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3月~7月

 この村にも三月が来て、陽光の暖かさも増していき、冬の気配もだんだんと消えていった。学校は相変わらずで、みんな教室の中で沈黙しているだけだった。カンスケも学校にまた来るようになったけれど、もうわたしに目を合わせることがなくなっていた。わたしは少し腑に落ちていなかったが、自分が望んだことだから仕方がないことだと飲み込んで済ませた。

 土曜日となり、わたしは少し寝坊をしながら朝を迎えた。朝食を食べながら今日買ってくる材料をおばあちゃんに聞いた。それはいつもどおりの休日の朝で、変わりばえはなかった。わたしは朝食を済ませ、少ししたらまた雑貨店に行こうと考え、その間は少し食後の休憩をしてゆっくり過ごすことにした。わたしが椅子に座ってぼーっとしていると、突然電話がけたたましく鳴った。それは珍しいことで、わたしの家にはほとんど電話がかかってくることがなかった。わたしは誰からだろうと思い、立ちあがろうとするおばあちゃんを手で「大丈夫」と示し、電話まで行って受話器を取った。電話に出るのはいつ以来だったか、久しぶりすぎてちゃんと声が聞こえるのか若干不安に思った。

「もしもし?」

 わたしは受話器を耳に当てることを思い出しながら、その動作をした。

「これってちゃんと聞こえてるのか? もしもしって聞こえたけど、どういう意味だ?」

 向こうから人の声とは少し異なる耳ざわりの変な声が聞こえてきた。電話を掛けてきた主もどうやら電話に慣れていないようだった。

「聞こえてますけど?」

「その声はユバエか? ならこのままでいいのか。あっ、この場合『ユバエはいますか?』って聞くのか?」

「あの、わたしはユバエですけど、どちら様でしょうか?」

「何だ、やっぱりちゃんと声聞こえてないのか? 声聞いたらわかるだろ。僕だ。マダイだ」

「マダイ?」

 わたしは驚いた。まさか電話の相手がマダイだとは思わなかった。それにしてもマダイの電話は慣れていないどころか初めてのようで、全く段取りがなっていなかった。けれどわたしはマダイからの電話を嬉しく思った。マダイとは二月に見送って以来全く会っていなかくて、久しぶり、とはいってもせいぜい一カ月ぶりだが、こうしてまた声を聞くというのはいつもと一味違っていて、何だが新鮮だった。それにわたしは最近あまりクラスメイトと会話をしていなくて寂しく思っていて、クラスメイトとまた会話できるというのは楽しく思えた。

「どうしたの? いきなりわたしに電話して」

 わたしの声は少し弾んでいた。

「ああ、お前に報告しておこうと思ってな」

 向こうもどことなく浮き立った声をしていた。

「何?」

「受験合格したんだ」

「そうなの? おめでとう」

 わたしは思わずマダイが嫌がりそうなことを言った。けれど向こうも鼻をフンと鳴らして自慢げだった。

「まあ、何だ。僕は優秀だから当然の結果だがな。おい、今日時間は空いてるか? 勉強教えてやるわけじゃないけど、ちょっと話したいことがあるんだ」

「うん、空いてるよ」

「なら決まりだな」

 わたしはマダイとしばらく話した後受話器を置いた。ちゃんと切れているか確認するためまた受話器を取って耳を当ててみたけど聞こえてこなかった。

「今日は遊びに行くから、買い物はまた明日にするね」

 わたしはおばあちゃんに振り向いて告げた。仕事場のおばあちゃんはわたしを何か疑うようにじっと見ていた。

「どうしたの?」

 しばらくわたしを見た後、おばあちゃんは目を伏せてフッと視線をわたしから逸らした。

「……何でもないよ。行っておいで」

 おばあちゃんは少し落胆したような声を出し、わたしは疑問に思った。けれどわたしは心が浮き立っていたので気にしないで行くことにした。

「じゃあ、行ってくるね」




「それにしても、意外」

「何がだ?」

 学校で待ち合わせしていたわたしたちは、そのまま一緒に歩いていた。

「マダイが秘密基地持ってたなんて」

「……フン」

 マダイは鼻を鳴らして上を向いた。

「もうずっと行っていないからどうなってるか知らないが、まあ無くなってもこの天気だ。外で話せばいいだろ」

 それだけ言って、マダイは黙った。どうやらついてからまた話すつもりらしく、わたしもそれに従って黙った。道は舗装された道を道なりに進んでいき、ショートカットをしてごみの上を通ったりはしなかった。マダイは黙々とひたすらに歩き、わたしは余所見をしてぼーっとしていると置いていかれそうなって慌てて追いかけたりした。

 しばらく行くと目的地に着いた。マダイのダンボールやら木材やらで作られた秘密基地はもうボロボロになってて今にもくずれそうで、とても中に入れる状態ではなかった。何だか形がぎこちなくなっていて、正直不細工だった。

「……まあ、もういらないものだからな」

 マダイは秘密基地を見ていたわたしに言い訳のように言った。中に入っていき、いろいろ確認したようだけれど、やがて外に出て来て首を横に振った。

「まあいい、外でいいか」

 マダイはわたしに改めて向き直った。

「合格おめでとう」

 わたしは改めてマダイに言った。けれど電話口での時とは違い、マダイは何か不愉快そうな顔をした。

「ふん、おめでとうか。さっきも言われたな」

「そうなの?」

「ああ、大人どもからだよ。僕が別に合格したことも言ってないのに、どこで嗅ぎつけたのか、合格して以来僕の家まで押し掛けて『マダイくんはいるか?』とぶしつけに言ってくるんだよ。今まで家になんて来たりしてこなかったのにな」

 マダイは忌々しそうに行った。

「……マダイは、受験で都会に行く時も大人たちに囲まれてたね」

「そいつらだよ。来たのは一人だけじゃなくてそういうのが何人も来たんだ。全く下心が見え透いて、朝っぱらから不愉快だ!」

 マダイは憤慨した。久しぶりに会ってもどうやらわたしとマダイのする会話の内容は変わっていないようだった。

「僕は合格してからも忙しいというのに、低能の連中は慮るということもわからず群がってくるんだ。自分が合格したわけでもないのに何かいい気になった顔つきをして僕を見てくる。お前らために僕は勉強してきたのではないというのに」

 マダイは苛々として不満を話した。わたしは前の時と同じようにじっと黙って聞いた。マダイはわたしの様子を見て、ハッと気がづいたような顔をした。

「っと、こんなくだらない話をしに来たんじゃないんだ」

 マダイは突然真剣な顔をしてわたしの顔を見た。わたしもつられて少し緊張した。

「単刀直入に言えば、今日はお前に別れのあいさつをしにきたんだ」

 マダイが静かに言うと、わたしは今頃になってやっと気づいた。合格したということは、マダイが向こうの高校に行って村から離れるということだった。だからもうマダイとは会えなくなるかもしれないということだった。わたしはそのことを認識してせっかくまた再開できたのに、急に寂しい気持ちになった。

「どうした? 僕がいなくなるから寂しいのか?」

「……うん」

 わたしは素直に答えた。マダイはフンと鼻を鳴らした。

「村の人間はお前と違って僕がいなくなろうがどうとも思ってないんだがな。合格だけしか目に入っていなくて僕には目もくれていない。そんなふうに僕がいなくなって寂しがるのはお前と、それから、母ちゃんだけだな」

 マダイは少し寂しげに、つまらなそうに言った。そこで、わたしは気になっていたことを思い出した。

「そういえば、お母さんはどうしてるの?」

「……今は仕事に行ってるな」

「あっ、そうなんだ」

 わたしはほっと安心しかけた時、マダイが沈痛な面持ちをしていることに気づいた。

「どうしたの?」

「ああ、いや、まあな」

 マダイは歯切れ悪くあいまいに答えた。しばらく黙って目を伏せていたが、やがてまたわたしに目を向けた。

「……また、母ちゃんが体を壊してな。受験へ行く時だって寝込んでて働けなかったのに、今も無理して行ってるんだ」

「……大丈夫なの?」

「大丈夫なわけあるかよ。僕も止めようとしたけれど、マダイの大事な時だからって働くのを止めようとしない」

 マダイはため息をついた。やはり心配なのだろう。

「……お母さんは、マダイが都会に行く時にはどうするの?」

「……ここに残るんだよ。前にも話しただろ? 母ちゃんはずっと学費や滞在費のために働いてきたって。まだ母ちゃんまで都会に行くほどの余裕はないんだ」

「……そうなんだ」

 わたしはマダイとマダイのお母さんのことを考え、憐憫の念を抱いた。

「……寂しくなるね」

「ふん」

 けれどマダイは口にしたわたしを小馬鹿にしたようにしてわたしを見た。けれどそれも一瞬だけで、すぐ改まってわたしに向き直り、決心したようにわたしに語った。

「僕のところはな、そんなこと言ってられないんだ。僕は何としてでも勉強して立派な人物にならなければならない。それが母ちゃんの願いだ。一時の感情に流されるようではいけない。僕はこれからも怠らず勉強して、そして大人になったら母ちゃんを都会に呼んで一緒に暮らすんだ。僕の金で母ちゃんを養えるくらいになって、働かなくてもいいようにするんだ。母ちゃんはずっと都会に戻ることに憧れていたからな。僕が偉くなってそれを叶えてやるんだ」

