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ずっと一緒  作者: カサイ マキ
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13/15

魔法1

 「ただいま」

 家の玄関を開けると、リビングから灯りが差していた。恐らく母と祖母がキッチンでなにか作っているんだろう。甘い匂いが玄関先まで満ちている。最近二人はよく菓子のようなものを作っている。そして出来上がった物を塾へ行く前に持たされたり、塾から返ってきた時夕食のデザートに出されたりする。

 「ふーちゃんお帰り。ちょっとこっちに来てちょうだい」

 祖母の声がする。威風は呼ばれるままリビングへ向かった。中に入ると、甘い香りがよりいっそう濃くなる。こんがりとした香ばしい匂いもするので、焼き菓子の類を作っているようだ。

 キッチンには祖母が一人で立っている。

 「雨、まだたくさん降ってる?ふーちゃん濡れなかった?」

 カウンターキッチンの向こうで微笑む祖母。周りを見渡しても母の姿は無い。

 「ママなら、今牛乳を買いに行ってるところよ。さっき買物に行ったのに買い忘れちゃってね」

 威風の心を見抜いたように祖母が言う。威風は驚いて祖母の顔を凝視した。

 「買物?」

 母親がこの雨の中を?

 雨の日はいつも以上に機嫌が悪く、部屋から一歩も外に出なかった。食料を買うために外に出ることはあったが、それは深夜と決まっていた。

 「ママもね、いろんなこと練習してるの。ふーちゃんが自転車に乗る練習してるみたいに、頑張ってるのよ」

 母の行動を驚く気持ちと同時に、どうせ無駄だという冷めた気持ちも沸きあがってくる。あの女がたった雨の昼間外へ出かけたくらいで変わったりするものか。きっと帰って来たら雨に濡れただの汚れただのヒステリックに喚きたてるに決まっている。

 そんな母の姿を見るのはごめんだった。さっさと塾へ行こう。

 ついさっきまで浩人と二人だけで抱き合って、キスもして、威風の気持ちは満たされて幸福だった。けれど金切り声を上げて暴れる母の姿を思い出すと頭から冷水を浴びせられたような気分になった。

 逃げるように祖母から背を向けてリビングを去ろうとした。

 「ふーちゃん!」

 祖母が、いつになく強い口調で威風を呼び止めた。威風は思わず足を止め、振り返る。

 「ママは練習中なの。…分かってね」

 彼女は困ったように笑った。

 分かってねって…。何を分かれというのだ。練習中なら、叫んで暴れても仕方がないとでも言うのか。威風は久しぶりに明確な怒りという感情を覚えた。

 そんな理不尽なことがあってたまるか。

 威風は沸き起こる感情を隠さず視線に込めて祖母を睨んだ。

 「ママはふーちゃんのためにもがんばってるの。このままじゃいけないって、ママも分かってるのよ」

 祖母の言葉の意味を威風は図りかねた。母が暴れても我慢しろと言っているわけではないらしいということは分かったが、それなら始めに何を分かれと言っていたのかが分からなくなる。

 混乱しそうになり、威風はそのまま何も言わずリビングを出た。

 階段を上って自分の部屋に行き、いつも塾に持って行く鞄を手に取る。ふと部屋にかけている時計を見ると、塾が始まる時間をとうに過ぎていた。

 今日は名残惜しくて、浩人の家に長居してしまった。浩人と抱き合うと本当に気持ちがいい。身体のいろんな所で浩人に触れると、その感触や温もりが全身にしみこんできて頭がぼんやりとしてしまう。身体の芯まで暖かくなって満たされた幸福な気分になる。そして浩人の腕が自分の身体に回って、背中を撫でてくれたり頬を摺り寄せて来てくれたりすると、もう幸福で泣きそうな気分になるのだ。

