白き月の夜ー1
感情は、嫌いだ。
楽しかったり、嬉しかったり、そんな感情ならば微笑みが溢れる。
けど不満も怒りも悲しみも、わたしを地獄まで引きずり込もうとするから大嫌いだ。
他人の口論を耳にすれば、胸の中が荒らされる。
他人の不満や激情を感じ取れば、沈むように気分が重くなる。
他人の悲しみを感じれば、引き裂かれる思いを味わう。
他人の感情がわたしを地獄に引きずり込む。
死にたくなるほどの生き地獄。
わたしの苦しい思いを押し付けるものはいない。
押し付けられたくもないから。
家族さえもわたしに近付かない。わたしを見ない。
わたしの心は、誰も感じ取ってはくれなかった。
死にたくなるほどの苦しみを味わいながら、なんとか生きた。
支えになったのは、愛に満たされた終わりを迎える物語。
必ず救われる物語を読むと、わたしも救われる気になる。
だから好んで書店に足を踏み入れた。
買う気がなくとも、本が並ぶ通路を歩くだけで満たされる気がする。
騒がしい感情的な声がする家なんかよりも、よっぽど平穏を味わえるのだ。
「ねぇ。こんにちは」
目に留まった本の冒頭を読んでいれば声が聴こえた。
スルリと伸びてきた指が、わたしが常備するマスクを剥がす。
他人の感情に反応してしまう表情を隠すために、外に出る時は必ずつけていた。
何事かと声の主に顔を向ける。
「あ、やっぱり可愛い顔」
わたしに声をかけたのは、魅惑的な甘い笑みを浮かべた黒髪の男だった。
背が高く俊敏そうな細い身体はモデル並み。ダークな服装の着こなしもまるでモデル雑誌から抜け出してきたみたい。
漆黒のジャケットに、深紅のシャツ。黒いまだら模様のズボンと黒革のブーツ。
服をパッと見てから、男と目が合った瞬間息を飲んだ。
ゾワゾワとなにかが身体中を駆け回った。
それは多分――――…恐怖だ。
とても整った男で甘い笑みを浮かべているのに、恋に落ちるといった素敵なことは起きない。
わたしが他人の感情を感じ取るのは、感受性の強さや直感だと認識している。
相手の秘めた要求を感じ取ったり、秘めた悪意を感じたり、秘めた敵意を感じたりして他人との衝突を避けてきた。
彼から感じたのは――――…悪だ。
瞳が真っ黒な悪に染まっている。吐き気さえ覚えるどす黒い悪しかなくて、思わず震え上がり後退りした。
その反応に笑みを深めて目を細めた彼は、首を傾げる。
「前も君のこと見掛けたよ。次見掛けた時に、話し掛けようって思ってたんだ」
一目で恐怖を与えるような男が以前からわたしを視界に捉えていたと思うだけで気持ち悪さが増す。
この男は――――…人間ではないとさえ感じてしまう。
関わらない方がいい。
わたしはそう判断して、本を棚に戻して帰ろうとした。
「ねぇ。君の背後にいるのは、何者?」
「えっ……?」
思わず応えてしまう。
背後にいる者がいるのかと、わたしは振り返るが誰もいない。
「あー……君には視えないんだ? ずっとその子につきまとってるみたいだけど、誰なの?」
男はわたしの斜め上に目を向けて、問う。わたしの背後にいる者に。
彼の黒く濁る瞳が、赤く揺らめいたのが見えて目を丸めて固まる。
「背後にぴったりついて視えないのに……俺の目は視えるんだぁ? 君の名前、教えて?」
彼はわたしに視線を落とす。漆黒だった瞳が、深紅に濁った。
わたしはビクリと震え上がる。
人間、じゃない。
絶対に人間じゃない。
そんな者と出遭ってしまったんだ。
わたしは直ぐ様書店を飛び出して、エスカレーターを駆け降りた。
ここのショッピングモールまでは、家族と車できたことを思い出して、次はエレベーターに向かう。
ボタンを押して中に入り、閉まるのボタンを押す。
彼が追い掛けて入ってこないことを願いながら扉が早く閉まることを祈る。
何事もなく扉が閉じられたことに一先ず安堵をして、設置された大きな鏡の中の自分と顔を合わせる。
キャメルのトレンチコートと赤いチェックのスヌードを巻いたアッシュウルフヘアーの女。
女と呼ぶには幼さがありすぎる自分の顔が嫌いだが、青ざめた自分のそれをまじまじに見てしまう。
鏡越しに自分の背後を確認した。なにもいない。
でも言われたら気になってしまい、背中を恐る恐る触り確認した。
彼に何が見えたと言うのだ。想像したくもない。
エレベーターの隅で壁に背中を合わせて最上階に向かう。
別行動をしていた家族が来るまで、屋上の駐車場で息を潜めるように待った。
再び彼に会うこともなく、緊張から解放されて息をつく。