 マダイはまじないのように唱えた。マダイは今受験に合格して、将来の夢を見ているようだった。それもお母さんのために。何だかそれは素晴らしいことのように思えて、やっぱりマダイを羨ましく感じた。

「マダイの夢、叶うといいね」

「叶えなければならないんだよ。僕はそのために今まで生きてきたんだからな。それでこそ僕の人生の目標は達成される」

 人生の目標といった大きなことはよくわからなかったが、わたしはマダイが夢に向かっていく姿を応援したくなった。相変わらずわたしがマダイに抱く感情はそのことだった。お母さんを大切にするという気持ちをずっと持っていてほしいと思った。

「……頑張って」

「…………」

 マダイは鼻をフンとも鳴らしもせず、わたしの言葉を聞いて黙ってわたしを見ていた。少し今までと態度が違っていて、けれど悪い感じのものではないようだった。しばらくしてマダイがわたしに背を向けて気がついたようにまた秘密基地の中へと入っていった。中から何かボロボロの本を持ってきてわたしに見せた。

「これをお前にやるよ」

 わたしはマダイから本を渡された。パラパラとめくってみたが何の本なのかわからなかった。

「これ何の本?」

「参考書だよ。今までずっと僕が使ってたんだ」

 マダイは嬉しそうにしていた。けれどわたしは戸惑っていた。

「どうしてわたしに?」

「決まっているじゃないか。お前にも短い間だったが恩があるからな。だからお礼をしてるんだよ」

「……それで、参考書なの?」

「そうだ。この本は僕がずっと受験勉強で世話になってきた本でな。合格できたのはこれのおかげなところがある。まあほとんど僕の努力のためだけどな。まあ、だからお前も努力してその参考書を勉強すれば、帝国附属高校とまではいかなくても都会の学校に行けるということだ。学校で習う基礎を徹底的にレクチャーしてあるから初心者にもお勧めだ」

「う、うん」

 わたしは正直都会に進学することは考えていなかったからいらなかったけれど、マダイの好意を無駄にしてはいけないと思い返事した。マダイは満足したようだった。

「その本は僕の夢を実現する礎を築いたものだからな。大事にしろよ。ありがたく思え」

 マダイは大威張りでわたしに言った。わたしは何だかありがた迷惑な気がしたけれど、とりあえず受け取っておくだけ受け取っておくことにした。




 春休みもあっという間に過ぎて、わたしは二年生になった。新しい学期が始まるのに伴って、村の様子も大きく変化していた。

 わたしが朝目覚めると、ブルドーザーの音が聞こえていた。おばあちゃんは食事の支度を黙々と続けていて、家の中は、雑多な機械の、そこかしこの隙間から入ってくる音だけが響いていた。耳はもう慣れていた。わたしは普段のようにパジャマを着替えてから椅子に座っておばあちゃんの食事をじっと待った。食事の準備ができたらしく、おばあちゃんはお盆に料理と食器を載せてわたしの前に置き、わたしの向かい側に座った。いつも自分の分は用意しなかった。食事をしているわたしにおばあちゃんがポツリと言った。

「あと二年か……」

 おばあちゃんは目を瞑りながらため息を吐いた。

「そしたらユバエも、働くことになるんだねえ……」

 わたしは将来のことをあまり考えてはおらず、自分が働いている姿というものをイメージできなかった。けれど特に村を出て高校にも行くつもりもなかったから、そうなるのは必然的なことなのかもしれない。

「……おばあちゃんは、わたしが仕事するようになったら寂しい?」

 おばあちゃんは目を瞑ったままゆっくりと首を横に振った。

「……わたしにもわからないよ」

 食事を済ませたわたしは、食器を置き放しにしてすぐかばんを持って玄関の前まで言った。

「……じゃあ、行って来るね」

「……いってらっしゃい」

 おばあちゃんのあいさつを聞き、扉を開けた。わたしの体は一気に外の轟音に包みこまれ、肌の感覚がしびれてなくなってしまうように感じた。

 新学期の初日の登校で、わたしが通る道は変わっていた。以前まで通っていた道はごみ山置き場から埋め立て地に変更され、大人たちが朝から晩までひっきりなしにがれきを処理していて通れなかった。新しい道もまた埋め立て地で、けれどもう埋め立てが完了して大人たちはもうそこを走らなかった。わたしはがれきの埋められた地面を歩いた。周りはとても静かに感じられ、遠くからただ機械の音だけが聞こえてきた。周りを見渡してもごみ山が見当たらない。わたしは少し不安になった。普段ならごみ山に導かれていれば学校につくはずなのに、今は自分の足の記憶を頼りにしなければならなかった。前にもここは通ったはずなのに、以前と姿が全く違っていた。景色には何もなかった。わたしは方角を確かめながら進んだ。けれど曖昧な記憶が歩みを覚束なくさせ、わたしが進んでいる道が正しいのか確信できなくなった。歩いても歩いても景色は黄土の大地だけだった。不意に、今は大人たちがひしめく元の通い道に戻りたくなった。そうすればまた、ごみ山に導かれて正しい道を進めるように思えた。けれどその道はもう塞がっていた。わたしは結局がれきを踏みながら、何もない道をでたらめに歩いた。

 わたしは登校中に少し迷子になり、最初の授業を遅刻した。わたしは学校に着くと駆け足になり、すぐ教室に飛び込んだ。けれど教室の中は静かで、四人しかいなかった。マダイがいない、カンスケがいない、そしてユウジもいない。わたしが小学生だった頃は新学年はもっとガヤガヤしていて、新入生を窓から見かけたりもしたのだが、全くその気配がなかった。わたしが最初に目に入ったのはミヤマエだった。ミヤマエはぼんやりと座っていて、前の黒板に焦点を合わせず目だけを向けていた。口を固く結んでいて、誰とも関わろうとしていなかった。次にヨウタを見た。ヨウタはただ机の上に両腕の輪を乗せて、頭を組んだ腕に埋めていた。顔を見ることができず、どんな表情をしているのかも何を考えているのかもわからなかった。最後にセイラを見た。セイラは顔をうつむけて机の上にじっと視線を向けて静止していた。一瞬いつもと変わらないと思ったが、少し違っていた。口元がわずかに緩み、微笑んでいた。セイラはどこかすがすがとしていて、隈とニキビの隙間から明るみのある表情を醸し出していた。わたしが席に着くと、ちょうど先生が入ってきた。先生は何にも関心のなさそうな顔をして、けれどどんよりとした雰囲気を出していた。教卓の前に着くと、先生はいきなり話し始めた。

「みなさんには新学期が始まったばかりですが、大事な連絡事項があります」

 教卓に両手を置いた先生の態度は改まっていて重々しかった。先生の話し方はいつもの面倒くさそうな話し方ではなく、本当に真剣味を帯びていて、教室の空気を一遍に緊張させた。わたしは身構えて先生を注視した。

「今学期を以て、学校は閉校することとなりました」

 先生は言うと、持ってきていたプリントを生徒たちの机の上に順々に置いていった。機械のような義務的な動きだった。わたしは突然の発表に体を硬直させていた。視線を落とすとさっき配られたプリントがあり、一番上には「閉校のお知らせ」という表題が太く大きな字が、その後には淡々と閉校の理由は生徒の不足であることを書いた文章が印刷されていた。




 学校ではその後特に正課の授業があるわけでもなく、先生が淡々と閉校の話をして今日の授業は終わった。わたしは途方に暮れたまま教室を出て、自分がこれからどうすればいいのか、おばあちゃんにはどういえばいいのかと考えながら靴に履き替えた。校庭をうつろな足取りで歩いていると、わたしを追いかけてくる足音が聞こえた。ミヤマエだった。ミヤマエは今朝教室で見たように焦点を合わせない目でわたしを見ていた。立ち止まったわたしを確認すると、走るのを緩めて歩みに変え、一歩ずつゆっくりとわたしの前まで近づいた。

