やがて1
「まあ!ふーちゃんその格好どうしたの?」
帰ってきた威風の姿を見るなり、玄関先で祖母が大きな声を上げた。両手を口にあて、目を真ん丸く開いて上から下までじっくりと眺めてくる。その視線が居心地悪くて威風は思わず俯いた。
すると制服の半ズボンから出た自分の膝から血が滲んでいることに気づいた。公園の水道で洗い流したはずなのに、完全には止まっていなかったようだ。
「どこかでこけたの?あらあら、こんなところもすりむいて…ちょっとそこで待ってなさい」
祖母がぱたぱたとスリッパを鳴らして家の中に入っていく。暫くして小走りで戻ってきた祖母の手には救急箱が握られていた。
「ズボンも砂だらけね。もしかして喧嘩でもしたの?」
咎めるような口調ではない。むしろ、何か面白がっているようだ。砂ならもう充分払い落としたと思っていたのに、祖母はまた軽くズボンやシャツを叩く。
威風は黙って首を横に振る。
「じゃあ鬼ごっこでもして遊んでたの?」
それも違うので首を横に振る。
「傷口、ちゃんと洗ってるわね。沁みるけど、我慢するのよ」
そう言いながら祖母は救急箱から消毒液を取り出して、シュっと威風の傷に吹きかけた。じわっとなんとも言えない痛みが走り、威風は身じろいだ。
「どうしてこんなに怪我したの?おばあちゃんに教えてもらえないかしら」
膝と、腕と、手のひらに作った擦り傷に一通り消毒を終えると、祖母がにこにこと笑いながら威風の顔を覗き込んできた。
「…自転車」
「自転車?自転車に乗る練習したの?」
こくりと頷くと、祖母はひどく驚いた顔をした。さっき、帰ってきたばかりの威風の姿を見たときよりも驚いた顔だ。
「お友達と?」
「…浩人と」
祖母はちょっとせわしない感じで瞬きを繰り返しながら、威風をじっと見つめた。そしてまた、満面の笑みを作る。
「そう…乗れるようになった?」
威風はまた首を横に振る。とてもじゃないが、全然乗れるようにはなっていない。果たして本当に乗れるようになるのか甚だ疑問だ。街中で誰も彼もが何でも無さそうに乗っているから、特別苦労することじゃないと思っていたのに、威風は自転車のサドルに跨ってペダルをこぐことすらできなかった。
「最初のうちはちょっと大変かもね。ふーちゃん、自転車乗ってみたくなったの?」
今まで一度だって自転車に乗れるようになりたいと思ったことは無かった。けれど今日、何気なく浩人に言われたのだ。
― 今度の土曜日、自転車に乗ってちょっと遠くへ行こう
威風が無理だというと、何で、と聞き返された。自転車に乗ったことが無い、というと、浩人は大声で「えー!」と叫んだ。そして信じられない、という目で見てきた。
「今まで一度も?」
頷くと、嘘だろ…?とかなり呆れた感じで呟かれた。
「じゃあお前今までどこ行くにも歩き?」
喋っているのは、学校の昼休憩中、例のザリガニがいるという裏庭の池の傍だった。昼には給食の残りのパンを持ってきて、二人で適当な場所に座って食べながら話すのが日常になりつつあった。この場所は日当たりが悪く、池からもちょっとした生臭い悪臭がするしいつもじめじめしていて人が来ることが殆ど無い。そこが気に入っている。いつも浩人と二人だけでいろんなことをしゃべることが出来る。
「お前塾行くとき駅使うんだろ?駅まで毎日バス?」
「タクシーも使う」
「タクシー?」
また浩人が大声になる。ただでさえ声が大きいと思うのに、最近はよく大声を出すのだ。
「すげー…お前の家めちゃめちゃ金持ちだな…。オレタクシー使うのなんて年に一回くらいだぞ?」
威風からしてみればそちらのほうが良く分からない。ということは、威風がバスやタクシーを利用する時、浩人は自転車を使っているということか。
「すげー。金持ちだと自転車乗らなくても生きていけるんだな。なんか勉強になったよ」
