運命1
威風はコンビニで適当にパンを買い、ふらふらと家とは反対の方向に歩いた。
塾は終わったが、家に帰りたくないのだ。
家には母と祖母。
家の中では今何が起こっているのか。見たくないし知りたくないので家に向かう足が鈍ってしまう。
今日家を出てきた時のようにそっと家に入り込んで、誰にも気づかれずに自分の部屋に駆け込む。けれど、もしそれが成功したとしても次の日の朝は?
― 面倒なことに…。
威風は少し歩いたところにある公園に入った。家にも学校にも行く気になれないときはこの公園のベンチに座って本を読むこともあった。けれども公園というものは人目につきやすい場所らしく、ある日学校を自分で勝手に早退して本を読んでいたとき担任教師が連れ戻しにやってきた。そのあとヒステリックに怒鳴られて、心底うんざりした。
公園を見渡すと隅のベンチで男女が寄り添って座っていた。あとは、犬を連れた中年の女がいるくらい。威風は公園の出入り口から一番近い場所にあったブランコに腰掛けた。
先ほど買ってきたパンを袋から取り出し、一口齧り付く。口の中に甘ったるい香りが満ちた。これを食べ終わったらどうしよう。時間をつぶすのに本でも読んでみようか。けれども暗くて字があまり見えそうにはない。もういっそ、今晩はここで過ごしてしまいたい。
それほどまでに威風は家に帰りたくなかった。何かあの家の中で恐ろしいことが起こっていそうで、怖かった。こんな気分になったのは初めてかもしれない。家でどんなに母親が怒鳴り散らしたり食器を叩き割ったりしたのを見てもこんな気分にはならなかった。
いつもと何が違うんだ。
威風は自分の感情を読み取ろうとしたが、上手くいかなかった。パンをもう一口かじる。その時、じゃりっと公園の砂地を歩く音が近くで聞こえた。
「守山?」
名前を呼ばれて、反射的に顔を上げる。暗くて一瞬判別が付かなかったが、そこに立っているのがあのクラスメートだということには直ぐ気づいた。今日の昼に言葉を交わしたからすぐに名前も思い浮かんだ。瞳ばかりが大きくて妙に幼い印象を受けたクラスメート。高村浩人だ。
自分の机を移動させ、帰ろうとした自分の手を引いた、あいつだ。
「やっぱり守山だ。何してんの?」
顔に満面の笑顔を浮かべてこちらを見ている。面倒くさいヤツに見つかったと、威風は俯いた。
「塾の帰りとか?遅くまで勉強?」
何も聞こえていないかのように無視しても、彼は気にしていないようだった。それどころか、隣にあるブランコに腰掛けてきた。
「なー守山って塾でどんなこと勉強すんの?学校の授業よりもっと難しいんだろ?」
早くどこかへ行ってくれることを願いつつ、威風は無視を決め込んだ。
「無視すんなよー。寂しいだろ。何でここでパン食ってるんだよ。家に帰らないのか?」
ぎ、ぎ、とブランコが軋む。高村が揺らすせいだ。
「帰りたくないとか?何か家に帰りたくないこととかあんの?」
こちらが黙っているにも関わらず、高村はずっと質問を繰り返す。そのうち飽きて帰るだろうが、鬱陶しい。けれどもここを立って行く所も思いつかない。
もう直ぐ、パンも食べ終わってしまう。
「お母さんに怒られるーとか?けど守山って何やったら怒られんの?学校行かなくても宿題しなくても怒られないんだろ?」
無視し続けていてもそんなことにはいっこうに構わない様子で高村浩人は喋り続けた。こいつはこんなにおしゃべりな人間だっただろうか。クラスの人間のことなど殆ど覚えていないが、彼がこんなに喋るという印象もない。ついにパンを食べ終わってしまい、威風ぐしゃっとゴミを一つにまとめた。ゴミ箱に捨てようとブランコから立ち上がると、浩人も同じように立ち上がった。
「あー守山、どこ行くんだよ。ゴミ?」
ゴミ箱に向かって歩く後ろを付いてくる。歩いて程なくあるゴミ箱にコンビニの袋を放り投げた。
「なあなあ、守山ってパン好きなの?」
不意に浩人がそんなことを訪ねた。
威風は何故か自分でも良く分からないが、その質問にひどく驚いた。
無視を決め込んでいたことも忘れて、後ろに立っていた浩人を振り返る。
「オレ守山がパン以外食うの見たことない。お前給食もパンしか食わないじゃん」
彼は嬉しそうに笑いながら言った。