「……なんていうか、久しぶり」

 歩みを止めたミヤマエは、どこかよそよそしい声をわたしに掛けた。

「……うん」

 止まったわたしたちはお互いをしばらく確認するかのように見合って、そして肩を並べ出した。

「……学校が終わるなんて」

 わたしは沈んだ声を発した。

「……私は知ってたけど」

「……そうなの?」

「うん」

「……どうして」

「カンスケが言ってたから」

 わたしはカンスケという言葉を聞いてうつむいてしまった。もう会うことがなかった。

「……フラれたの」

 沈黙していたわたしにミヤマエが突然話を切り出した。

「カンスケから、春休みフラれたの。何でか知らないけど」

 ミヤマエは不満そうに、そして悔しそうに呟いた。

「……わたしも前にフラれらたよ」

「知ってる」

 ミヤマエはつまらなそうにわたしを横目で見た。苛立ちを眼に宿していた。

「……アンタたちが別れる前からだけど、また急に私を呼ぶようになったから、どうせアンタのことだってわかってた。私が聞いたら案の定ムカつくから絶交したっていってた。結局私も捨てられたわけだけど」

 ミヤマエはカンスケに関する不満をわたしにぶつけた。けれどカンスケのことについてのもの以上の感情を、ミヤマエはぶつけているように思えた。それは釈然としない曖昧なもので、不満という感情で代用することでしか表せない陰性の感情で、どこへぶつけても解消されない。

「……カンスケは、どうしてたの? 今日も学校来てないみたいだけど」

「……あいつ学校辞めたみたいだから」

 ミヤマエはまたつまらなそうにいった。

「どうして?」

「知らない」

 わたしの声を打ち消すようにして答えた。カンスケのことはもう話されたくないようだった。――ふと見ると、少し目が潤んでいた。

「なんていうか、もう終わっちゃった」

 ミヤマエがポツリと言いだした。

「私、何かやることなくなっちゃったから。男にもフラれたし、学校にもいけなくなっちゃうし」

 ミヤマエは努めて平然として言った。その態度が嘘だというのはわかった。

「私、どうなっちゃうのかな。都会の人ちゃんと捕まえられるのかな」

 ミヤマエは声を無理に張って潜めている感情を出さないようにしていた。声は震えていて、肩を落とした姿は幼く見えた。しばらくして、ミヤマエは感情を振り払うように急にわたしのほうを向いて、不自然に話題を切り換えた。何気ないふうを装っていた。

「……そういえばさ、マダイのやつってどうしてるの? あいつアンタと仲良かったんでしょ? 一月からいなくなってたけど、受験はどうなったの?」

 ミヤマエは早口に言った。ミヤマエがマダイについて話すことを不審に思った。

「ねえ、どうなったの?」

 ミヤマエはどこかおずおずとして聞き、わたしの答えを急かしていた。

「……マダイなら合格して今都会の高校に行ってるよ」

 マダイとは秘密基地で別れて以来、一度も会っていない。わたしはその時行く時は見送りをすると言ったけれど、マダイは嫌がって断り日程も教えてくれなかった。

「そっか、あんなやつでも都会に行けたんだ。良かった良かった」

 ミヤマエは不自然に明るい声を出して喜んだ。「良かった」と繰り返しているが、マダイに対してミヤマエはよく思ってないはずで、マダイを祝福しているようには思えなかった。むしろ「良かった」というのはマダイを自分に重ね合わせて自身を安心させようとしているようだった。けれど嬉しそうにしていた顔はすぐにはがれ、だんだんと顔を固くして沈痛な面持ちとなった。潜めていた感情が顔の隙間から見えてくるようだった。

「ねえ」

 ミヤマエは突然改まったようにわたしに声を掛けた。ミヤマエはわたしを見たままで、何も言わなかった。けれど何かを言おうとしていて、ミヤマエはためらっているのがわかった。わたしもミヤマエをじっと見て、ミヤマエの言葉を待った。ミヤマエはわたしの瞳を確認し、やがて鈍い歯車が回るように言葉を発した。

「……この村っておかしくない?」

 わたしは予想外の言葉に呆気に取られた。わたしは自分が育ってきた村をおかしいと思ったことはない。ミヤマエだってここでずっと暮らしてきたはずなのにどうしておかしいと思うのかと疑問に思った。わたしのキョトンとした顔をミヤマエはじっと見た。やがてミヤマエはいらいらとした様子となってわたしを睨んだ。

「やっぱり、アンタってそういう顔する!」

 突然怒ったように大きな声を出した。わたしに失望の念を顕わにしていた。

「ホンッットわかってない、全然わかってない! おかしいでしょ! 何でわかってないのよ! アンタだけじゃなくてみんな! この前からずっとうるさくなったし、仕事ばっかで疲れたような顔してるし、ごみばっか増えても何とも思わないし、誰も全然楽しく話したりなんかしないし。それでも本気で今のままでいいんだって思ってて、おかしいことしかないじゃない!」

 ミヤマエは顔を赤くして怒鳴りだした。眼には涙を浮かべていて、泣き出しそうにしていた。ミヤマエは潜めた感情を爆発させてわたしにぶつけた。それでも感情の全てを吐き出しきれていないようだった。わたしはミヤマエの突然の怒りに戸惑い、何と声を掛けたらいいかわからなかった。ミヤマエはなおも理解できていないわたしの様子にとうとう愛想を尽かした。

「もういい! アンタと話してても全然意味ない!」

 ミヤマエは一人駆けだした。わたしは手を伸ばして制止しようとしたけれど届かなかった。わたしたちが帰っていた道は埋め立て地で、周りには何もなかった。ミヤマエはただ何もない広い平地を闇雲に走っていった。




 教室の中の時間は浮浪するように過ぎていき、あっという間に五月になった。学校がもう終わってしまうのだから、勉強しても意味がないとも思えたが、それでもわたしは勉強を懸命に続けていて、一年生の時よりも熱心になっていた。わたしは五月になると、「後三ヶ月」と心の中でカウントダウンをした。けれどそのカウントダウンがなくなった時、学校に行かなくなること以外にわたしにどのようなことを意味するのかはわからなかった。前の「後四カ月」というカウントダウンからまた数が減ると、わたしはさらに勉強に熱心になった。勉強なんて楽しくないはずなのに、わたしは固執するように机に向かった。

 五月の最後の土曜日になり、わたしは少しフライングして「後二カ月」と心の中で唱えた。土曜日は買い物の日で、わたしは買い物を終えるとすぐに中央の机の椅子に座って勉強に取りかかった。宿題が終わると、教科書を開いた。既に習った箇所を読み返したり、後で習うところをざらっと見たり、そしてもう習う予定のないところまで見たりした。わたしがしばらく勉強に夢中になっていると、けたたましく電話が鳴った。電話が鳴ったのは三月にマダイがかけてきて以来だった。おばあちゃんが立とうとするのをわたしが手で制して電話を取った。担任の先生からだった。先生はただ明日の日曜日は大事な知らせがあるから朝のホームルームまでの時間に学校へ来るようにとだけ伝えて、わたしが理由を尋ねるよりも早くに電話を切った。休みの日に急に学校へ呼びだされるのは初めてだった。わたしはもう学校へ行かなくなるのに、今さら何なのだろうと釈然としない気持ちになりながらまた机の前に向かった。

 日曜日となり学校へ行くと、ミヤマエ、ヨウタ、セイラはもう既にいた。新学期からもうこのメンバーしか学校には来ていない。先生も教卓の前に既にいて、けれどわたしが座っても何も話そうとしなかった。しばらく何の話だろうと疑問に思いながら待っていると、教室の扉が開き、ヨウタのお父さんが入ってきた。相変わらず疲れたような顔をして、それが以前よりも増しているように見えた。教卓の前までおじさんが行くと先生が横に移動して隣を空けた。おじさんは教室の周囲を見渡して生徒を確かめると、ため息をついた。おじさんが話をするらしい。

「みんなに今日来てもらったのは、残念なお知らせを伝えなければならないからです」

 おじさんの声は落ち着いていて、事務的だった。ここへ来たのも仕方なくといった感じだった。それでもわたしはいつもと違う教室の雰囲気に、固唾を飲んでおじさんの言葉を待った。けれどわたしの態度と裏腹に、自分がもうこれ以上残念な知らせを聞くのが嫌に思えていた。おじさんは口を開いた。

「知っている人もいると思いますが、おととい孤児院で放火がありました」

 わたしはあっと声を上げそうになった。おじさんは淡々と話を続けた。

「犯人は、みんなのクラスメイトのユウジくんです。幸いケガをした人はいませんでしたが、孤児院は建物の半分ほどが焼けてしまって、今再建し直しているところです。そしてユウジくんについてですが、みんなには残念ですが、えっと、村のルールに従い、昨日ユウジくんを村八分にすることにしました」

