白き月の夜ー3
「見守って、いたんだ……ただ静かに」
色のついていない唇は艶やかに白く光る。それを動かして、低い声を紡ぎ出す。
淡い光を纏う彼を、思わずポカンと口を開けたまま見る。
真っ白な男だ。
紅い瞳の男とは真逆で、笑おうとしない。
吸い込まれてしまいそうだ。真珠のような瞳にも、艶やかな唇にも、美しすぎて近付きたくなってしまう。
「君に姿を見せたら……私の感情を受け取ってしまうだろう……だから、黙って見守っていたんだ」
浸透するような低い声をまた発して、白い男が手を伸ばして親指の腹でわたしの目尻に溜まる涙を拭う。
思わず、ビクリと震えた。
見惚れてしまった。
予想外に美しすぎて、見惚れてしまった。
目を逸らしても、まだ男はいる。
「な、なんでっ、見守るのよっ……」
袖で涙を拭ってなんとか問い詰めた。
笑って楽しむためではなく、見守っているためにいた。
見覚えのない男だ。見守ってもらう覚えもない。
「…………私は月だ」
そっと告げる男に目を戻す。
それから夜空に目を向けた。ベランダに繋がる硝子のドアの向こうに月は見当たらない。
そう言えば、最後に月を見上げたのはいつだっけ。
不意に疑問が浮かんでから、紅い瞳の男が言ったことを思い出す。
星の精。
星。宇宙に存在する星。
目の前にいる白い男は、自分を月と言う。月光のような淡い光を纏う彼が、月と名乗る。
「……月の、住人?」
「月、そのものだ」
ふるふるり、と緩やかに白い髪を揺らして首を振ると男はやはり月だと名乗った。
顔の横で前に垂らす髪の束は肩に触れるくらい長いけど、後ろの方は腰に届くほど長いみたいだ。
いや、髪の話はいい。
「ほ、本当に、月? お月様なの? なんでいるの?」
指を差すけど、月は見当たらない。硝子の向こうには見当たらないけど、確かに空にあるはずのお月様が――――目の前の彼だ。
「"我々"は魂を人の形として降り立てることが出来る。地球は"言魂"に溢れてあるからだ。"我々"は――…」
「本当に星そのものなの? 星の精なの?」
「…………。そうとも、呼ばれている」
星の精。星の魂。
月の魂。彼は、人の姿を保ったお月様。
お月様が、わたしのそばにいた。
紅い瞳の彼も何処かの星の精。宇宙に在る星は皆魂を持つ。なら地球も?
今まで以上の衝撃に、頭が割れかけて抑える。
「……君は、いつも私を見上げていた」
「え?」
「学生時代、君は一人の帰り道で私を見上げていただろう。暗い夕方の時も、夜になった時も、昼間の時も、私を見付ければ見つめてくれていた」
「…………あっ」
わたしが顔を上げれば、お月様は話し出した。
わたしのそばにいた理由を。
言われて思い出す。
わたしは空が好きだ。
よく見上げていた。
特に学生時代は少しでも家に帰る時間を送らせようと歩調を遅くしたり、公園に寄ったりしながら空ばかりを見上げていた。
家族と居すぎると嫌な感情が伝染するから。
青く澄んだ昼の空とか、のんびり広がる雲だとか、黒ずんだ夜空とか、赤色に染められた夕陽の空とか、今にも覆い被さりそうな夏の雲だとか、流星が降り注ぐ夜空とか、泣いてしまいそうな雲から光が差し込む空とか、数え切れないほどの星がある夜空とか、好きだった。
いつしかそんな空を見上げても心が安らげなくなり、眺める時間は社会人になってから減った。
「……そんなの、皆見てるでしょ」
月を眺めるのは、わたしも好きだ。でも他の人間だってやる。
お月様鑑賞なんて、地球上の人間がほとんどやっているじゃないか。
「君は、私に笑いかけた」
「………………!!?」
お月様に言われて、少し遅れてハッとする。
お月様に向かって笑いかけた。笑いかけただけではない。恥ずかしい記憶が走馬灯のように駆け巡った。
「話し掛けてもきた。"こんばんは"や"今日も綺麗だね"と、君は嬉しそうに微笑んで言葉をかけてくれた」
顔に火がついたように熱が集中する。
マスクを外して笑いかけた上に、声を出して話し掛けた。
「"今日は寒いね"と公園の遊具に座って、暫く話してくれた夜があった。"来年は良い年になるか、見守ってください"と年が明けたら真っ先に挨拶してくれた夜もあった。……ああ、そうだ、確かアイスを私に」
「うわああっ! もうやめて、恥ずかしい記憶を甦らせないで! 君の記憶の中だけにしまって!!」
寂しすぎる日々がフラッシュバックする。
独りは寂しすぎて、独り言を月に向けながら、時間を潰していた。
誰もいないから、お月様と過ごしているかのように話し掛けた。
当時はなんとも思わなかったけど、目撃者がいたとなると恥ずかしさに呑まれる。
真っ赤になる耳を押さえて顔を伏せた。
全部か、全部覚えているのか、人様には見られたくも聞かれたくもないそれを。
お月様は全部聞いてて見ていたのか!