食べるものの好き嫌いなど考えたことがなかった。腹が減れば取りあえず気の向いた何を口に入れ、「空腹」という不快感を無くすだけだ。舌の上でいろいろな感触があるが、熱いも冷たいも、甘いも苦いも、身体に異常が無ければ威風にとってはどうでもいいことだった。
「なんでお前パンしか食わないのにそんなに背ぇ高いの?隠れて牛乳飲んだりしてんのか?」
「なんで」
自分でも意識しないうちに、威風の口から声が出ていた。
浩人の目が、大きく見開かれた。さっきまでにこにこと笑っていた表情が驚きに変わって固まる。
「人が何を食べるかまで見てるんだ」
さっきまであれだけべらべらと喋っていたくせに、浩人は言葉を忘れてしまったみたいに黙ってしまった。
「や…だって守山って変だから…何か気になって…」
急に表情が戸惑いがちになり、口調も途切れ途切れになった。
「変?僕が?」
そう聞き返すと、浩人の目がもう一度大きく見開かれた。
「…変?って…変だよ、お前。物凄く」
「どこが」
「どこ…って…学校毎日来ないし、平気で遅刻するし、宿題全然しないし、自分の席を勝手に変えるし…変なとこだらけだよ」
浩人のたどたどしい返答を聞いているうちに、何だか威風は急速に興味を失っていった。たった一言の質問に一瞬強くひきつけられたが、今の浩人の言葉には何も感じない。
もっと違うことが聞きたかったと思うのに、それが何だったのか分からない。
威風はそのまま浩人に背を向けた。
「あ、待てよ」
歩き始めると後ろをついてくる気配がしたが、どうでも良かった。それよりもこれからどうするのかが問題だ。このまま帰るか、それとも帰らないでいるか。帰らないとすると、どうしたらいいのか。
公園は暗い。寒くは無いから一晩くらい居ても平気だろうが、こんなに暗くては本も読めない。それに威風は昨夜シャワーを浴びていないことを思い出した。
多分、帰るしかないのだということは分かっている。
けれども帰りたくない。
「なあなあ守山、守山ってば!」
後ろで騒がしい。さっき少し静かになったのに、また煩くなってきた。どこまで付いてくるつもりだろう。
「何でお前パン好きなの?甘いものが好きなのか?」
さっき自分が妙に引っかかった質問と似たことを聞かれる。興味を失ったはずなのに、何故かまたその言葉かひっかかる。
「別に好きじゃない」
浩人に背中を向けたまま答えた。
「好きじゃない?なら何でいつもパン食ってんの?」
威風は立ち止まる。後ろに居た浩人が隣に並んでくる。何故だろう。自分のことながら不思議だ。一度興味を失ったはずなのに、また気になってしまう。さっきまでまた彼の言葉を殆ど聞いていなかったのに、その質問に関しては考えてしまう。
そういえば、自然と何かを食べる時はパンを選んでいたような気がする。けれどもそれは好きとか嫌いとかそういう理由ではなくて、もっと単純なそれ以前の問題での選択だったように思う。
「…片手で食べられるから」
いつの間にか考えていたことが口から出ていた。少しの沈黙の後、彼は笑った。
「片手で食べられるから?マジで?」
威風は隣に立つ小柄な少年の顔を見た。
訳は知らないが、彼は満足そうに笑っていた。びっくりするくらいに嬉しそうに、思わず見入ってしまうくらい無邪気に。
何だか見てはいけない物を見たような気がして、威風はすぐに視線をそらした。
「じゃあさ、じゃあさ、これやるよ」
浩人ががさがさと動く。威風は彼から顔を背けたままで立っていた。立ち去らず、かといって彼を見ることもなく、ただ突っ立っていた。不意に自分の右手をぎゅっとつかまれた。手のひらに何かを押し込められる。
「これなら、両手使わずに食えるぜぇ」
自分の手を包んでいた手が離れていく。手のひらに握らされた物を恐る恐る覗き込む。緑色の包装紙に包まれた、丸い飴玉だった。
手のひらの飴玉を覗き込み、威風はもう一度浩人を見た。浩人はにこにこと笑っている。笑いながら威風を見るだけで何も言わない。威風も何も言うことは無いので黙って浩人の顔を見ていた。
変なヤツだ。と思った。
さっき浩人が自分のことを変だと言ったが、威風からしてみれば浩人のほうがずっと変だった。
「な、守山。帰らないのか?」
浩人が笑いながら言う。歌うような軽やかな口調で。威風はずんっと胸の奥のほうが重くなるのを感じた。
「お前どこ住んでんの?一人で帰るのが怖いんだったら、オレ一緒に帰ってやるよ!」