 わたしはおじさんの話に愕然とした。本当に起こってしまうとは思っていなかった。そして自分が事前に聞いていたのにユウジをほったらかしにしたことを後悔した。わたしはその念を振り払おうと言葉を発してそれを濁した。

「ユウジは、どうしてるんですか?」

 おじさんがわたしに一瞥した。

「今はわかりません。ただ私がユウジくんに告げると、本人は黙って了承してくれました。私が村の外まで車でユウジくんを連れていって降ろすと、そのまま彼は村とは反対の方角へ歩いていきました。荷物も特に持ち出そうとはしていなくて、ずっと彼は直進して歩いていました。私がしばらく見ていても、彼は村を振り返ることもなかったので、おそらくどこか今も浮浪しているのだろうと思います」

 おじさんは淡々とあらましだけを伝えた。それでもわたしは言葉が足りなくて、話を紡いだ。後悔の念をなるべく濁したかった。

「どうして、ユウジはそんなことしたんですか?」

「わかりません」

 おじさんは一度めと同じように答えた。

「私がユウジくんに理由を聞いても、彼は何も答えずただ曖昧に笑っているだけでした。孤児院の職員の人や、先生にもきてもらいましたが、それでも彼は何も語ってくれませんでした。彼が言葉を口にしたのは、私が彼の決定を下し、そしてそれに返事をした時だけです。ユウジくんについて周りの人たちに聞きましたが、誰もユウジくんが今回の事件を起こした理由に思い当たりがなく疑問に思っていました」

 おじさんは答え終えると、その後は火災に気をつけるだとか孤児院の子どもたちの今後だとかという話をした。わたしには興味のない話だった。わたしは結局ユウジのことが何もわからなかった。話を聞く中で何度もどうしてやったのだろうという疑念が生まれた。わたしはわずかなユウジに対する記憶を探ってみたが、明確な答えは見つからなかった。いつもつまらなそうにして、どうでもいいとばかり言っていた。そして放火する理由は確かどっちでも同じことだからだと言っていた。けれど今になっても何が同じなのかわからなかった。わたしは自分の残っている後悔の念を紛らわすように周囲を見た。ヨウタはうつむいて黙っているだけで、全く表情が読めなくて、奥のセイラはどこか口元だけで嬉しそうにしていた。そして隣のミヤマエは、さっきからチラチラと様子が見えていたが、話を聞いている時も今も眉を顰めて悲しそうな表情をしていた。その横顔は子どものように無防備で頼りなく見えた。




 六月は目まぐるしく出来事が起こっていた。それらはユウジの事件を皮切りにするかのようにして連続で起こっていった。「後二カ月」に差し掛かった時に急くようにして起こった。それらひとつひとつがわたしと大きく関わり、重大な事のように感じた。けれどわたしはそれらの出来事たちを経験しても、日常に何も変わりばえを感じなかった。




 外の騒音に紛れて電話が鳴った。わたしは動こうとするおばあちゃんを制して電話を取った。夕暮れも沈み、夕食も済ませた頃で、その時までわたしはただひたすら勉強ばかりをしていた。

「もしもし?」

 わたしは尋ねた。

「ああ、ユバエちゃんか。こんばんは」

「おじさん?」

 ヨウタのお父さんだった。

「ああ、役所から電話してるんだけど、ちょっとうるさいから場所移るね」

 電話からも機械の音が漏れていた。大人たちは日が暮れても仕事をしている。

「どうしたんですか?」

「……これは、大人の話なんだけど、多分君にも関係ある」

 おじさんはふうとため息をついた。

「マダイくんのお母さんが今日亡くなった」

 わたしは黙り込んだ。人の死を突然知らされたことにどう反応すればいいのかわたしにはまだその答えが身に付いていなかった。それもクラスメイトのお母さんだ。悲しいのか、驚いたのか、そのどちらでもないのか、自分でもわからなかった。

「どうして、亡くなったんですか?」

 わたしは聞いた。目の前のわからないことを聞くことで、話を紡いだ。

「ずっと前からなんだ」

 おじさんはため息をついた。何だかこの人も、わたしと同じで反応に困っているように思えた。

「お子さんが学校に行くようになってからまた急に仕事を増やすように頼んできたんだ。でも彼女の様子が明らかにおかしかった。眼は充血してて喋ってる時だってずっと咳ばかりしていた。顔も赤くなって汗がダラダラ出てて、傍目から見ても病気だったよ。それでもオレに文字通りしがみついてきて離さなかったんだ。『仕事をくれるまでは帰らない』とまで言って、ものすごい形相だったよ。仕方なくいちおう仕事は与えてみたんだが、案の定無理だったみたいで倒れちゃってさ。その後は家で療養してずっと医者の厄介になってたんだ。オレも責任者だから見舞いに行かなきゃならなかったんだよ」

 全く忙しいのに、と誰にも聞こえないようにして小さな声でおじさんは呟いた。わたしは聞こえていない振りをした。

「でもまさか、死ぬなんて思っていなかったんだよ。今朝急に医者から呼びだされて奥さんの容態が急変したって。そのままぽっくりだよ。まだ若いってのに。全く、だからオレは何度も止めたんだ。仕事ばっかりじゃ体に悪いって」

 おじさんは何だか言い訳がましく言葉を続けた。自分が悪くないと言っているかのようだった。

「マダイは?」

 わたしはおじさんの話を無視するようにして聞いた。

「……ああ、そうだったね。君はそっちにむしろ関心があるか」

 話の出鼻を挫かれて、おじさんは慌てて話を切り換えた。

「まだ連絡してないんだ。実は役所でも向こうの住所がわかってなくてね。なんせ管轄外だから。多分マダイくんのお母さんの家に行けばわかるから、明日に連絡することにするよ」

「明日?」

「ああ、明日は葬式をあげなくちゃいけないからね。今それを村じゅうに伝えてるところなんだけど、まだみんな仕事中だから。最初に君のところに連絡したんだ」

 後は葬式をあげる時間を告げられた。場所はいつもの場所なので言う必要がなかった。わたしは村の葬式がある時、こうした連絡は何度か受けたことがあった。そして葬式のやり方も知っていた。

「明日、マダイの家に行ってもいいですか?」

「どうして?」

「式の手伝いをしたいと思ったので」

「学校はいいの?」

「休みます」

 おじさんはしばらく黙った。少し考えているようだった。

「……君がそうしたいならいいよ」

 おじさんは式の準備が朝の早くの時間に始まることを告げた。

「ありがとうございます」

 わたしはお礼を言ってしばらく必要なことを聞いてから電話を切り、中央の机へと向かった。

「何の電話だったんだい?」

 仕事場のおばあちゃんがわたしに聞いた。わたしたちの会話は機械の音に掻き消されていたようだった。

「何でもないよ。わたし、明日は学校休んで早くに出掛けるから」

 おばあちゃんは不可解そうな顔をした。わたしはおばあちゃんに伝える必要がないと考えて、わたしは何も言わなかった。おばあちゃんはこうして葬式の連絡があっても全く行くことがなかった。足がまだ悪くなかった時からそうで、電話で連絡されるごとに冷たく参加を断っていた。わたしは椅子に座って勉強を再開した。隣には参考書があり、マダイから秘密基地でもらったものだった。




 明日、まだ音のない早朝にわたしは起きた。おばあちゃんがぐっすり眠っているのを確認して、わたしが学校に休むと連絡してもらうための伝言と、朝食はいらないという伝言を紙に書き残して家を出た。無音の空間にわたしは包まれ、まだ薄く白んでいる陽光を浴びた。わたしは眠気を覚ますために、朝の乾いた空気を吸った。マダイの家の場所はおじさんに聞いていた。案外自分の家の近くにあった。マダイからは一度も聞いたことがなく、おじさんから聞いて初めて知った。マダイはわたしも誰も、家に入れたがらなかった。それは勉強を邪魔されたくない、という理由より、お母さんに会わせたくないからだと思う。お母さんは村の人を嫌っていて、会うことを嫌がっていたからだ。マダイは言葉の端々からお母さんに対する思いやりの気持ちを見せていた。小さな頃からずっと大事にしてたお母さん。その人がもういなくなった。今日マダイにそれを知らせると言っていた。何だか残酷なような気がした。ちゃんと知らせなければいけないとはわかってはいたけれど、わたしはそれを知らされた時のマダイのことを思うと、沈んだ気持ちになった。

