたぁ食ってみたいなあ」
父と母と、3人で。それって、一体どんな感じなんだろう?
考えれば考えるほどに、浩人は悲しくなってきた。
悲しくなるつもりなんて無かったのに。今日は威風と一緒にお菓子を食べて、話をして、楽しい気分になるばかりだと思っていた。
威風と話をしていて、こんな気分になるとは思っていなかった。
浩人は威風を見た。彼は自分の膝に額を当てて、相変わらず目を閉じてじっと黙っている。膝を抱え込む手には、力が篭っている。
「威風」
横顔を眺めているうちに、浩人はふと気がついた。
「お前、悲しいのか」
もしかして、膝を抱えて悲しさに耐えているのか。
楽しかったはずのハワイ旅行を思い出して、悲しくなっているのか。
威風の瞼が開く。浩人を見ることはない。ただ瞼を開いただけだ。彼の黒い瞳は、じっとどこか一点を見つめている。
浩人はそっと手を伸ばし威風の肩に触れた。
触れた瞬間、その肩がびくっと震えた。驚いたのか、それとも怯えているのか。
「威風」
痩せた細い肩だった。硬くてごつごつした骨が、シャツのすぐ下に剥き出してそこに在るようだった。
「威風…」
名前を呼ぶと、浩人の胸の中にあった悲しみが少しだけだが薄れた。
威風は一瞬だけ、本当に一秒にも満たない瞬間、顔をぐっと歪めた。その顔が、浩人には涙を堪える表情に見えた。
多分威風の中にある感情は、自分の持っているものと似ている。
この胸に渦巻く悲しみ。それは他の誰の悲しみよりも近いものだ。
浩人は何の根拠もなくただ直感だけでそれと察した。そう思った瞬間何だか彼が愛しくて、彼の肩から手を離すことが出来なかった。
そう。彼をこの上なく愛しいと感じたのだ。