それは飛び切り明るい声だった。威風が今まで聞いたことが無いくらいに輝いて、弾んだ声だった。同時に、飴を握らされた手をぎゅっとつかまれた。
不思議な心地だった。
握られた手は、ぞわぞわと違和感を訴えた。けれども振り払うような強い衝撃はない。心地よくはないが、悪くも決してなかった。
形容しがたい感覚がじわじわと腕を伝って肩へ、そして頭へと上って行く。
ぐっと手を引かれた。
彼に同じように手を引かれた今日の昼とは、似ているようで何かが全く違う。
威風は眩暈を感じた。
浩人は痺れを切らせたような感じで、一度飴を威風の手から取り、彼が肩から提げているかばんに無理矢理押し込んだ。
「なあ守山。どっち行くんだよ」
そして再び浩人に手を引かれ、公園を出る。威風は「右」とだけ答えた。浩人は「そうかあ右かぁ」等と言いながら威風の手を引いた。
歩く最中浩人は何かを喋っていたと思う。けれども威風の耳にはちっとも入ってこなかった。興味が無かったからというわけではない。興味があったわけでもないが、本当に何も聞こえなかった。さっきまでの無視しているのとは違う、何といって良いのかは分からないが別のことで頭がいっぱいで聞こえてこなかったのだ。
けれども不思議なことに、何で頭がいっぱいなのか自分ではちっとも分からないのだ。
ただ浩人に握られる手が熱かった。彼が気づいていたのかどうかは知らないが、いつの間にか威風の手のひらにはびっしょりと汗をかいてしまっていた。
公園から自分の家は目と鼻の先だ。威風は自分の家が視界に入った瞬間、どきりと心臓が鳴るのに驚いた。
足が自然と止まる。
手を引いて先を歩いていた浩人が振り返る。
「何?お前の家この辺りなの?」
明るい声が耳に響いた。
威風は浩人を見た。浩人は、威風を見ていた。浩人は笑っていた。威風は、黙って浩人を見ていた。浩人は少し不思議そうな顔をして威風を眺め、そしてまた一段と嬉しそうな笑顔になった。
「何だよ、マジで帰りたくないのか?」
彼はおかしそうに言った。声には笑いを含んでいたが、嫌なものではなかった。
その時だった。
がちゃりと玄関の空く音が微かに聞こえた。
「ふーちゃん?」
同時に、聞き覚えのある女性の声がする。浩人はぱっと弾かれるように声のしたほうに顔を向けた。威風はちらりと目線だけをそちらに動かした。白髪の彼女がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
「まあまあこんな時間までどこに行ってたの?朝は急に居なくなっちゃってるし、おばあちゃん心配してたんだから」
駆け寄るといってもその歩調はどこかゆったりとしたものだった。祖母は威風の傍までやってくると肩を抱いて彼の顔を覗き込んだ。
祖母の顔を威風はまともに見ることが出来なかった。黙り込んで俯き、彼女の洋服ばかりを眺めていた。
「あなた、ふーちゃんの友達?」
「へっ?」
まだ手を繋いだままの浩人は急に話題を振られ、素っ頓狂のような声を上げた。
「送ってくれたの?どうもありがとうね」
「あ、はい…そんなこと…無いデス」
照れくさいのか浩人も俯き、何故か威風の手をぎゅっと先ほどよりも強く握った。
「さ、ふーちゃんお腹すいてない?おばあちゃん夕飯作って待ってたのよ?」
お腹など別に空いていない。さっき食べたばかりだ。そう口にしようかと思った時、
「よかったじゃん守山!家帰って早く飯食えよ!」
手を繋いでいる彼が言った。
威風は浩人を見た。浩人は相変わらず笑っていて、表情に特別な変化は無いように見えた。そして何故かもう一度浩人は威風の手をぎゅっと握った。しかしそれだけではなく、握った威風の手を少し自分のほうに引き寄せてじっとそれを見つめた。
何をしているんだと威風が思っていると、浩人はにっと笑って威風の手を離した。
「じゃあなふーちゃん!明日ちゃんと学校来いよ!」
勢い良くそう言うと浩人はくるりと踵を返して走っていった。足取りは実に軽く、あっという間に見えなくなってしまった。
さっきまで浩人に握られていた手とは反対の手を祖母に握られる。
「ふーちゃん、いいお友達がいるのね」
祖母の顔を見ると、彼女もまた満面の笑顔だった。
別に友達じゃない。今日初めて口を利いたんだ。威風は口に出さず胸の中で返事をした。祖母の手は柔らかいが少し乾いてひんやりいる。浩人の手とは違った。あの手はもっと熱かった。