 わたしがマダイに対して思いめぐらしていると、突然朝の空気を引き裂くくらいの音が響いた。けれどそれは大人たちの仕事の音とは違っていた。わたしが音のほうを見るとバイクが走っていた。バイクは前に聞いた時よりもブンブンとうるさく鳴らされていて、上には例の新聞配達の人が乗っていた。黄土の道を走り、わたしの前に止まった配達の人は、見るなり口から堪えた笑いをこぼした。にやにやとした目つきでわたしを侮辱するかのようにして見ていた。新聞を乱暴に投げた。わたしの目に新聞がかすり、思わず目を押さえて顔をうつむけてしまった。わたしのその様子を見た配達の人は、今度は声をあげて笑いながら去っていった。わたしは目の痛みが治まるのを待ってから新聞を拾った。赤い丸で記事が囲まれていた。わたしは「あっ」と声をあげた。

――帝国高校の生徒、校長を刺す――

――帝国附属高校の校長――病院に運ばれた。――犯行に及んだのは安座間地方の少年(十五歳)――ナイフを所持し――計画的な犯行――取り調べでは少年は黙ったままで――動機は不明――少年の村は行政地区で――ごみ処理を行っている。――普段の学校生活は――問題なく、成績も優秀だった。――母親からの仕送りで生活して――被害者と少年との因果関係を中心に引き続き――。

 わたしは新聞の文章を何度も拾いながら、混乱した頭を整理しようとしていた。それもままならず、わたしは何故という疑問ばかりが浮かんでいた。咄嗟にわたしは家の中へと戻った。乱暴に扉を開けた拍子に大きな音が鳴った。奥で眠っていたおばあちゃんはびっくりしたように起きてわたしは見た。おばあちゃんは声を掛けてきたけれど、わたしは夢中になって聞かなかった。わたしは靴のまま玄関を上がり、中央の机に置いてあった参考書を手にし、そのままかばんに入れてすぐ出ていった。目的地まで闇雲に走った。どこか暴力的な感情を抱いていた。わたしは自分でもどうしてここまで躍起になっているのかわからなかった。




 マダイの家に着くと、おじさんはもう家にいた。家はやはりわたしの家とほとんど変わらない造形だった。わたしは息を整えながら玄関を上がった。

「どうしたんだい? そんなに慌てて」

 おじさんが聞いた。わたしは少し落ち着きを取り戻していた。

「……すみません」

「いや、謝ることじゃないけど」

 奥のベッドには女性が眠っていた。わたしが近づいて見てみると、茶色にひどく汚れた白い布がかぶされていて顔が見えなかった。

「……君だけだよ、来てくれたのは。そりゃあみんな仕事しなきゃいけないから手伝いなんてできないだろうけど、さすがに一人だけってのもねぇ」

「……おじさん」

 わたしははやるようにおじさんに聞いた。走り出した時と同じ衝動がまだ少し残っていた。

「……新聞、読みました?」

 おじさんは急に黙りだして、やがてふうと息をついた。

「……まさか、葬式の日にあんなニュースが入ってくるとは思わなかったよ。かわいそうにねぇ」

 おじさんは他人事のように呟きながら、周囲の箪笥などを開けて服をかきだし始めた。

「どうして、マダイはやったんですか?」

 おじさんなら何か知っている気がした。

「ユバエちゃん、手伝いって何するかわかってるよね」

 けれどおじさんはわたしの質問を塗りつぶすようにして尋ねた。

「……はい」

「じゃあ、家の中から何か燃えそうなもの集めて玄関の前に置いていって」

 おじさんは何も答えてくれそうになかったので、わたしは仕方なく指示に従った。しばらく沈黙が家の中で続いた。わたしはおそらくマダイがそこで勉強していたのだろうと思われる抽斗の中を開けた。中には封筒が何枚にも重ねられていた。わたしは一番上の封筒を取って中を確認した。折りたたまれた、白い紙が一枚。手紙だった。わたしは目をハッとさせた。手紙の文字は乱雑にそこらじゅうに書かれ、白い紙面を黒く汚していた。


くそばばあなんで金ねえんだよ金よこせよなんのために勉強したしたとおもってんだふざけんじゃねえよ役立たずが ばばあはたらけよ金よこせ なんでぼくがこんな目にあわなきゃいけねえんだよ 生きてるかちねえよ死ねよ


 手紙からあふれそうなほどの罵倒が目に何度も何度も飛び込んできた。わたしは手紙の言葉を信じられない気持ちで体を硬直させながら見返していた。

「……人のものを勝手に読むもんじゃないよ」

 後ろからおじさんがわたしから手紙を奪った。けれどおじさんはわたしの様子がおかしいこと気付いた。

「どうしたんだい?」

 わたしは黙って緊張した指で手紙を指した。おじさんはふと手紙に目をやり、やがてすっと静かに目を離した。

「…………」

 おじさんは黙っていた。手紙に対して何か反応することが全くないようだった。まるで手紙のことを知っていたかのようだった。

「おじさんは……」

 わたしは声を沈めて聞いた。

「おじさんは、何か知らないんですか?」

 おじさんはわたしをしばらく見て、観念したかのようにため息をついた。

「……こんな話を子どもにするべきとは思わないけどなぁ」

「知ってるなら教えてください」

 わたしは衝動を秘めたまま急かした。ますます大きくなっていた。

「……まあ、もう隠しだてもできないか。じゃあ話すよ。……実はマダイくんのお母さんが倒れたのは、その手紙を読んだ頃なんだ。まあ、その手紙じゃなくて、多分下のほうにあるやつだけど。オレが看病に行った時、手紙を見せられたんだ。保成さん、保成さん、マダイが、マダイが、って何かうなされたように繰りごとを言って、それから寝台の上でちゃんと動けない状態なのに働かせてください、働かせてください、って何かに取りつかれたような感じだったんだ。正直その時は嫌になっちゃったよ。オレも何度もなだめようとしたけど、その度に大きな声を出して反発して、体を苦しそうにさせて、本当見てられなかった。……多分だけど、マダイくんがそんな手紙書いたのはお母さんが学校にお金を払えてなかったからなんじゃないかって思うよ。いっつも学費学費って言ってたし、都会のところは高いから。だから多分それを学校から知らされでもしたマダイくんは学校が行けなくなるんじゃないかって不安に思ったんだと思うよ」

 おじさんはわたしをなだめるように説明した。マダイが小さい頃から働いてお金を貯めていたはずなのに、そんなに学費というのは高いものなのかと疑問に思った。わたしの中学校は無償なのに。それに、この村はお金にはあまり困っていなかったのではなかったのかと思った。わたしはマダイのことを考えた。お母さんのことを考えて都会の高校に入学したはずだった。けれど手紙からは憎悪だけしか感じられなかった。わたしは認められなくて、抽斗の残っていた封筒の中を次々と取り出して読んでいった。罵倒、罵倒、罵倒、どの手紙もお母さんに対する罵倒ばかりだった。最後の一番下にあった封筒の手紙を取り出した。思い浮ぶ想像とは裏腹の、わずかな希望を持って手紙を見た。手紙の文章はさっきまでの荒々しい字ではなかった。落ち着いていて、きれいな字だった。


お母さん、体の具合は大丈夫ですか。僕は今帝国附属高校で日々研鑽を重ねています。都会の勉強はやはりすごくて、内容もレベルも全く違い、僕はそれにいつも感銘を受けています。授業のスピードがとても速く、つい置いていかれそうになることもあるけれど、僕は先生にわからないことを積極的に質問し、復習も予習もクラスの誰よりも行っているから大丈夫です。初めての一人暮らし、最初はとても不安でした。けれど生活を続けていくうちに、お母さんがずっとやってくれていた料理もでき、洗濯もでき、買い物もできるようになり少しずつ一人前になっていくのを感じます。僕はずっと努力をしてきましたし、これからもしていくつもりです。このまま努力を続け、将来は偉い人物になって、お母さんを都会に連れていってあげます。僕はずっとお母さんの願いを叶えるために勉強してきました。その日が来るのがとても待ち遠しいです。初めての手紙はどう書いていいかわからず、もっと書きたいこともありますが、今回はこれくらいにします。少し書いていて恥ずかしい気持ちにもなりました。体を大事にして、無理はしないでください。


 手紙にはよれよれになっていて、指の後がそこらじゅうについていた。マダイの最後の手紙は子どものような文章で、けれどお母さんに対して純粋な気持ちを伝えようとしているものだった。