 こんなにも胸が騒ぐのは初めてだ。今まで怒りや苛立ちに身体が震えた記憶はあるが、幸福で胸が震えたのなんて初めてだと思う。思い出すだけで心臓がどくどくと大きく鳴り、何だか顔まで熱くなってくる。自分ひとりで居るだけなのに妙に照れくさい。だいたい、照れくさいなんてことはここ数年感じたことは無かった。本当に最近いろいろな感情が沸き起こってくる。嬉しいとか楽しいとか、寂しいとか恥ずかしいとか、それからもっと言葉には表しきれないような細やかで些細で複雑な感情。

 威風は部屋でぼうっと立ち尽くしている自分に気づき、はっとする。今から行くと、二コマ目の授業には間に合うだろう。

 威風は鞄を抱えて部屋を出た。階段を降りるとまた一段と甘い匂いが濃くなっていた。最近はそれらを美味しいと自然に思えるようになった。一つ食べて、もう一つと手が伸びる。毎日用意される暖かい食事も、空腹を紛らわす以上に精神も満たしてくれる。コンビニのパンよりずっと美味しい。比べ物にならない。美味しいというものは、舌で感じる味よりも、精神的に深く作用するものだと分かった。

 そしてまた浩人に食べさせてもらう時とは全然違う。浩人に食べさせてもらえれば、それがなんであろうと特別に美味しい。

 また頭の中でひとり浩人のことを考えていると不意に、がちゃ、っと玄関先で扉が開く音がする。

 音のしたほうに反射的に目を向けると、母が中に入ってくるところだった。

 長い髪は綺麗に整えられ、うっすら化粧もしている。そのせいかいつも青白い顔色が、今日はいくらか血色よく見える。以前に比べればずっと綺麗な格好をしている。ただ、表情は少し強張っていた。最近威風が良く見る母の顔は、祖母のとなりで無防備に弛緩した子どものような表情ばかりだった。彼女の今の表情は、不機嫌になる直前のような顔だった。

威風は思わず俯いた。母の履いている黒いショートブーツのつま先が濡れているのが目に入った。

 「ただいま」

 母が独り言を呟くように小さな声で言った。

 威風は動揺した。

 これは自分に対して言っているのだろうか。それとも奥に居る祖母に対してだろうか。

 このところ、母と二人だけになったことはない。いつも祖母が傍にいる状態でしか顔をあわせていない。

 おかえり、くらい簡単に言ってしまえばいいのに、威風の咽の奥は奇妙に張り付いたようになってしまって声が出せなかった。

 ― ママは今、練習中なの…

 祖母の言葉が脳裏に蘇る。母は練習中かもしれない。けれど威風はまだ、練習を始めてすらいない。

 威風は黙ったまま前に進み、玄関に下りた。

 靴をすばやく履き、母の隣をすり抜ける。

 傘を掴むと扉を力任せに開け、外に飛び出す。小走りでバス停に向かった。

 心臓がどくどくと脈打っている。

 さっき浩人と抱き合った時とは全然違う胸の高鳴りだ。

 ― 怖かった

 威風は素直にそう思った。怖かった。母が怖かったのだ。いつもより小奇麗な身なりをして、顔色も悪くなかったが怖かった。母と二人だけの状況というのが何だかたまらなく怖かった。

 今までは別に怖いとは感じなかった。つい一月前までは家の中でずっと二人だけだったが怖くなかった。叫んで暴れるのが苦痛だったが、怖くは無かった。鬱陶しい、嫌な存在だとは思っていたが、恐怖は感じなかった。

 けれどさっき、正面から母に見られたとき咄嗟に目を逸らして俯いてしまった。

 何故だろう。どうして今更こんなに恐怖を覚えるのだろう。母のことは嫌いだ。あんな女大嫌いだ。それは変わらない。だけど今は嫌悪よりも恐怖が先行している。

 威風は首を振って考えるのを止めようとする。こんなことを考えるな。母のことを考える暇が在ったら浩人のことを考えればいいんだ。そのほうがずっと楽しくて嬉しくて幸福な気分になれる。わざわざ嫌な気分になるために母のことを考える必要なんてない。

