まだ何も知らない1
威風は、駅のホームで電車を待っていた。
塾がようやく終わり、後は家に帰るだけだ。時刻はもう夜の9時を過ぎている。細い腕に不釣合いなごつい腕時計を見て意味もなくため息をついた。電車が来るまであと5分少々。何もすることが無いので鞄の中から今日返された模試の結果表を取り出した。
全科目得点はまずまずで、第一志望の学校もAランク。そして全国成績優秀者の中に名前が載った。前回よりもずっといい位置だった。この分なら志望校も間違いないだろう。自分が受からずに誰が受かるというのだ。
悪くない気分だったが、ふと明日からのことを思い出す。嫌でも明日から学校が始まるという事実が思い浮かぶ。
面倒くさい。またあんな無駄な日々が始まるのか。
威風は学校の宿題を一切していない。するつもりも始めから無かった。夏休みの宿題だけでなく、学校から出された課題という課題は何一つしていなかった。
小学校3年を境に、学校で必要ないと思ったことは一切しなくなった。体育や家庭科といった授業は時間の無駄だから出ない。算数や国語も、最近は学校の授業があまりに幼稚だから一人で塾の問題を解いている。
それでもテストはほとんど満点だった。初めの頃こそ叱られもしたが、ずっと無視していると教師もようやく諦めてくれたらしい。今では何も言われない。今ではテストも真面目に受けることは殆ど無い。
教室の席はいつも一番後ろ。威風だけは授業中何をしていても自由だった。
あるとき他のクラスメイトが威風の真似をしようとすると、教師は怒った。生徒が反発すると、教師は言う。
「あなたがいつも守山くんみたいにいつもテストで満点取れるならいいのよ」
同じクラスのやつらはいつも動物みたいにぎゃーぎゃー大声を上げて走り回って、まるで馬鹿ばかりだ。話す気も起きない。同じ空気を吸うのも嫌だ。
本当は学校になど行きなくない。けれども、最低限学校に行っておかないと内申が不利だと塾の講師から言われた。実際3ヶ月ほど学校を休んだことがあったが、担任教師やら教頭や校長が煩くてたまには学校に行くことにした。なんでも自分が学校を休んだのはいじめのせいだと思ったらしい。
馬鹿らしい。誰があんな猿にいじめられるものか。
教科書や体操着を隠されても、端からそんなものは使わないからどこかへ捨ててくれて全く構わない。靴を隠されても家に靴くらいいくらでもあるから1足2足どうでもいい。机に落書きされたこともあったが、人に言われるまで気づかなかった。あの馬鹿どもはそれで自分を傷つけたつもりだろうが、そんなものをどうこう考えるほど自分は暇じゃない。算数の問題を考えていたほうがよっぽど有意義だ。
明日は始業式だ。そんな下らないものにはもう何年も出ていない。明日も行くつもりは無い。クラスの喧騒を思い出して、威風はうんざりする。思い切り顔をゆがめたところで電車がホームに滑り込んできた。
仕事帰りの大人たちに紛れて威風も電車に乗り込む。家の最寄の駅まで約十五分。駅から家まで車で約十分。今電車に乗ったと、母親に携帯でメールを送った。
返事が無いのは知っている。
きっと、もう眠っていてメールを見ることもしないだろう。そっちのほうが気楽だ。
けれど時たま気まぐれに見て、メールが無いと激怒する。きーきーと物凄く耳障りな高音でわめき散らして暴れまわる。
あれは本当にどうしようもない化け物だと威風は思う。けれど良い成績を取っておけば取りあえず大人しい。何をするよりも威風の成績が彼女の精神安定剤のようだ。今日は良い成績が取れたので仮に何か有ったとしてもあと数日は母親の機嫌ももつだろう。
威風は窓の外に向けていた視線を車内に巡らす。この時間帯に電車に乗る大人は大抵眠っている。丁度正面に座る若い男は、酒のせいだろうか顔を真っ赤にしながらいびきをかいて眠っている。その姿を見て、なんてみっともないんだろうと侮蔑しつつも心のどこかでほんの少し憧れにも似たような感情があることを自覚していた。
あの男はきっと自分よりももっとずっと自由なんだろうな。
大人はずるい。たった十年かそこらくらい自分より長く生きているだけで、信じられないくらいたくさんの自由が許されている。働くことが出来る。一人で遠くへ行くことも出来る。親や教師にあれこれ訳のわからない説教を受けることも無い。もちろん大人にもいろいろな制約があるのだとは思うが、それは子供の自分よりももっと異質なものだと思う。
子供というのは、なにかもっと根本的な物を抑えられている。それが何なのか、威風には上手く説明できないが、とにかくそんな気がする。
早く大人になりたい。最近はよくそう思う。いつ終わるのかと気が遠くなるほど長く感じた小学校生活ももう少しで終わる。けれどもまだまだこれからも学校に所属し続けなければならないのかと思うと非常に不愉快な気分になる。
やがて電車は最寄の駅についた。
改札で定期券を出し、駅をでる。駅前に止まっているタクシーになれた仕草で乗り込んだ。