もうあの書店に行く気は消滅した気がする。
わたしの安息の場所だったのに……。
忘れよう。
あんな人間ではないとさえ思える禍々しい男と遭ってしまったことなんて…――――。
翌日は仕事へ出掛けた。
他人の感情に滅入ってしまうため接客することが少ないスーパーの裏方を選んだが、予想外に客と接することが多く時々辞めたくなる。
けど、就活をして金欠になる方が嫌でズルズルと引き摺って続けてきた。
表情を読まれないように、無駄に作り笑いをしないようにマスクをして、決められた時間内だけ仕事に専念するフリをした。
「やぁ、こんにちは」
自転車で家に帰ってくれば、あの男がそこにいて悲鳴を上げかけた。なんとか飲み込む。
「な、何故っ……!」
何故わたしの家がわかったんだ。
撒いたはずなのに。車で移動したはずなのに。何故。
今日は漆黒のニットのジャケットを着た彼は、ジーンズにポケットを入れたまま笑いかけた。
戦慄を、覚える。
彼にはやはり、どす黒いものしか感じない。
「追い掛けて、見付けた。君の名前、ゆうぐれって言うんだろう? 夕暮」
わたしの名前を、彼は知った。
誰が教えたんだ。
わたしは家に目を向ける。まさかそんな、家族の誰かと接触したのか。
舌の上で飴を転がすみたいに、甘くわたしの名前をもう一度口にした彼がわたしの前に立ち、顔を近付けてきた。
常備していたマスクを剥がされてしまう。
間近で合わせられた瞳が、深紅の色で濁る。
それに驚いてバランスを崩して倒れそうになった。
コンクリートの道路に頭を打ち付けると覚悟したが、その前に誰かに受け止められる。
肩を掴む手が、見えた。
人間の手には思えない。
尖った爪は長く、指は骨張って細く、掌は白く大きい。
まるで悪魔みたいな手だと思った。
わたしが顔を確認しようと後ろを振り返った瞬間に、支えを失いわたしはコンクリートの上に落ちる。
すぐに起き上がれるほどの軽傷。
後ろを見ても、誰もいない。
一瞬で消えるはずないのに、そこには誰もいなかった。
「あれあれ? 夕暮には姿を見せたくないみたいだね」
「うっ、嘘っ……本当にっ、誰か、なにかいるの!?」
男が笑う。
今の手の主は、男がわたしの背後にいると言った者。
本当に、わたしの背後になにかいる。
この目で視た。気配も感じ取った。
背後を何度も振り返るがいない。なにも視えない。
でも、いるらしい。わたしにつきまとってるらしい。
「全然心当たりない? なんで君に憑いてるのかなぁ? なぁんで?」
「そんなのわたしが訊きたいわよ!!!」
ただでさえ目の前の彼に混乱しているのに、後ろにも謎めいたなにかがいて、私はカッとなり怒声を飛ばす。
彼は驚き、目を見開いた。
パチクリと瞬くと彼の瞳が、ラズベリーのような色で輝いて見えてちょっと呆然とする。
「――――――――…おっもしろーい」
何故か怒鳴ったのに、上機嫌な笑みを浮かべられた。
面白いって何だ。
とても無邪気な笑みで戸惑う。
すごく禍々しい者なのに、爛々とラズベリーの瞳を輝かせた。
「ねぇ、ねぇ、夕暮。知りたいなら、夕暮の背後から引っ張り出そう」
「ひ、引っ張り出す……?」
わたしが腕を振り回しても、背後にいるであろう何かに触れられないのに、彼は引っ張り出すと言い出す。にこにこと笑いながら。
「どうやって……?」
「簡単だよ。ソイツ、夕暮を護衛してるみたいじゃん。なんだっけ……ほら、人間が変な架空物を作ったじゃん、えーと……ああ、守護霊! 守護霊みたいにべったりして、夕暮が怪我しないように助けたでしょ」
「しゅ、守護霊って…………なんで、わたしを助けるのよ?」
ますます意味がわからない。
彼は自分が人間ではないと白状するような物言いで、後ろにいるものを守護霊と例える。
寧ろ背後霊じゃないのか。
助けられる覚えはない。
「だぁから、それを知るために引っ張り出すの」
「どうやって?」
ついやり方を訊いてしまった。
あまりにも無邪気に笑うから、自分に身の危険が及ぶ方法だと気付かなかった。
わたしを助けるために出てくるのならば。
「くはっ……! 夕暮が命の危機に晒されればいいんだよー」
にっこりと笑みを深めた彼が両手を上げると、彼の足元に闇のような煙が舞い上がる。
いや――――…煙のような闇なのかもしれない。
どっちであれ、身の危険を感じた。
ゾワゾワと恐怖が駆け巡り、わたしは走り出す。逃げるべきだ。
何かされる。
何かを引っ張り出すためにわたしは何かをされてしまうっ!