空から地上を見るお月様には、ばっちりくっきり見られたわけだっ!!
ふあああっ! しれっとした顔でお月様が暴露! 紅い瞳の男と真逆で常に無表情! 尚更恥ずかしいわ!
穴があったら生き埋めにされてしまいたい!
「――――…夕暮」
そっと、名前を呼ばれた。
わたしの名を知っているのは当然か。悶えていたわたしは顔を上げて、お月様を見る。
「どうか……見守る許可をいただきたい。夕暮がわたしを見上げて心安らぐ時間をなくしたならば、そばにいて全てを聴こう。君が他人の感情で涙を落とすならば……私がそばにいて独りにしない。許可を、どうか」
わたしを淡い光を放ちながら、見つめ返してお月様は許可を求めた。
今まで、独りにしないようにそばにいたの?
月を見上げなくなってから、ずっとわたしのそばにいたの?
紅い瞳の男が暴かなければ、ずっとそばにいるつもりだったの?
空から見守るように、黙ってそばにいようとしたの?
「なんで…………あれは、ただの独り言なのに……返事なんて求めてない一方的な挨拶なのに、なんで」
特別なんかじゃない。
わたしの独り言で、わたしの暇潰しで、伝わらなくてもいい言葉だった。
まるで恩を感じてるみたいに、見守る許可を求められても理解に苦しむ。
「何故照らそうとするの?」
意味がわからない。
一体何故だ。わたしは答えを求めた。
「……星は孤独だ。宇宙に在るだけ。孤独を紛わすために地球を散策するが、孤独は埋まらない。……でも君は、私に笑いかけてくれた。それが一方的な言葉でも構わない……救われたんだ」
広すぎる宇宙に浮かぶ星は孤独。
お月様を孤独から救ったのはわたしらしい。
思いもしない言動が、お月様を救った。
独りで泣くこんな小娘なんかを、特別に優しく見つめて照らす。
「君が私の太陽だから――――…優しく照らしたい」
またわたしの頬に、彼の大きく白い右手が当てられた。
星の魂なのに、肌の感触をする。どんな原理なんだと疑問をぶつけることはできなかった。
涙を拭われたのは、初めてだった。泣いたあとに頬に触れられたのは、初めてだった。
こうして、他人に触れられるのは、初めてだった。
人間は思うより触れ合わない。親に褒められて撫でられる子どもは羨ましく思う。
優しく淡い温もりに、溺れてしまいたくなって、自分から頬をすり寄せる。
「……許しを、夕暮」
そっと囁くような静かな低い声で、もう一度求めた。
「…………もっと、触って」
わたしは、もっと感じたくて求める。言ったあとになんとも大胆な発言だと、遅れて赤面した。
触れているところが一番熱い。
そうしたら、月の彼は両手で包むようにわたしの頬に触れた。
優しい月光に、包まれているようだった。溺れてしまう。
ずっと、求めてきた。
理解して支えてくれる人。
「……ずっと、そばにいてくれるなら…………許す……」
独りでいたくなくて、ずっとこの光に照らしてほしくて、ずっと触れてほしくて、許可を出した。
それはまたわたしの一方的なものなのに、お月様は嬉しげに微笑んだ。
「誓おう、ずっとお傍に…――――」
大きな両手で、優しく撫で付けられた。
心地いい。このまま眠りたくなってしまう。
流石にそれはしないけど。
頭を右に傾ければ、そっと左の輪郭を撫でられ、左の耳をなぞられた。
ちょっと、ゾクッとしてしまう。
「んっ……」
するりと指先が髪の中に入っては、とかすように抜けていく。
うなじを撫でられては、くすぐったい。
「…………君、名前は?」
「?」
「月って、呼ぶのも……なんだし。他に名前はないの?」
「……」
そろそろやめようかと言おうとしたら、名前に困った。
お月様と呼ぶのも、ちょっとな。
「…………夕暮が、決めていい。――――…私に名を与えてくれ」
手を離すと、月の彼は片膝を立ててわたしを射抜くような強い眼差しで見てきた。
ドキッとしまいつつも、呼び名を考える。
月光のように輝いて見えるお月様に名前。
「――――…びゃくや。夜なのに白く輝くから……白き月の夜で、白夜」
あえて月の文字はいれずに、体を表す名を決めた。
気に入らなかったらどうしようと、ちょっと不安げに見上げる。
すると月の彼は、手をつき頭を下げた。
畏まったような仕草にギョッとしてしまう。
「有り難き幸せ。その名を頂戴いたします――――…我主」
「? な、なに、それ。そん畏まっ……!?」
よくわからないことを言うから首を傾げたら、顔を上げた彼が両腕を伸ばして抱き締めてきた。
夜空のように暗い部屋で、月に抱き締められている。心地よくて、光に溺れてしまいそうになった。
「あの……白夜……。そろそろ眠らないと……だから」
「……もう、いいのか?」
「う、うん、ありがとう」
着物はなんだか新品のような匂いがする。ちょっと抱かれると興奮のあまり、押し倒……じゃなくて眠れなくなりそうだ。
放していただきたい。
ちゃんと眠って、人間だから仕事に行かなくちゃ。 白夜は光を消して、わたしの目の前から姿を消す。
また視えないように消えてしまった。それとも月に戻った?