「気は済んだかい?」

 わたしが手紙を夢中になって読んでいると、おじさんが後ろから声を掛けてきた。もう手紙を読むことを咎めようとはしなかった。

「……どうしてこんなことになっちゃんたんだろうねぇ。せめてもの救いは、仏さんが息子の事件を知らないことか」

 おじさんはそういうと、机に置いてあった封筒と手紙を一斉に束ねた。わたしが「あっ」と声をあげると、おじさんは気にせずわたしが持っていた最後の手紙も奪った。

「さ、昼には葬式をしなくちゃならないから、燃やせるごみを集めないと」

 おじさんは束ねて持った手紙たちを玄関の前に捨てた。




 葬式の場所はいつもごみを燃やすための大きな焼却炉だった。この村では亡くなった人は焼却炉の中に木製の棺桶とともに入れられて燃やされるのだった。焼却炉の中はその人の遺品を燃やすことにより火の勢いを強めた。普段から燃えるごみを処理する時はより燃えやすい材料を一緒にして火を強くしていた。葬式で亡くなった人を葬るのも効率がいいからと、その人の遺品を用いるのだった。おじさんは寝台の女性を持ち上げて、あらかじめ用意していた軽トラックの台の上の木製の棺桶の中に入れた。運ぶ際、布が取れないように慎重にしていて、わたしは最後まで女性の顔を見れなかった。運び終えると、わたしたちは玄関に置いてあった可燃物たちを棺桶の中に、入りきらない分は軽トラックの上に置いた。箪笥や机などは重いものであったが、おじさんが力持ちだったので運ぶことができた。わたしがその時心配になって「マダイが帰ってきた時」と声をかけたけれど、おじさんは何も答えなかった。

 わたしたちは軽トラックに乗って焼却炉がある場所まで行った。そこにはもう何人か大人たちが集まっていて、煙草を吹かしていたり、少し話しあったりして待っていた。やがて軽トラックに気づくと、大人たちが駆けつけてきた。

「とっとと終わらせましょう」

 一人の大人がおじさんに声を掛けた。

「わかってるよ。みんな棺桶とごみを焼却炉まで運んでくれ」

 おじさんが合図すると、大人たちは一斉に軽トラックに上り、棺桶などを運びだした。わたしは車から降りてその様子を眺めていた。

「全く忙しい時に」

「仕方ないだろ。人の死なんていつくるかわからないんだから」

 物を運びながら、大人たちは苛々したように会話し始めた。

「それにしても、新聞読んだか」

「読んだよ。マダイが向こうでやらかしたんだろ」

「これで何人目だよ。どうしてうちの村は犯罪者しか出ていかないんだ」

「結局マダイも、なんも村起こしにならなかったな。みんな期待してたのに。学校だって潰れちまうんだろ? 村に英雄が出たって外で騒がれるどころか、また犯罪者が出たって評判が悪くなる」

「あーあ、この村はどうなるんだか」

 大人たちの会話をおじさんが制した。

「おい、やめないか。子どももいるんだぞ」

 大人たちは今わたしが気づいたようにハッとして黙った。おじさんが制したのはわたしのためと言うよりも、むしろわたしを出汁にして自分のために止めたように見えた。大人たちの会話を聞いていたおじさんは気詰まりにしていて、自分が責められているような顔をしていた。

「……今は仏さんを弔ってやるのが仕事だ。だから、もうそんな話はするな」

 おじさんは付け加えるようにして言った。おじさんの言葉の前から既に大人たちは作業を黙って続けていた。しばらく作業を見て、作業する大人たちを隣で見ていたおじさんに尋ねた。

「……マダイには、知らせたんですか?」

 おじさんはしばらく沈黙してから答えた。

「……まだだよ」

「早く、してあげたほうが……」

「いや、多分できないよ」

「どうしてですか?」

 おじさんはボリボリ頭を掻いて、面倒くさそうにした。

「オレも家で調べて連絡先はわかったけど、あいにくマダイくんは、その、警察の人のところにいるから、下宿先にはいないんだよ。君だって読んだんだろ? その、マダイくんがやったこと。だから、もしかしたらそのまま出てこれないかもしれないんだ。向こうの少年院っていう、悪いことした子どもが入るところに行くのかもしれない」

 多分そうなるだろうけど、と聞こえないようにして小さな声で言った。おじさんはどこかそれを望んでいるように感じた。

「マダイは、帰ってこないんですか?」

 わたしが聞くと、おじさんはしどろもどろな態度になった。自分が言ったことがバレて取りつくろうとしているようだった。

「あ……うん、その、オレにもまだわからないんだ。今はただ祈って役所のほうに連絡が入って来るのを待つだけだよ。マダイくんのことはオレがなんとかするから」

 おじさんがわたしをなだめるようにしていった。おじさんの言っていることは嘘だとわかった。わたしはおじさんの話を聞いても無駄だと思って離れ、焼却炉に近づいた。もう作業はほとんど終わっており、中には大きな棺桶と、散乱された家具や日用品があった。それはもう既に灰にまみれて汚れていた。

「準備できました」

 一人の大人がおじさんに声を掛けた。

「……ああ、わかった。じゃあ始めてくれ」

 おじさんが手をあげて合図しながら焼却炉に近づいた。大人がわたしの横を通った。

「なんか紙ありませんか?」

 マッチを持った大人がおじさんに声を掛けた。

「……手紙とかノートは棺桶に入れちゃったし、周りは服とか机とか燃えにくいものばっかりだな。もっと計算して手紙とかだけ取っとけばよかった」

 おじさんはぼやきながら焼却炉の中を見た。わたしはそこで、隠し持っていた参考書をかばんから出した。何となく大人たちには見せないでいた。これは夢を叶えるためのものだったとマダイは言っていた。ずっとこの参考書で勉強してきたらしく、この参考書のおかげで受験に合格できたのだと言っていた。そして今ではわたしがこの参考書を手にして勉強していた。わたしは都会の高校に行きたいわけでもなかった。最初はいらないと思っていたけれど、結局使っている。今ではマダイほどではないがマダイのように勉強している。参考書を開く時には、マダイのことを思い出していた。特にマダイが勉強している理由を思い出していた。わたしはそれを思うと、いつも憧れのようなものを抱いた。わたしには欠けたもののように感じていた。それは鈍く抑えられていて、けれど確実に求めようとしているものだった。わたしは参考書を勉強することで、マダイと重ね合わせていた。

「それ、どこにあったの?」

 わたしが参考書を見ていると、おじさんは後ろから覗き込んできた。

「……マダイのものです」

「そうなの? けど参考書の類は家にはなかったけどなあ。オレが見てないだけか」

 わたしはおじさんに参考書を差し出した。

「紙が必要なら、これ使ってください」

 わたしは自分が何だかひどく冷たいことを言っているように感じた。

「いいの? 大事そうに眺めてたみたいだけど」

「……いいんです」

 わたしは少しためらいながら答えた。

「……じゃあ使わせてもらうよ」

 おじさんは参考書を受け取ると、力任せにそれを引き裂いた。参考書はおじさんの手で簡単にバラバラになって、元の形にはもう戻らなかった。

「マッチ」

 おじさんは焼却炉の中へ紙片を捨てて仲間からマッチを受け取り火を付けた。しばらくその場にいた人たちは、わたしも含めて火が大きくなるのを見つめていた。紙片が真っ黒に暴れ出しながら、衣服を巻き添えにしていき、やがて大きな炎となって棺桶を包んだ。紙片はもう跡形もなかった。わたしはこれでマダイとも、マダイの夢とも接点を失ったように感じた。わたしが参考書を手にしたのは、新聞でマダイのことを知った時だった。その時を思い返すと、わたしはマダイに対して怒りのような感情を抱いていた。それは身勝手な感情で、マダイがとても嫌うものだった。けれどわたしはどこかマダイに依存していた。わたしも大人たちと同じだった。マダイがわたしの欠けた部分を埋めてくれるように感じていた。けれど、もうその感情も灰になってなくなっていた。わたしは空を見上げた。焼却炉の煙突から出る黒く重々しい煙はどこまでも真っ黒で、中は何も見えなかった。




 わたしにはもうやることがなくなっていた。わたしは参考書を燃やしてしまい、それを契機に教科書を開いても熱心になることができなかった。わたしは授業もぼんやりして、先生たちの声も聞こえていなかった。

 学校では急にヨウタが欠席をするようになり、もう学校に来なくなっていた。教室の中は女子が三人だけになってしまい、お互いが関わり合うこともなく、一人一人がずっと沈黙していた。隣のミヤマエは机に向かってうつむいていて眉をひそめて何かに耐えているような表情をしていた。そこにいるのが、いたたまれないように感じた。セイラもまた、うつむいているがミヤマエとは対照的でずっと口元を緩めて微笑んでいた。じっとして黙っているけれど、どこかうきうきとしていた。