「おばあちゃんロールキャベツ作ったのよ。ふーちゃんみたいな若い人にお料理食べてもらうなんて久しぶりだから何作ったら良いのか分からなかったのよ」
そんなことを言いながら祖母は威風の手を引き、玄関を開けた。彼女の口ぶりは明るく弾むようだった。さっきの浩人の声とどこかが似ているような気がした。
室内からクリームの匂いがする。家の中からこんな匂いがするのは物凄く久しぶりだ。
「さきにお風呂入ってらっしゃい。おばあちゃん用意しておくから」
祖母の手が離れ、威風は靴を脱いで家の中に入った。
「…ママは…」
台所へ行こうとする祖母の背中に呟いた。
自分が居ない間この家で何が起こっていたのだろうか。ぱっと見た感じ、いつもと変った様子は無い。母が暴れたような形跡も無い。
祖母は振り返る。笑顔のままだった。
「ママは部屋でもう寝てるわよ」
短く答えるとそのまま台所へと歩いていった。口調も明るいものから変わらない。何が起こったのか威風には分からない。もしかして何も起こらなかった?
まさか。だってまず祖母は台所を使っている。勝手にこんなことをされてあの母が黙っているわけない。そこまで考えて、威風はバスルームへ向かった。
まあいいか。今何も起こっていないのだ。自分が居ない間になにが起こったとしても関係ない。自分なりに気持を落ち着かせる。
服を脱ぎ、浴室へ入った。威風はシャワーだけを簡単に浴びた。浴室を長く使うと母の機嫌が悪くなることが多いので、威風の入浴時間はいつも短い。
威風は着替えて廊下を歩き、ダイニングへと向かった。食事の準備を整えた祖母が、威風を見るとにこりと笑った。
「こんな料理久しぶりに作ってみたから上手く出来てるかしら?ふーちゃんの口に合うといんだけど」
テーブルの上にはそれぞれの皿に盛り付けられた料理。
微かな湯気がたち、ふわりとした香りが漂う。このテーブルの上に温かい料理が並ぶのも何年ぶりだろうか。
「おばあちゃん」
テーブルに近づくことが出来なかった。
「何?」
「こんなことしたら、ママが怒るよ」
威風の視線はテーブルの上に釘付けだった。
ガラスの器に緑と赤い野菜。白い皿に緑色のキャベツと白いクリームソース。淡い青の皿には琥珀色のコンソメスープ。蛍光灯に光る銀色のスプーンとフォーク。
それがまるで一枚の絵画のように威風の目には映った。彼の視界に祖母の姿は映っていなかったが、彼女がふと笑ったのが笑った。空気がそんなふうに揺れたのだ。
「ふーちゃんはそんな心配しないで」
空気がひらりひらりと動く。祖母が近づいてきたのだ。
「ふーちゃん随分とお風呂早かったのね。ちゃんと湯船に浸かった?」
「そんなことしたら、ママが怒るよ」
また空気が動く。祖母が笑ったようだ。けれども、さっきの笑いとは違う。
空気が違う。目には見えないけれど確かに肌で感じる。
「ママのママはおばあちゃんなんだから。ふーちゃんはそんなこと気にしなくて大丈夫なのよ。ゆっくりお風呂に浸かって、暖かいご飯お腹いっぱい食べたらそれでいいの」
祖母の手が威風の肩を掴んだ。ゆっくりとした力で威風を引き寄せ、テーブルへと近づける。椅子を引いてそこに座らせる。
威風はされるがままだった。
「冷めないうちに食べてみて?」
威風はじっと目の前の料理を眺めた。
祖母の視線を感じる。
料理の蒸気がふわりと額にかかった。威風は一度瞼を閉じて深呼吸をする。目の前にあるのは何も特別なものじゃない。ちょっと姿が変わった問題集のようなものだ。
瞼を開けて、まずはフォークを手に取った。一番大きな皿の上にある、白いクリームのかかった緑色の塊。ロールキャベツというものだ。祖母は昔食べたことがあるといったが、威風の記憶には存在しなかった。
適当な大きさに切り、口の中に運ぶ。舌の上でそれは実に複雑に感覚をもたらした。熱いような温いような、滑らかのようなざらざらとしたような、甘いような苦いような。一度噛んでみると、始め感じたよりも更に細かく複雑に分化していく。
噛み砕いた物を飲み込んで舌の上には存在しなくなっても、味がなくならなかった。微かにまだ口の中に何かが残っている。
「どう?美味しい?」
祖母の声。威風は疑問に思った。これは美味しいとかそうじゃないとか、そんなに単純に分けられるものなのだろうか?この複雑なものがたった二つの回答にまとまるものなのだろうか?