行き先を告げると、運転手は酷く驚いた表情で振り返った。
「僕一人?」
見れば分かるだろう。威風は瞬間的に噛み付きたい気分になる。
「はい。一人です」
けれどそんな馬鹿な真似はしない。
「塾帰りか何か?」
「はい。疲れてるんで、早く行ってもらえませんか」
そう続けると初老の運転手ははっとしたように車を発進させた。運転手はそれ以上何も言わなかった。良かった。今日は当たりだ。昨日の運転手はべらべらと一人で喋り捲って余計に疲れた。こっちが何も答えないのにどうしてああいう人間は喋り続けるんだろうか。
タクシーは夜道を進んでいく。鞄から財布を取り出して中を見ると、金額の大きい札しか入っていなかった。些細なことだろうが、釣りをもらうことすら今の威風には億劫なことに思えた。だからと言ってつり銭を貰わないほどの余裕があるわけでは決して無い。
やがてタクシーは見慣れた交差点に差し掛かる。
「その信号の先で止めてください」
家に帰ったらもうそのまま寝てしまおう。どうせ明日学校には行かないのだから今晩風呂に入らなくてもいい。
威風の指示通りにタクシーは止まる。金額を告げる運転手に札を一枚渡し、暗さのせいか少々手間取る運転手に苛立つ。
ジャラジャラと小銭と数枚の札を受け取り、乱暴に財布に放り込んでタクシーから降りる。そこから2分ほど歩けば自宅だ。ポケットから家の鍵を取り出す。近づいてきた家に灯りが灯っているのを見つけて足を止める。
― なんで起きてるんだ…。
さらに気分が悪くなる。さっきメールを送っておいて良かった。そこだけは安心する。
なるべく音を立てないように鍵を開ける。
そっと扉を開けると、玄関には見慣れた母親が仁王立ちしていた。
「ただいま」
一応、威風は彼女に言う。彼女は無表情で何も言わずに突然威風に向かって手を差し出した。
意味が分からず威風は母親の顔と自分に差し出された手を交互に見た。
「模試。結果出たんでしょう」
その声は思ったよりも穏やかだった。
玄関に灯りはついてない。隣のダイニングから差し込む蛍光灯の明かりに僅かに照らされた母の髪は乱れていた。さっきまで眠っていたのか。
それとも一人で暴れていたのか。
取りあえず今すぐ暴れ出すことは無さそうだと判断する。威風は鞄からさっき自分が駅で眺めていた模試の成績表を手渡した。
それを受け取った母親は突然目を見開いて紙の隅から隅まで眺め始めた。威風はその間、玄関で立って待っていた。
こういうときは、下手に動かないに越したことはない。
何分くらいそうしていただろうか。黙って紙を眺める母親に、威風は少々緊張していた。
ついていない。どうして今回は模試の結果がでるなんて覚えていたんだろう…。これだから厄介なんだ。自分に興味が無いなら興味が無いで構わないのに、時々気まぐれで思い出してそれがちょっとでも気に食わないなら大声で怒鳴り散らしたり家中の食器を叩き割ったりする。
鬼気迫る、とはこういう表情なのか、と思うほどの顔だった母親の顔が、突然緩んだ。
「凄いじゃない~威風ちゃん!さすがママの子だわっ!本当にパパに似なくて良かった!」
目尻が垂れ下がり、口端が上がり、にいっと気味悪く笑って猫撫で声を上げる。そして、握り締めていたその紙に頬擦りした。
「じゃあ、僕疲れたからもう寝るよ」
「そうね~受験生には体力が大事だものね~。ゆっくり休んでちょうだい」
威風は靴を脱ぎ捨て、足早に自分の部屋へと向かう階段を駆け上った。
乱暴に扉を開けて鞄を投げ捨て、しっかりと内側から鍵をかける。たったあの階段を上っただけで、百メートルを全力疾走したくらいに息が切れていた。
あの女は病気だ。
数年前まではもう少しまともだったが、ここ最近はおかしい。けれども、自分にはどうする術も無い。
着替えもせずにベッドにもぐりこむ。この家はあまり好きではないが、ベッドだけは別だ。頭まで毛布を被り、丸くなっているとようやく自分だけの空間に帰れたような気になれる。ほっと、心の底から安堵したため息が漏れる。
夏休みは良かった。昼間どこを歩いていたとしても何も言われない。けれど明日からは昼間に学校以外を歩いているとどうしたのだと知らない人間から声をかけられたり、ひどい時には説教を受けたりする。学校も嫌いだが家も嫌いだ。塾は学校や家に比べるとずっとマシだが長い時間は居られない。
嫌だ嫌だ。こんなことがいつまで続くんだ?勉強を続けて志望校に受かったとしてもきっと状況は今とそんなに変わらないはずだ。
早く大人になりたい。せめて外見だけでも大人になりたい。そうすれば、黙って昼間の街を歩いたとしてもきっと誰にも何も言われない。子供時代というものは、何て無駄で苦痛ばかりなんだろう。
威風はベッドの中で小さく丸くなり、外界に対してのあらゆる愚痴を思った。
そうしているうちに少しずつ眠くなり、ようやく何も考えない時間が彼に訪れた。