 そういえば、傘を持つ自分の手を握ってくれたのはついさっきだった。抱き合ってキスしたのは、もっとついさっきのことだ。

 不快な感情が一気に洗い流される。そうだ。さっきまでこの手で浩人に触れて、浩人に触れられていたのだ。

 今日は雨の日だから、特別な日だったのだ。

 次の雨はいつだろうか。明日も雨が降るだろうか。次の雨の日も、浩人は優しく触れてくれるだろうか。

 どこかうっとりとしながら歩きバス停に着くと、丁度良いタイミングでバスが来た。

 それに乗り込み、威風は塾へ向かった。




 塾の授業が終わると、威風はすぐに教室を出た。ほかに何もすることが無いということもあったが、家に帰ることがそこまで苦痛ではなくなったこともある。以前なら、講師から帰るように言われるまで教室に残っていることもあった。不思議だ、と威風は電車を待ちながら思った。自分がこんなことを考えるようになるなんて、家に帰りたいと思うようになるなんて。

 けれど頭の中に、ふと母の顔が浮かぶ。今日家を出る直前に見た母の顔。

 なんとなく嫌な予感がするが、家に帰れば暖かい食事と用意された浴室と。母と祖母が待っている。眠って目が覚めれば朝が来る。そうしたらまた浩人に会える。そう考えると、嫌な考えは自然と薄れていった

 しかし、そこで威風ははたと肝心なことに気がつく。

そういえば明日は土曜日だった。気分が急に暗くなる。

学校が休みだということに落胆するようになるなんて、本当に信じられない。

 家に帰りたい、学校へ行きたい。そんなことを自分が考えるようになるなんて。

 威風は電車に乗り、家路を辿る。道すがら、明日はどうやって浩人に会おうかと考えていた。今までの週末、自分はいったいどんな風に過ごしていただろう。

 たしか先週は浩人に誘われたのだ。土曜日は午前中塾がある。それが終わったら公園に来てくれと言われた。土曜日はいつもより長く浩人と一緒に居られて楽しかった。しかし今日は何も言われていない。それはきっと先週と同じだから何も言わなかったのだろうと解釈した。

 明日もやはり同じように午前中だけ塾がある。それが終わったらあの公園を覗いてみよう。多分、浩人は待ってくれているんじゃないかと思う。

 もしそうじゃなかったらどうしようか。

 もし浩人が公園で待っていなかったら、どうやって浩人に会えばいいんだろう。

 約束なんてしていない。今日が金曜日だなんてすっかり忘れていたから、明日になりさえすればまた学校で会えると思っていた。

 浩人が公園で待ってくれていなかったら、彼の家を訪ねてみる?しかし急に家を訪ねては迷惑だろうか。こういうときは電話の一つでもするべきなのだろうか。

 今までこんなことをしたことが無いからどうするのが一番いいのか良く分からない。

 そんなことばかりを考えている内に電車はいつもの駅に着く。威風は迷うことなく客待ちのタクシーに乗り込む。

 取りあえず明日公園に行ってみよう。そしてそこに浩人が居なかったらその時考えよう。

 多分浩人は待ってくれていると思う。きっと彼も、明日の約束をしていないことに気づいているはずだ。そして浩人もきっと、自分に会いたいと思っているはずだ。

 威風は殆ど確信していた。

 タクシーは見慣れた道を走り、程なくして威風の家の前に到着する。威風は料金を支払って車からおり、真っ直ぐ玄関に向かって歩いた。ようやく着いた、と思いながら扉のノブに手をかけた。