 わたしが学校から帰ると、おばあちゃんのご飯を食べた後はただ机の前に座って時間を待つだけの日々を送っていた。明日も学校なら学校に行く時まで待つだけであった。家ではおばあちゃんがミシンを動かす音と、外から漏れてくる機械の音が一定のリズムで響いている。わたしはそれらの音を聞くに任せていた。それらの音を聞いていると、何も考えることがなく、心が空っぽになった。――急にノイズが耳に入ってきて、わたしは意識をまた取り戻した。電話の音だった。わたしは立ち上がって何となく気だるく感じながら受話器をスッと取った。電話に出ることにはもう慣れてきた。

「もしもし?」

 わたしは声を掛けた。けれど返事がない。もう一度言った。それでも返事がない。

「聞こえてますか?」

 わたしは受話器越しにかすかに聞こえてくる息の音を聞いた。乱れていて、少し興奮していた。

「……ユバエか?」

 消えていくような小さな声が聞こえた。ちゃんと聞こえていたようだった。

「どなたですか?」

「……ヨウタだよ」

「ヨウタ?」

 ヨウタは内緒話をするようなひそやかな声だった。わたしは不思議に思った。ヨウタは今学校を休んでいた。理由は告げられていなかった。けれど同時に、嫌な気分になった。ヨウタからの電話ということは多分前の時と同じ理由だろうと思った。せっかく関係が切れていたのに、またぶり返されるのだと思うとあまり話したくなかった。

「…………」

「……ごめんな、急に電話掛けたりして」

「…………」

 わたしは沈黙を続けた。

「あの、聞こえてる?」

 あまり話す気分になれなかった。

「おい、返事しろよ」

 ヨウタが不安げに尋ねてきた。

「……聞こえてるけど」

 わたしは不機嫌に答えた。多分黙っていてもヨウタは何度も聞いてくるように思えた。わたしはしぶしぶ応対した。

「何か用事?」

「あ、うん。ちょっと今急いでるから早めにするよ」

 ヨウタが急いでいるというのに疑問に思った。学校にも来ていないのに、他に何かやっているのだろうか。

「勉強してるの?」

「いや、そうじゃなくて、その……」

「何?」

「……オレ、今家出してるんだ」

 ヨウタが急に上擦った声で告白した。わたしは少し混乱した。

「家出って、それじゃあどこから電話してるの?」

「……近所のおっさんの電話、勝手に借りてるんだ。今は仕事中だから誰もいない。けどもうちょっとで帰ってくると思うから、すぐ出なきゃいけない。オレ今すげえ心臓バクバクしてる」

 ヨウタは早口で慌てながら答えた。

「……もしかして、学校に来なかったのは、家出してたから?」

「……うん」

 受話器越しにヨウタが沈む気配を感じた。理由には察しがついた。お父さんのことだった。わたしはだんだん落ち着いてきて、心の中を整理してから聞いた。

「……それで、わたしに何もしてほしいの?」

「……なんだよ、理由聞かねえのかよ」

「急いでるんでしょ?」

「…………」

 ヨウタが黙った。わたしはおばあちゃんのほうを気にした。ずっと机に向かってミシンを動かしていた。わたしは悪いことを密談しているような気持ちになっていた。

「早く言って」

 わたしはヨウタを急かした。

「……うん、来てほしいんだ」

 ヨウタはポツリと言った。

「いつものところ?」

「……うん、今そこで過ごしてるんだ」

「いつ?」

「明日の放課後ぐらい」

「…………」

 わたしは行くかどうか迷った。ヨウタとはもう何の関係もなかった。けれど今の自分は特にやることもなく、断る理由もなかった。

「なあ、頼むよ」

 案の定、ヨウタはすがってきた。

「……じゃあいいよ」

「ホ、ホントに」

「うん」

「……良かった」

「……でも」

 わたしは少し息を吸った。

「これで最後にして」

「わ、わかったよ。どうせ最後になるんだし……」

 ヨウタはまた落ち込んだ。

「……じゃあ、放課後行くから」

 わたしは受話器を置こうとした。

「あ、待って」

「何?」

 わたしは面倒くさそうな声をあからさまにした。ヨウタは向こうで何か言おうとしているが、なかなか切り出そうとしない。

「何もないなら切るよ」

「あの服また着て来てくれないか?」

 ヨウタは予想外のことを言った。

「また、お前のあの姿見てみたいから」

「…………」

 わたしは黙った。ひどく不機嫌になった。

「あんなの、着れない」

「た、頼むよ。これっきりだから」

「…………」

「……じゃあ、そろそろヤバそうだから切るな。明日は来てくれよ」

 ヨウタは最後に一方的に電話を切った。わたしも受話器を置いた。おばあちゃんはわたしの電話を特に尋ねようとしなかった。わたしは椅子にまた座ると、空っぽだった心に苛立ちが募っているのを感じた。




 わたしは朝、おばあちゃんがまだ眠っている時間に箪笥を開けて、例の服を取り出した。ヨウタに昨日言われるまで忘れていた。雑誌のアイドルが着ていた、どこでも見かけない奇妙な服。わたしはおばあちゃんと夢中になって作っていた。初めて心の底から楽しいと思えたような気がする。服を作ることは本当に楽しかった。けれど今は服を作ることもなかった。作りたいと思うこともなく、自分が作った結果、自分が傷つくことになってしまった。わたしは服を作っていた時と今の自分とを比べると、わたしには何もないことを感じた。そのことを悲しいことのようにも思えたけれど、悲しいとは感じなかった。それでも服を作っていた時のわたしは、もう戻らないと思え、そう思うことががわたしに欠損を感じさせた。

 放課後、ヨウタの秘密基地へと向かった。この日は雨で、今朝からずっと止まなかった。空はどんよりと黒く曇っていて、何もない埋め立て地の平地をしきりに雨が打った。わたしは傘を差していたから濡れなかったが、土がぬかるんでいて、地面の足跡が何個もついた。振り向くと、平地にはわたしの足跡しかなかった。二年生になってからずっと一人だった。わたしと一緒に歩いてくれるクラスメイトはいなかった。わたしは少し寂しい気持ちになりながら、また足跡を作っていった。

 ヨウタの秘密基地に着くと、言っていたとおりヨウタはそこにいた。近づくと、中は雨漏りをしていてシートがところどころ濡れていた。それでもヨウタは自分が少し濡れながらじっと待っていた。わたしの足音に気づくと、ヨウタはスッと顔をあげた。わたしたちは目を合わせた。

「……なんだよ、着てくれなかったのか」

 ヨウタは第一声にがっかりした声を出した。

「……昨日着れないって言ったでしょ」

「…………」

 ヨウタはうつむいて黙っていた。

「話が、したいんじゃないの?」

 わたしは単刀直入に言った。わたしがヨウタにする役目はそれだけだった。

「……うん」

 ヨウタの返事を聞き、わたしは中に入った。お菓子の袋が破られたものがあちこちに転がっていて、もう新しいものはなかった。漫画も雨にやられたようで、ふやけたものばかりで読めそうになかった。それに、ヨウタの隣には大きなかばんがあった。学校に持ってきていた物とは違い、数段大きく、登山に行くかのようなかばんだった。わたしはシートに座らず、立ったままでいた。ヨウタはちらりとこちらを見て、話し始めた。

「……ずっと勉強してきたけどさ、やっぱりオレには無理だったよ。二年になってからやる気も全然なくなってさ、急に本の文字もぼやけて読めないようになったんだよ。なんか、頭に霧がかかってるみたいな感じで、全然考える事とかできねえんだ。前は嫌々でもいちおうは頭の中に入れることができたんだけど、今は勉強しようとすると急に頭が重くなってなんもできなくなるんだ。それで、オレが全然勉強できてないのを隣にいた父ちゃんが見ると、最初はため息つきながらだけど、いちおう『しっかりしろ』とか言ってたんだ。でもオレ何回も言われたけどさ、どうしてもできないんだ。自分でもやろうとはしてるけど、なんか体とか頭が全然言うこと聞かなくなってて。それでもずっと机に向かうようにはしてたんだ。だって、そうしなきゃ父ちゃんがバカにしたような目してくるから。オレだって頑張ってるってところ見せなきゃいけないから。でも、最近になってとうとう父ちゃんもオレに『もういい』って言って本を机から取り上げたんだ。その時、オレは父ちゃんを見たけど、本当に怖いって思った。父ちゃんはもうオレのほう全く見ようしないんだ。オレが声掛けても『もういい』としか言ってくれなくてさ。母ちゃんだってそうだ。オレが話しかけても何も言ってくれなくなったんだ。オレ、もう嫌だった。全然できてなくてもそれでもいちおう一生懸命勉強してきたのに、もう全部父ちゃんにも、母ちゃんにも無視されるようになったんだ。もうオレ、見限られちゃったんだ。自分の家にすらオレがいる場所がなくなったんだ。だからもう家にいたくなくなったんだ」