少し興奮したように浩人はばくばくとパンの残りを口いっぱいに放り込んだ。最近威風は給食も全部食べるようになった。あれを早く食べれば、それだけ休憩時間が長くなることが分かったからだ。
「でもさあ、自転車乗れると結構便利だぜ?歩くより早いし、金全然かからねぇし。それに小回り利くし、バスだと限りがあるけど自転車なら行きたいトコ行けるし…」
浩人は熱心に自転車の利便性を説いた。けれどその説明にはあまり惹かれるものが無い。
「バスが通ってないところなら、一緒にタクシーで行けばいい」
すると浩人は目を見開いた。
「馬鹿だな!そう気安くタクシータクシー言うなよ。オレは貧乏なの。タクシー乗る金なんか無いよ」
「僕が出す」
「ダメダメダメ。駄菓子屋のチョコとかキャンディーとは桁が違うんだから」
浩人は右手をぶんぶんと振って威風の提案を却下した。
「何で」
「何でって…ダメなものはダメ。そんなこと出来ないよ」
ちょっと遠くへ行こうと言い出したのは浩人だ。それなのにどうしてここまで嫌がるのだろう。威風には理解できなかった。
「僕は、浩人と一緒に『ちょっと遠く』へ行きたい」
素直に言うと、浩人がまたぎょっと目を見開いて威風を見た。
「けど自転車には乗れない。だからタクシーで行きたい。それがどうしてダメなんだ?」
何故か浩人の顔が見る見る赤くなっていく。そして見開いていた目を伏せて困ったようにぽりぽりと人差し指で頬の辺りを掻いた。
「だって、タクシーじゃつまらないだろ」
「つまらない?」
「簡単すぎて、つまらないじゃないか。なんていうのかなぁ…達成感が無い」
達成感。よく聞く、威風のあまり好きでない言葉の一つだった。けれど、浩人の口から出てくるとちっとも嫌な感じがしない。
「そうだ。威風、自転車乗る練習しよう」
唐突に浩人が言う。威風がちょっと驚いている間に、浩人は一人でそれが名案だと決めてしまう。
「乗れるようになったら一緒に行こう。自転車乗れたら便利だぜ。健康にもいいし、その…なんていうんだっけ?エコノジー?なんか良くわかんないけどとにかくいいんだよ。な?今日から練習しよう」
浩人が決めたことなら、威風に異存は別に無い。その日の放課後早速いつもの公園で自転車に乗る練習を始めたのだ。練習のために貸してもらった浩人の自転車は、何年も使い込んでいるらしくかなりぼろぼろだった。
初めて乗った自転車は全く威風の言うことを利かなかった。浩人に言わせると威風が酷いらしい。サドルに跨って、両足を地面から離してボーっとするな、と言われた。ペダルこがなきゃ倒れるに決まってるだろ、と。
言われてみればその通りなのだが、身体が動かないのだ。
あまりにばたばたと何度も繰り返し威風が倒れるので浩人はちょっと呆れていたが、後ろから自転車を支えてくれたり、熱心に指導してくれた。威風も威風で何度こけても止めようと言う気にはならなかった。
「あ、威風血が出てるぞ!」
全く上達しないまま、地面に何度も何度も転がった。浩人が慌てた様子でそう言うまで、膝から血が出ていることにも気づかなかった。そういえばさっきからじんじんと痛むような気がしたが、それが一体何度目にこけた時に出来た傷なのか分からなかった。
「バイキン入ったらいけないからそこの水道で洗おう」
浩人に腕を引っ張られる。
「あ、お前腕も擦ってるじゃないか」
肘の辺りにも血が滲んでいるところがあった。それを見て、威風は呑気にああ本当だ、とだけ思った。
「威風、痛くないのか?」
「痛い」
「痛いんだったらもっと痛そうな顔しろよ」
そういわれても、威風はどういう顔をすればいいのか良く分からない。ただ、浩人に指摘されると今まで殆ど気づかなかった痛みがじわじわと増してきたような気がした。
公園の中央にある水道で威風は膝の傷を洗った。痛みが更に増して自分の頬の辺りがぴくっと痙攣するように動くのが分かった。