 その時、扉の向こうから声が聞こえたような気がした。嫌な予感に、威風は全身を硬直させる。母の声のような気がしたのだ。嫌な記憶が蘇る。

 暫く扉の前で動けないでいたが、それ以上物音は聞こえなかった。

 威風は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 ― 気のせいか…

 自分に言い聞かせるようにそう思い、ゆっくりと慎重にドアのノブを回す。極力物音を立てないように扉を開いた。

 家の中は静かだった。母の声も祖母の声も無い。いつものように食事を用意する音も出迎えに出てきてくれる足音もしない。しん、と静まり返っている。嫌な静けさだった。

 ぱたん、と威風が後ろ手で閉めた扉が音を立てた。それが家の家の隅々にまで響き渡るような気がした。

 不意にリビングのほうから人の声が聞こえた。何を言ったのかまでは聞こえなかったが、恐らく祖母で間違いない。

 「何よ!やっぱり私の話なんて全然聞いてないんじゃない!」

 その甲高い絶叫に、威風はぞわっと全身が総毛立つのを感じた。

 それと同時に、がしゃんっと大きな陶器が割れる音がした。食器が床に落ちたのだろう。

 「皆そう!母さんも!威風も!父さんも!貴雄さんや兄さんだって皆私のことなんてどうだっていいんでしょう!知ってるのよ私!気づいてるんだから!皆で私のことバカにして!」

 がしゃんがしゃんと続けて音がする。今度の音は落ちたというよりは叩きつけたというほうが近いのだろう。

 威風は手のひらと背中に冷たい汗をかいていた。ここ暫くはこんなことが無かったから忘れていた。母のあの声がどんなものか忘れかけていた。記憶には確かにあって、何度も思い出したはずだけれど、実際に聞くのとは全然違う。聞いているだけで息が苦しくなる。

 母の声は、すでに意味を成さない絶叫になっている。きゃーとかきーとかわーとか。動物みたいな叫び声を揚げている。

 「亜由美!やめて!」

 がたん、ばりん、とけたたましい音が続く。その合間に祖母の泣きそうな声が聞こえ、威風は一気に息が苦しくなった。

 膝が震えてくる。

 もし母が、祖母に向かって皿やコップを投げつけていたらどうしよう。威風に対してはそんなことをしたことが無いけれど、祖母の声はどうしようもないほどに切羽詰っている。

 「ああああー!どうせ皆私のことが嫌いなんだ!わああああ!」

 「亜由美!落ち着いて頂戴!亜由美!」

 威風はごくりと息を呑み、そっと靴を脱いだ。それだけのことなのに、はあ、はあ、と息が上がる。全力疾走した後みたいに、息を吸っても吸っても酸素が足りない。足に力が入らなくて、真っ直ぐ歩くことも難しかった。

 ぶるぶると震える腕でそっとリビングの扉を開ける。逃げたかった。けれどもし祖母が傷つけられでもしていたら、何とかしなければいけない。そうできるのは自分しかいない。

 視界に飛び込んできたのは髪を振り乱して金切り声を上げながら泣き叫ぶ母だった。

 目からぼろぼろと涙を流している。かっと見開いた瞳は不気味なほどに虚ろだった。大きく口を開き咽の奥から絶えず声を出してた。

 威風は全身が冷えていくのを感じた。

 怖い。

 母の姿を見た威風はそうとしか思えなかった。

 「ふーちゃん!」

 祖母に名前を呼ばれ、威風はびくっと全身を震わせた。

 「心配要らないから、ね?ママもおばあちゃんも大丈夫よ」

 祖母は、暴れる母の身体を後ろから押さえつけようとしている。けれど若くて背も高い母のほうが力が強いようで、祖母の手を振り払い、テーブルの上に在る物をつぎつぎと床に叩きつけていく。

 「亜由美!止めなさい!止めなさい!」

 嫌だ。

 ここには居たくない。

 嫌だ。とても、怖い。

 怖い。

 もうそれ以上、その場に居ることが威風には出来なかった。

 威風は走った。一刻も早く、この場を離れたかった。とても恐ろしくて、身体が冷え切ってしまっている。身体が震えて、歯の根が合わない。がたがたと震えながら走った。この場を去るために。一秒でも早く、この場を去るために。