色々訊きたいことはあるけど、わたしは明日に回すことにしてベッドを広げて眠ることにした。
かつてないほどの安らぎを感じて、すぐに眠りに落ちた。
安眠のおかげでいつもより早起きしたわたしは、歩いて通勤するためにいつもより早い時間に家を出た。
ふぅ、と息を吐けば白くなる。寒くてスヌードと耳当てを装着して、歩いた。
「白夜、いる?」
「傍にいる」
問えば、すぐに返事がくる。
すぐ後ろを着物姿の白夜が歩いていた。頭二つ分はわたしより大きい。
あの紅い瞳の男は人間のフリが上手いのに、白夜は奇抜な服装のままだ。
肩部分を露出している着物姿だし、白銀髪だし、姿を現しても大丈夫なのか。
「白夜はあの紅い星みたいに、人間らしい格好をしないの? てか、寒くない?」
「寒さは苦ではない。奴は馴染んでいるようにしているのは、常に普通の人間の眼にも視える姿を保っているからだ。人形を保たなくとも星には他の魂が視える。人形を保っても視える人間は限られている、君のように。私は奴のように普通の人間にも目視できる姿は保てない。何故なら彼は……」
白夜は無表情のまま淡々とした口調で教えてくれた。
朝陽に照らされている白夜は、とても眩しくてまた見惚れてしまう。
流石はお月様だ。
そんな白夜が言葉を止めた。
視線を追えば、紅い瞳の星男が踏み切りの手前で待ち構えている。
今日はわたしとよく似た白いスヌードを巻き付けていて、ジャケットを着ていた。ズボンのポケットに手を入れて、首を傾げる。
「あっれー? 出てきてるー」
「あ、うん。昨日やっと出てきたの。月の精なんだって、白夜は」
驚いたように目を丸めた彼に、丁度いいから話す。
白夜の正体を探るためにわたしを追い回していたのだから、これで星男との鬼ごっこに終止符が打てる。
「……びゃくや、って?」
「あ、呼び名。お月様じゃ、なんだしね。白夜はその……わたしを見守りたいからずっとそばにいたんだって」
彼から笑みが消えた。
わたしは白夜に話していいのか、顔色を伺ってみたら、彼を見張るように見据えている。
話すことを止めなかったから、そのまま口にしてしまう。
彼に目を戻したら、ゾクリと戦慄が駆け巡った。
口元はスヌードで隠した彼は瞳を紅に濁らせて、白夜を見据え返している。
思わず後退りして白夜に背中をつけた。
「あ、あの……だから、もう、鬼ごっこはやめて」
不穏な雰囲気。
ピリピリした感情に、ビクビクしてしまう。
仲裁するように、二人が交じり合う視線に手を割っていれる。
すると彼がわたしに紅い瞳を向けた。
スヌードを顎で押し潰して口元を晒せば、笑みがつり上がっている。
「――――――…いやーだ」
きっぱりと鬼ごっこはやめないことを告げた。
毎日やらなきゃ気が済まないのか、この星男!!
「もう白夜の正体を知ったなら、追い回す理由はっ」
「夕暮」
「!」
解放されたくて諭そうとしたら、白夜に肩を掴まれて引っ張られた。
「奴の目的は私の正体を知ることではない。奴は"星喰い"と悪名高い名のない星だ」
「ほし、ぐい?」
顔を真上に向けて白夜を見れば、彼を見据えたまま教えてくれる。
ほしくい。星を、喰らう。
「えっ、びゃ、白夜を喰う気なの!?」
「既に数個の星が喰われて、奴の力となっている。だから、普通の人間にも目視できる姿を保てる。私を獲物として捉えて君に近付いたんだ」
「早く言いなさいそれっ!!」
同類を喰うような奴に追い回されているのに、なんで白夜は七日間も黙ってたんだ。
私についている白夜を食べたいがために、追い回してきた。
通りで戦慄を覚えるわけだ。
あの闇は喰らうために開かれた大きな口。掴まっていたら、私ごと喰われていたかもしれない。
そう思ったら悪寒が身体中に駆け巡ってまた白夜にぴったり背中をくっ付ける。
紅い瞳の"星喰い"は不敵な笑みを浮かべた唇を、ペロリと舐めて私を見据えた。
この話を思い付いたのは、"大きな書店で素敵な出会いがあるといいな"と思ったのがきっかけです。
素直に甘いだけの恋愛を書けばいいのに、どう道を踏み外したのか、こんな奇怪なものへと仕上がりました。
これから甘くなるか、疑問です(笑)
オチは……まだ考えておりません(爆)
前書きに書いたように
暇潰し程度に読んでいただけたら、幸いです。




