《1》
身体に溶け込むような、甘く瑞々しい香り。
優しく煌めいて見える、ハチミツの色。
私と母を繋ぐ、たった一つの記憶――。
見渡す限り山だらけの田舎町。この大して見どころのない光景が、今はどこか綺麗に見える。大学進学を機に上京することとなり、何となく寂しい気持ちが沸いているからだろう。
雲ひとつない晴天が広がる午後、引越しのための荷作りを始めた。だが、脱線してばかりで一向に進んでいない。卒業アルバムや昔の日記などを見つけてはそれを眺め、懐かしさに浸っていたからである。
先ほどは中学生の頃に友人と行っていた交換ノートを開き、最初から最後まで読み通してしまった。見つけるまですっかり忘れていたのに、読み返すと急に愛おしくなってしまう。今となっては必要のないものだが、邪魔になるような大きさでもないため、段ボール箱の隙間に滑り込ませておいた。
次の作業に移ろうと、押し入れの最奥から収納ボックスを引きずり出す。何年も目にすることのなかったこの収納ボックスには、小学生の頃に使っていたものたちが入っていた。使用感たっぷりの汚れたランドセルをはじめ、教科書類やリコーダーなどが乱雑に詰め込まれている。その中で特に目を引いたのは、花柄のクリアファイルだった。
少し躊躇いながらも、そのファイルに挟んである原稿用紙を取り出す。私が小学校一年生のときに書いた作文だ。与えられていたテーマは〝好きなもの〟。
「すきなもの」
一ねん三くみ かとうゆみこ
わたしのすきなものは、ハチミツパンです。やいたパンの上に、ハチミツとバターをのせたやつで、いつも、おかあさんがつくってくれます。
あさごはんは、ハチミツパンが出ることがおおいです。おかあさんがいそがしいとき、ハチミツパンはかんたんにつくれるから、たすかるといっていました。
あさごはんじゃなくて、おやつのじかんに出てくることもあります。おかあさんもハチミツパンがすきだから、いっしょにたべます。
わたしもじぶんでつくりたいけれど、おかあさんは「トースターはあぶないから、子どもはさわっちゃだめ」といって、やらせてくれません。そのかわりに「もうすこし大きくなったら、いっしょにつくろうね」とやくそくしてくれました。
わたしがもうすこし大きくなったら、ハチミツパンをつくって、おかあさんにたべてもらいたいです。
ハチミツパンとおなじくらい、やさしくてきれいなおかあさんのことも、大すきだからです。
改めて読むと苦笑してしまうレベルの内容だが、小学校一年生が書く作文としては上出来だったのだろうか。この作文は、校内作文コンクールの一年生部門で銀賞に選ばれた。初めて手にする表彰状に飛び上がって喜んだのを、薄っすらとだが覚えている。
とはいえこの作文を大切に保管しているのは、賞をもらったからではない。この作文の中に出てくるハチミツパン――のちに〝ハニートースト〟という名前が付いていると知ったもの――を焼いてくれていた母が、十二年前に忽然と姿を消したからだ。この作文を書いてから、約一年後のことだった。