 靴を履く間も惜しく、そのまま転げ落ちるように玄関から飛び出す。足元がよろめき、地面を這うようになりながらも必死に逃れた。1ミリでも遠くに行きたかった。

 目から、いつの間にか気づかないうちに涙が零れ落ちてしまう。

 ― 浩人…

 必死に一人の名前を頭の中で呼ぶ。

 もう頭の中には彼のことしか浮かばない。浩人、浩人、浩人、浩人。それだけが今の威風の全てだった。

 昏い夜道を一人、痩せた身体全ての力を振り絞って走る。怖い、恐い、嫌だ、見たくない、知りたくない、聞きたくない、触れたくない。底知れない恐怖が、触れるほどすぐ傍で追って来ている。少しでも走る力を緩めたらこの足を絡め取られて食われてしまう。

 飲み込まれて食いちぎられて、きっと跡形も残らない。

 誰も、その残骸を見つけてくれない。優しい祖母も、大好きな浩人も。

 怖い怖い怖い。未知の恐怖が、ひたすら威風を駆り立てた。

 浩人の許へと。

 はあ、はあ、と息も覚束ない頃に、ようやく浩人の家が見えた。彼が住む家。雨の日に二人で抱き合ってキスをしたあの部屋。

 それを見た瞬間、威風は少しだけ冷静になれた。

 全身を使って呼吸をする。空気を吸って吐くだけでこんなにも胸が苦しくて痛い。真っ直ぐ立っていられなくて、両手を膝の上において背中を曲げる。口を閉じることも出来ず、大きな呼吸を繰り返すと、溢れた唾液がぱたりと道路に落ちた。

 瞳に涙が滲み、ぐぐっと見開いてアスファルトの道路を睨む。

 後もう少しで浩人の家。もう少しで浩人の住む浩人の家。脳裏にその光景が浮かぶ。狭くて、ちょっと薄暗い玄関。入ったすぐそこにトイレと、バスルームがある。右に曲がるキッチンがあって、四人がけのダイニングテーブルがある。そこに腰掛けて、浩人はいつも牛乳を出してくれた。背が高くなる、骨が丈夫になるとかいいながら、浩人はいつも牛乳を飲むのだ。

 キッチンの隣にはリビングがある。小さなテレビと、箪笥が置いてあり、その隣の部屋には浩人の小さな勉強机を置いただけの部屋がある。そこには窓があって、雨の音が良く聞こえてきていた。その部屋でキスをした。抱き合って、触れ合って、お互いの存在を確かめ合った。隙間が無いくらいにぴったりと身体を寄せて、互いの温もりを感じた。

 その記憶がまざまざと蘇る。じっとりと湿った空気の感触と、しとしとと降り続く雨の音とともに蘇る。

 そしてそれと同時に威風は立ち尽くす。

 今日は雨も降っていないし、おまけに真夜中だ。少し呼吸が落ち着いてきた威風は姿勢を直しゆっくりと浩人の住むアパートを眺めた。古ぼけた3階建てのアパート。彼の部屋には灯りが付いている。浩人はまだ起きているのか。それとも彼の母親が起きているのか。