何故こんな目に遭うんだ!!?
道を抜けて、大きな公園に入る。振り返ると車が丁度通り掛かった。
禍々しい煙を纏って追い掛けてくる男を見て、動転して事故るなーっ!!
って叫びたかった。
でも間に合うはずない。
盛大な事故が起きると思いきや、車は視界に入らなかったみたいに素通りする。
「えっ……なんで……」
「なんでって。コレ、視える人間は君くらいだからだ」
「はい!?」
「そーれっ!」
「ひやあっ!?」
両腕を広げたかと思えばわたしに向かって振る。闇はその指示に従いわたしに襲ってきた。
全力で地面を蹴って避ける。
わたしにしかそれ視えないってどういうことよ!?
霊感はないわよ!!
「貴方も、後ろにいるのも、一体何者なの!?」
「ん? んー……僕が言えるのはそうだなぁ……"名もなき星"」
「なにその中二病的な名前は! 腹立たしい!」
振り返らずに走りながら問えば、なんとも腹立たしい中二病発言。忌々しい!
その大きな公園に野球も出来るスペースがあり、庭園の間に遊具が並んでいて、その隣には桜の木に囲まれた小山がある。
そこまで登って振り返れば、男も足を止めた。
「ちゅうに、なに?」
きょとんとしている辺り、言葉を理解していないようだ。
でもすぐに理解することを諦めて、空を指差した。
「星だよ、星。ソイツは何処の星かなぁ?」
「…………エイリアン?」
星って、なんだ。エイリアンなのか、宇宙人なのか。
宇宙人ならわかりやすくグリーンで来いよ! 人間の姿で来るなんて卑怯だ! わかりやすく肌色をグリーンかグレーにしろや!
「んー、そうとも言うかなぁ。彼の正体を知ろうか!」
曖昧な返しをすると、また紅い瞳の彼が腕を振り上げた。
避けようとしたけど、ズルッと足を滑らせて一メートルの小山から落ちかける。
その前に誰かに受け止められた。
私の身体を包むように左右にある腕は、着物のような白い袖に包まれている。
振り返ろうとすれば、さっきと同じだ。
支えをなくした私は背中からドサッと倒れる羽目になった。
「あはは! そっちはかくれんぼかぁ」
「っ!! 面白くない笑うな!!」
痛さに耐えきれず、小山のてっぺんにいる彼に怒鳴れば、笑うことを止めて口を閉じる。
「…………んー。じゃあ、また明日」
目を瞬いたあと、彼は背を向けて去っていく。
私は起き上がり、背中の砂を払いながら彼を見送る。
一先ず命拾いした……?
謎がまた増えた。
わたしにしか視えない闇を操る宇宙人や、着物姿の背後霊。
一体地球はどうしたと言うんだ。
髪にまで砂がついているから、短い髪をくしゃくしゃと掻いて振り払う。
周りを見ても、私を受け止めた者はいない。
まだいるのだろうか。いるのだろう。
一体いつからわたしの背後にいるのだ。
あの宇宙人はわたしを前にも書店で見たと言っていた。
あの大きな書店は一ヶ月ぶりに行ったから、その時点ではわたしに憑いていたと考えていいだろうか。
憑いているからわたしに目がついた。
今日も走ってしまったわたしは、運動不足で悲鳴を上げている足を引きずりながらも家へと帰る。
背後にいると知った今、気が気ではない。
でも今更仕方ないと割り切り、風呂にもビクビクしつつ入り、就寝した。