「けっこう汚れたな」
「え?」
「服」
そう言いながら、浩人が威風の服に付いた汚れを払う。砂埃が服から舞い上がる。
「…怒らないのか?」
一頻り威風の汚れを払った後で、浩人が少し心配そうな顔で威風を見た。
「誰が」
「そんなの威風がに決まってるだろ。前そこのブロックに座るだけで服が汚れるって嫌がったじゃないか」
そんなことがあっただろうか?もしかしたらあったかもしれないが、威風ははっきり覚えていない。
「怒らない」
「何で?前かなり嫌がったぞ。ばしってオレの手叩き落としたくらい」
浩人がオーバーな仕草で何かを払い退けるようなふりをする。それは、いつかの自分の真似なのだろうか。
「前は汚れるのが嫌だったから。でも今は平気だ」
「何で平気になった?」
「ママが怒らない。おばあちゃんは服が汚れたくらいじゃ怒らない」
威風の返答に浩人は首をかしげた。ふーんと言ったが何だか納得していないような顔だ。しかし何故かその顔が悪戯っぽい笑顔になる。
「なあ、オレ今度威風ん家行ってみたい」
唐突にそんなことを言われ、威風は驚く。
「何だよ。そんなに嫌そうな顔することねーじゃん」
嫌な顔をしているつもりはない。ただ驚いただけだ。
「いいだろ?オレん家もう何度も来てるじゃん。オレも威風ん家行ってみたい」
自分の家に浩人が…。あまり想像したことが無かったが、考えてみると何だか楽しそうな気もした。けれども、母の顔が浮かんで浩人に「いいよ」とは言えなかった。
「…ダメ?」
威風が何も言わないでいると、浩人はちょっと寂しそうな顔をして俯いた。
そんな表情をさせてしまうとは思っていなくて、威風は戸惑う。けれども、かといって家に来ていいとはどうしても言えない。
浩人はすぐにぱっと笑顔に戻った。
「まあいいや。また今度、な?」
そう言って威風の肩をぽんと軽く叩いた。
「威風、そろそろ塾の時間だろ?」
そうやって区切りをつけるのは、いつも浩人だ。威風はまだここに居たい気持ちのほうが強い。けれども、浩人はサボりはダメだと言っていつもこの時間になると威風から離れて行ってしまう。
「今日は家まで送ってくよ。オレが自転車こぐから、威風はサドルに座ってくれ」
何をするんだろうと思いながら、威風はさっき散々自分が地面に倒した自転車に跨る。浩人は威風の前に立ち、自転車のハンドルを握ってペダルをこぎ始めた。
「二人乗りしたら怒られるから、ホントはあんまやっちゃいけないんだぞ!」
小柄な浩人が、長身の威風を乗せた自転車をこぐのはかなり大変そうだった。倒れそうになるくらいぐらぐらと揺れるので、威風は思わず浩人のシャツを掴んだ。
「威風~お前ガリガリだけどやっぱ重いな!」
そう言いながら、暫く立ちこぎをしていると慣れてきたのか、運転がスムーズになってくる。けれども、威風は浩人のシャツを離さなかった。
このまま浩人の言う「ちょっと遠く」へ行けたらいいのに。
浩人の背中を見ながら威風は思った。
威風の家まで、あっという間だった。
「ほら。もう威風ん家だ。自転車速ぇだろ?」
浩人が自転車から降り、得意げに笑ってみせた。離れて行ってしまった浩人のシャツの感触が名残惜しい。威風は自分の手のひらを眺めた。
「どうした。痛いのか?」
浩人もまた、威風の手を覗きこむ。すると、何故かふぅっと傷に息を吹きかけた。彼の息が触れた傷は、ちくりちくりと痛くなる。
「ちゃんと消毒しろよ。今日風呂入るとき痛いぞ、絶対」
からかうように浩人が笑う。
「どれぐらいしたら、自転車こげるようになる?」
威風が呟くと、浩人は苦笑した。
「どうだろう?威風ヘタクソだからなあ。結構時間かかりそうだ」
けど絶対こげるようになるから心配するな、と浩人は最後は彼らしく明るく笑った。名残惜しい気持ちを抑えながら、威風は自転車から降りる。