 浩人に会いたくて、ただ、彼に会えば何とかなるような気がして…。いや、そうじゃあない。そんなことまで考えてはいなかった。どうなるとかこうなるとかそれ以前のことだ。

 恐ろしくて怖くて…そして悲しくて。どうにかなってしまいそうでただ浩人を求めた。反射的に、彼の存在しか頭に浮かばなかった。

 靴も履いていない足の裏がじくじくと傷む。

 ― 浩人に会いたい…

 会いたい。どうしても会いたい。今すぐ会いたい。

 威風はふらふらと、数歩あのアパートに近づいた。

 脳裏に泣き叫ぶ母の激しくも虚ろな瞳と、振り乱した髪の数束が白い頬に張り付く姿が思い出された。

 ぞくりと背筋が震える。

 くらりと眩暈がする。

 怖い。恐ろしい。

 涙が、堪え切れなくてじわりと目尻から溢れて頬を流れ落ちてしまう。

 「う…」

 浩人。優しく抱きしめて、暖かく慰めてくれるあの腕。彼しか居ない。彼しかこの悲しみを癒してくれる人は居ない。

 目の前に、浩人の家に上る階段がある。この階段を上れば、浩人の家の玄関までほんの少しだ。けれど遠い。これを上って彼に会いに行くことが、どんなに非常識で迷惑なことか威風にも想像がつく。

 威風にとっては、取り乱す母と同じくらい、浩人に疎まれることが恐ろしいのだろ言うことに今気づく。

 階段を前に立ち尽くし、威風は浩人の家を見上げた。

 彼は何をしているんだろう?もうそろそろ寝る頃だろうか?少しは…自分のことを思い出したりしてくれているんだろうか?

 ― 浩人、浩人

 威風は声には出さず、何度も浩人を呼んだ。

 会いたい。今すぐ、どうしても会いたい。

 けれどどうやったら会える?こんなにもこんなにも会いたいのに、どうすればいいのか分からない。この階段を上って行って、あの玄関を開けば会える。

 けど、きっとそれじゃダメなんだ。多分それじゃあ、ダメなんだ…。

 威風は頭を抱えた。

 曇っているのか、今日は月も見えない。いっそ雨が降ってくれたら。ああでも、いくら雨が降っても今は夜だからダメだ。ダメなんだ…。

 ― 浩人が…

 浩人が、迎えに来てくれないだろうか。あの扉を開いて、ここまで来て、自分の手を引いてくれないだろうか。

 ― 浩人、浩人!

 涙が次から次へと溢れてきて止まらない。両手で目を押さえ必死に涙を止めようとする。

 会いたい。どうしても会いたい。他の誰でもない。浩人だけだ。浩人しかない。浩人だけが全てなのだ。

 叫びたくなるのを必死に堪えて、威風は全身の力を込めて拳を握った。

 ― 浩人!

 深く念じるように、胸の奥に世界でただ一人の名前を呼ぶ。

 その時、ふと物音がした。

 気づいた威風は、ゆっくりと顔を上げる。

 アパートの二階。くすんだベージュの扉がゆっくりと、軋んだ音を立てて開くのが見えた。

 ギィーっと、映画で地獄の扉か何かが開くような重苦しい音。

 夜風が威風の前髪を揺らす。

 闇夜に、奇跡が一つ起こったのを見届けた。

 扉から姿を現したのは、浩人だった。彼が、玄関から一人出てきたのだ。

 「浩人…!」

 威風は始めて、声を出して彼を呼んだ。

 浩人は驚いた様子で、きょろきょろと辺りを見回し、すぐに威風を見つけた。視線と視線がぶつかりあい、暗い闇夜、視界に互いの姿を見出す。

 「威風?」

 重苦しい真夜中に、浩人の声が響く。彼の声はいつ聞いても心地良い。軽やかで、澄んでいて、威風の心を惹きつける。浩人は慌てた様子で身体を翻し、階段を駆け下りてくる。とんとんとん、と軽快に足音が鳴り、彼の姿が暗い階段に現れた。浩人は大きく目を見開き、驚きを隠さない。水色のパジャマを着て、スリッパのような物を履いていた。