威風は黙って二口目を口にした。
一度目よりは、口の中のさまざまな感触が簡略化されたような気がした。
三口目、四口目、食べていくと味の印象がまとまってくる。けれども、いつもパンを食べている時とは全然違う。複雑だ。色々なものが入り混じって複雑に絡み合っていて、とても理解が出来ない。威風はそう感じた。
半分も食べ終わらないうちに手が止まる。とてもそれ以上食べる気になれなくて威風は椅子から立ち上がった。
「ふーちゃんもう食べないの?」
何も答えずに威風は祖母に背を向けた。
「お腹いっぱいなの?それともロールキャベツは嫌いだった?」
それはどちらも威風が席を立った理由ではなかった。確かにさっきもうパンを食べたが満腹というわけではない。味が好きとか嫌いとかというわけでもない。ただ理解できないと思っただけだ。けれども理由を説明する気も無くて威風はそのまま部屋を出た。
階段をゆっくりと上る。祖母が後を追ってくる気配は無い。威風は自分の部屋の前で一度振り返った。やはり、そこには誰も居ない。
そのまま扉を閉めて灯りもつけずにベッドにもぐりこんだ。毛布に頭から包まって丸くなる。いつもはそこでようやくほっとした心地になるはずなのに何故か今日はいつもほど安らいだ気持ちにならなかった。暗闇の中目を閉じる。目を閉じても開いても違いは無い。
ふと、威風は口の中にまだあのロールキャベツの香りが残っていることに気づいた。
気持ちがいつもより騒いだままなのはこのせいだろうか。
こんこん、と不意に扉がノックされた。この部屋に人が近づいてくる気配など全く気づかなかったので威風は布団の中で一層丸くなった。
「ふーちゃん…歯は磨いたの?」
扉の向こうで祖母の声。威風は答えなかった。きいっと扉がゆっくりと開く音がする。毛布の向こうが少し明るくなったようだった。ぱた、ぱた、とスリッパを履いた足音が近づいてくる。
そっと毛布の上から頭の辺りに触れられた。
「かばん、ここに置いておくわね。お休みなさい」
そういえば脱衣所に鞄を置いたままだった。威風は祖母が出て行くのを待って、毛布から顔を出す。
ベッドの足元に置かれた鞄を見たとき、威風はお節介なクラスメイトの顔を思い出した。そして彼が勝手に鞄の中に入れた飴のことも。
暗がりの中、鞄の中を探る。指先にかさりとそれらしきものがあたり、拾い上げる。包みを剥ぎ、小さな球体を口の中に放り込んだ。
また毛布を頭からかぶって丸くなる。舌の上で転がしていると、甘い味が溶けて口中に広がっていく。じわじわと咽まで甘さが行き渡り、どんどん小さくなっていく。転がすのを止めても飴は小さくなるのをやめない。
やがて威風の口の中には何もなくなってしまった。
暫くは甘さの余韻が残っていたが、意外なくらいにあっさりとそれは消えてしまった。そうすると、その前に食べたロールキャベツの香りも消えてしまった。何もかも跡形も無く。思い出そうとしても、あの複雑で理解しがたい味は欠片も浮かんでこない。
威風はその時はっきり「寂しい」と感じた。