《7》
――。
『そっちに行っちゃダメだ』
誰かの声がする。
私は真っ暗な道を、ひたすら前へと進んでいた。ここがどこなのか、どうしてこんなところにいるのか、どこへ行こうとしているのか、自分でも分からない。
『辛い思いをさせてごめんな。大丈夫だから、こっちにおいで』
どこから聞こえてくるのだろう。何の話をしているのかも分からない。構わず歩き続ける。
『全部、俺のせいだ。だから……』
やはり意味が分からない。ただ――愛おしさを感じるような、優しい声であることは確かだ。
『お前のせいじゃない。お前のせいじゃないよ』
まるで言い聞かせるような言葉を耳にした途端、何故か戦慄した。
声の主から逃げるようにして駆け出す。夢中で走っていくと、いつの間にか周囲の景色が変わっていた。見覚えのある光景に、思わず立ち止まる。そこは、懐かしい朝の食卓だった。慣れた手つきでフライパンを操る母。栄養ドリンクを片手に、リビングを出ようとする父。
「おとうさん、おはよう」
「あぁ、由美子。それじゃ」
あっという間に私の横を通り過ぎ、父は玄関へ向かってしまった。バタンとドアが閉まる。
父は日々仕事に追われており、会話をすることは少なかった。そのため、好きという気持ちは母に比べて小さかったように思う。
だが母は、父のことが大好きだった。
父の帰りが遅くなる日は、私一人に食事をさせ、自分は父が帰ってくるまで待っていた。家族三人で出掛けるときは、左側で父と手を繋ぎ、右側で私と手を繋いでいた。一度、「おとうさんとおかあさんの間に入りたい」と言ったことがある。すると母は、こう返した。
「お父さんの右側は、お母さんの特等席なのよ」
母は、父と手を繋いで歩くことで幸せを感じているのだ。それを知ってから、私は二人の間に入りたいと言わなくなった――そんなことを思い出しながら、テーブルに目を向ける。
テーブルには、父が慌てて食べたであろう食器類が残されていた。無意識のうちに、食べ終えたあとの皿を積み上げる。唐突な状況に躊躇うことなく、疑問を感じることもなく、食器を母の元へ運んだ。
「朝からお手伝い、ありがとうね」
小さく微笑みながら、母はガスコンロの火を止めた。褒められたことに嬉しくなり、母の手を引く。
揃って席に着くと、テーブルに並べられた朝食を眺めた。焼きたてのトースト、嫌いなトマトの入ったサラダ、可愛い水玉模様のカップに注がれた牛乳。そして――朝日に照らされ、キラキラと光るハチミツの瓶。
母は真っ先にハチミツの瓶を手に取り、蓋を開けた。こんがり焼けたトーストに、たっぷりとハチミツを塗っていく。その上にバターをひとかけ落とせば、ハチミツパンの完成だ。私と母の大好物。
「パンだけじゃなくて、野菜もちゃんと食べるのよ」
「分かってるもん。いただきまぁす」
へへっと愛想笑いを浮かべ、ハチミツパンをかじる。こぼれ落ちそうなほど乗せられたハチミツは、楽しい夢の世界のように甘美だった。濃厚な味が口の中いっぱいに広がっていく。幸せな瞬間だった。
その幸せはいつまでも続くのだと、当り前のように思っていた。
だが――いつしか、朝の食卓からハチミツパンが消えた。
ハチミツパンだけではない。牛乳も、トマトを残して怒られた野菜サラダさえも。 当然、おやつの時間にハチミツパンが出てくることもなくなった。