「じゃあな。また遅刻せずに学校来いよ!」
浩人は威風に向かって大きく手を振ると、そのまま自転車に乗って去って行ってしまった。自転車は速い。浩人が遠くなっていくのも速い。
こんなふうに浩人と毎日を過ごすようになって数週間が経とうとしている。夏休みが明けてから一月も経っていないというのに、威風の生活は随分と変わった。
「ほら、ふーちゃん。着替えてもう出ないと塾に遅刻するわよ」
自分の生活を変えたのは、浩人だけではないと思う。この祖母が来なければまたここまで変わることも無かっただろう。
「おばあちゃん」
着替えの服を持ってきた祖母を呼ぶと、彼女はにこりと笑って「なに?」と返事をした。
「塾、辞めたい」
その言葉に祖母は目を丸く開いて硬直してしまった。
所謂塾というところにはもう幼稚園くらいのころから通っている。辞めたいと明確に思うようになったのはつい最近のことだ。それまで一度も辞めたいと思ったことは無かった。
祖母はやがてまた微笑んで、清潔なシャツとズボンを威風に手渡した。
「どうしたの?急に。何かあった?」
「塾より、自転車の練習をするほうがいい」
自分でそう答えながら、その答えに何か違和感を覚えた。塾を辞めたいと口にしたのは今日が初めてだ。いつの頃からか、漠然とそんな思いが浮かんできていたが、浩人にもそんな話をしたことは無い。ましてや塾を辞めたい理由など、深く考えたことも無かった。
祖母に訪ねられて反射的に口にした「辞めたい理由」は、自分でも何だかおかしいと思ってしまう。
「お友達と遊ぶのは楽しいと思うけど、勉強するのも大事よ」
優しく諭すように言われ、威風はそれ以上何も言えなかった。手渡された服に着替えていると、今度は祖母が塾に通う用に使っている鞄を持ってきた。
威風は黙って鞄を受け取り、靴を履く。いってらっしゃい、と祖母が言うので、「うん」とだけ応えて玄関を出た。
― 塾に行かずに、ずっと浩人と自転車に乗る練習をしていたかった。早く乗れるようになって、浩人と「ちょっと遠く」へ行ってみたい。
それが、塾を辞めたい理由だ。
それは紛れも無い威風の本心だ。そのはずなのにどうして本当のことを言ったはずの自分が違和感を抱いてしまうのだろう。
― 塾より自転車の練習をするほうがいい
その言葉を、頭の中でもう一度繰り返してみる。やっぱりおかしい。
とても子どもじみたわがままだ。塾より自転車の練習が大事なはずは無い。浩人に言われるまで一度だって自転車に乗ろうと自分から思ったことも無いくせに。
きっと夏休み前の自分がこの言葉を聞いたら鼻で笑っていたと思う。塾より自転車に乗ることのほうがいい?自転車なんて乗れなくても何の不便もない。馬鹿だからそんな簡単なことも分からないんだ。
そんな風に思っただろう。
ずっと、「子ども」という自分が嫌だった。親や教師といった大人に干渉され、束縛され、けれどもそうやって「保護」されないと生きていけない「子ども」が嫌だった。早く大人になりたかった。誰にも干渉されず束縛されず、誰も自分のことを知らない場所で一人で生きてみたかった。少しでも大人に近づくためには、知識を蓄えるのが一番だと思った。だから勉強は好きだった。知らなかったことを知るたび、難しい問題が解けるたび、自分は大人に近づいているのだと思った。
でもそうじゃなかったみたいだ。
どんなに背伸びをしてみても、やはりどうしても子どもは子どもなのだ。同級生は皆、幼稚な子どもだと馬鹿にしていたけど、自分も大して変わりは無い。
そう気づいたが、別に嫌な気分はしなかった。ショックも受けなかった。ただ、そうなのかと静かに思うだけだ。
塾に向かう電車の中で威風はため息を吐く。
― 早く明日にならないかなあ…
そう考えながら鞄を開け、テキストを取り出し目的駅に到着するまでぼんやりと目を通していた。