 そして威風のすぐ間近まで迫ってくる。威風は一歩も動いていないのに。

 威風はただ呆然と浩人の姿を見ていた。

 「な、何?塾終わったのか?こんな時間にここで何してんだよ?寄り道?寄り道にしても遅すぎだぞ~ヤバイだろ」

 浩人の声は、威風の耳に届いているようで届いていなかった。威風はただ浩人がここに居るという事実を受け止めるだけで精一杯だった。

 「…魔法だ」

 自分でも訳が分からないまま、威風はそんなことを呟いていた。

 「へ?」

 浩人はちょっと滑稽な顔で聞き返してくる。

 「魔法が使えるんだ…」

 呆然と威風は繰り返す。

 「え?何?魔法?威風が?」

 「浩人に会いたいと思った…。ここに来てくれなかって…凄く、凄くそう思ったんだ…」

 強く念じた。どうしても会いたい。今会いたい。浩人に会いたい。そう、涙が出るほどに強く強く願った。

 そうしたら、本当に浩人が現れたのだ。

 これが魔法じゃなかったらなんだ?ただの偶然か?

 威風は思わず目の前の浩人に抱きついた。細くて長い両腕で、浩人の身体を引き寄せて、全力で抱きしめる。

 「いっ…威風…?」

 驚いたのか、浩人の声が上ずっている。

 「会いたかった…」

 浩人の頬に自分の頬を摺り寄せながら囁く。

 「どうしても、今、会いたかった」

 身じろぎしていた浩人の身体がぴたりと動きを止める。

 「会いたかったんだ…」

 安堵のため息とともに繰り返す。

 浩人もまた、威風の耳元で深く息を吐き出した。そして、その両手をそっと威風の背中に回す。

 「会いたかった?」

 その声色は泣きたくなるほどに優しかった。

 「オレに会いたかった?」

 威風は何も言わず頷く。涙を止めることが出来ず、ぼろぼろと零しながら目を閉じた。

 「今すぐどうしてもオレに会いたかった?」

 うんうん、と何度も頷く。ぎゅっと浩人に抱きつくと、同じくらいに強い力で抱き返してくれる。

 「威風、大好き。世界で一番好き。誰よりも特別に好き」

 ゆっくりと彼の小さな手が頭を撫でてくる。心地よくて嬉しくて、威風は思わず嗚咽を漏らした。僕もそうだ、と言いたかった。それ以上だ、と伝えたかった。けれども、声にならない。言葉にならない。

 「凄いな、威風。魔法が使えるんだ。威風は魔法使いだ」

 ふっと浩人の手が緩む。威風も浩人に抱きつく腕を緩め、お互いの息が触れ合うほどの距離で見詰め合った。

 「オレも、威風に会いたいと思ってたんだ」

 そう、浩人は囁いていたずらっぽく笑う。微笑む。目元が、とても優しく緩む。

 「部屋に行こう、威風。今日、母さん夜勤なんだ」

 浩人の手が、威風を引き寄せる。そう望んだように威風を導き彼の部屋へと連れて行く。

 握られるその手が、みっともないくらいに震えていることに威風は気づいていた。扉を開けて、部屋に招き入れられる。扉がばたんと閉まると同時に、浩人は優しく鼻先にキスをくれた。

 「うっ…あ…」

 威風はじっと、浩人を見つめた。彼はちょっと照れたように笑った。その瞬間堪え切れていなかった涙が、一層堰を切ったように溢れだす。

 「威風…」

 「あ、ああ。ああ…」

 浩人が困ったように眉を寄せ、そっと頬に触れてきた。

 「うう…あ、ああ、ああ、ああ…」

 悲しくて悲しくて、とても耐えられない。浩人の手が、暖かくて、柔らかくて、愛しくて、隠し事が何一つ出来なくなってしまう。

 「浩人、浩人、ひろと…」

 「威風」

 浩人の身体に縋りつき、威風は誰に憚ることなくただ泣いた。とても怖くて悲しくて辛かった。もうずっと、そうだった。

 寂しくて、苦しかった。

 浩人は何も言わず威風を抱きしめてくれていた。みっともなく声を上げて泣く威風に何も言わず、飽きることなく抱きしめて、背中を撫で続けてくれていた。

 「威風」

 優しく名前を呼ばれる。それだけ。たったそれだけのことで、威風は自分の心の中が確実に満たされていくのを感じていた。

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