 ヨウタは頭を片手で抑えながら溢れるように話した。

「だから、だから家出したんだ。もう帰る場所なんてないからここにいるしかないんだよ。いちおう数日はお菓子とか漫画で時間潰せてたけど、もうなくなっちゃったし。オレ、もうどうしようもないんだ」

 ヨウタは頭を振り乱した。卑屈さを全開にしていた。わたしはヨウタの言葉を聞くだけだった。もうどうしようもねえ、もうどうしようもねえ、バカだ、バカだ、オレはバカだ、みんなオレをバカにする、オレは何もできねえんだ、父ちゃんも母ちゃんも、オレにこれっぽちも期待してねえんだ、チクショウが、チクショウが――。

 しばらくして、ヨウタは黙って膝に顔を埋めて固まっていた。わたしはただヨウタの言葉を発するのを待っていた。外は雨音だけが響き、秘密基地を水浸しにした。ヨウタは雨漏りでもうずぶぬれだった。それにもヨウタは気づいていないようだった。

「――ユウジのことだけどさ……」

 ずっとこの時間が続くように思っていたわたしに、突然ヨウタがポツリと言葉を発した。

「あいつ、どうしてあんなことしたんだろう?」

 ヨウタが珍しく自分のこと以外のことを話しだした。

「オレの勝手な考えだけどさ、あいつもオレと同じで逃げ出したかったんじゃないかって思う」

「どういうこと?」

 わたしは自然と口を動かしていた。わたしはユウジについて、知りたい気持ちになった。同時にわたしは前に感じていた後悔の念が再びうずいた。

「ユウジだけじゃなくて、この村のやつってみんなつまんなそうな顔しかしてねえんだ。何もしてても同じ顔しててさ。ガキだってみんな仲間内でははしゃいでるけど、本当に楽しんでるやつなんて全然いねえんだ。みんなみんな死んだ魚みてえで、何も思ってもいねえみたいなんだ。村自体がつまんねえんだ。多分ユウジはそれが嫌だったんだと思う。オレ、わかるんだ。だって」

 ヨウタはそこで言葉を切った。少しうつむいて、言葉に詰まっているようだった。けれどヨウタは続けた。

「だって、オレも自分ん家燃やそうって考えたことあるから」

 黙ってただじっと聞いていたわたしは、そこで驚いてしまった。まさかヨウタまで家を燃やそうと考えていたとは思わなかった。

「どうして燃やしたいなんて考えたの?」

「そしたら、全部なかったことにできるから。もうオレが家に縛られる理由もなくなるから。……オレさ、ユウジが燃やしたって聞いた時、羨ましいと思ったんだよ。どうしてそんなことできるんだって思ったりもしたけど。オレ、臆病だからさ、そんな犯罪になることできねえんだよ。みんなまたオレのことバカにするだろうしさ。でもユウジはやったんだよ。多分あいつ、そういう人の目とか全然気にしたりしてなかったんだよ。自分がやりたいことやれたんだよ」

 オレもやりてえよ、ヨウタは呟くように口にした。何度も同じような言葉を呟いた。ヨウタが唱えていると、本当にやってしまうように思ったわたしは不安になった。もう後悔を重ねたくはない。

「……そんなことしたら、みんなヨウタに白い目をするよ」

「……わかってるよ、そんなこと」

 わたしが指摘すると、ヨウタはまた沈んだ。しばらく雨の音を聞いていると、ヨウタは再び話し始めた。

「……オレ、自分じゃどうせできねえってわかってるからさ、だからせめてユウジと同じになろうと思うんだ」

「同じ?」

「……うん」

 ヨウタは息を吸って、言葉を出した。今までで一番はっきりとした口調だった。

「オレ、村を出ていくんだ」

 ヨウタはわたしを見上げた。少し怖がっているような、けれど決心したような顔つきだった。

「……本気なの?」

「……うん。だってもうそれしかねえんだ」

 ヨウタは迷いなく言った。わたしは止めるつもりはなかった。

「……お父さんが、悲しむね」

「……行くったら行くんだ」

 しばらくじっとわたしを見て、ふっと目を逸らした。ヨウタはゆっくりと立ち上がった。隣に置いてあったかばんを持ち上げて背負った。

「……もしかして、もう行くつもりなの?」

「……うん、お前に話したら行くつもりしてた。オレが迷ったりしないうちに行きたいんだ。止めたりしないでくれ」

「……わたしは、止めないよ」

「……なんだよ、そうなのかよ」

 ヨウタは寂しそうして言った。

「……父ちゃんには、代わりに言っといてくれないか?」

「……わかった」

 わたしは承諾した。せめて最後くらいはお願いを聞いてあげようと思った。

「……どうなるかわかんねえけど、ここでやんなきゃ一生やれない気がするから」

「…………」

 わたしは黙っていた。ヨウタは不安げな顔をわたしに向けていた。けれどそれを振り切るようにして体を回し、靴を履いた。わたしはヨウタをじっと見ていた。

「あっ」

 ヨウタが振り向いた。

「なあ、お前の傘貸してくれないか? オレ傘忘れちゃったんだ」

 わたしは拍子抜けをした。さっきまで緊張していたのに、何というか台無しだった。わたしは苛立ってヨウタに冷たくした。

「……傘ないと、わたしが濡れるから」

「……なんだよ、最後くらいいいだろ?」

 ヨウタはいじけてうつむいた。ヨウタは足を止めてわたしのほうをチラチラと見た。

「なあ」

 ヨウタが切り出した。

「お前のもの、何かくれないか?」

「どういうこと?」

「な、何でもいいんだよ。いらないノートとか、小物とか、とにかくお前のものなら」

 ヨウタの要求はわけがわからなかった。どうして出ていくのにわたしのものが必要なのだろう。立ち止まるための口上なのかもしれない。わたしはますます苛立った。

「もしかして、行きたくないの?」

「そ、そうじゃないよ。オレはただお前のもの持っておきたいんだよ」

「…………」

 わたしは釈然としなかった。けれどふとわたしは今朝のことを思い出し、ヨウタの言うことに従った。わたしはかばんから大きめの箱を出して、ヨウタに渡した。

「これは?」

「服」

 わたしは無愛想に言った。

「えっ?」

「わたしが作った服」

「持ってきてたの? そんな大事な服、いいの?」

「うん、もう必要ないから」

「…………」

 ヨウタはしばらくためらっていたが、やがて背負っていたかばんを開けて中に入れた。かばんの中にはほとんどものが入っていなかった。

「ありがとう、これ、大事にするよ」

「…………」

 わたしは何も言わなかった。

「じゃあ行ってくるから」

「…………」

 しばらくわたしを見て、ヨウタは雨の中を歩いていった。最初はチラチラと何度もこっちを見ていたが、やがてもう振り向かなくなった。わたしは秘密基地の中でヨウタの背中をずっと見ていた。けれど、わたしが見送ったのは、ヨウタではなくかばんの中にある服だった。わたしがヨウタに服を渡したのは、ヨウタのためではなく、服を捨てるためだった。わたしは今朝、それを捨てるつもりでかばんの中にいれた。けれど単純には捨てられずにいた。服を箪笥から出した時、わたしは自分の欠損を感じた。いつ欠けたのかのかは覚えていなかった。けれどそれはもう埋められないもののように感じた。わたしはその欠損を感じるのが不快だった。どうしようもなく自分を苛んで、ここにいる自分の窮屈さに気づいてしまう。わたしは服を思い出す度に欠損を感じてしまうように思えた。わたしは欠損を見ないようにしたかった。――何だか、自分はヨウタと反対のように感じた。ヨウタにも、わたしと同じような欠損があって、だから村から出ていくという選択をしたのだと思う。欠損を埋めようとしている。わたしはそういう選択も構わないと思う。けれどわたしは欠損を埋められるとは考えなかった。だから気づかないようにしていくことにした。気づかなければ、どうということもないと思った。わたしはヨウタの姿が消えた後も秘密基地で雨の音を聞いていた。記憶ごと洗い流したかった。けれど、ずっと聞いていても、いつまでもわたしの作った服が頭にこびりついて離れなかった。




 土曜日になり、わたしは役所を訪れた。この日はヨウタのお父さんが役所の仕事をする日だった。

「こんにちは」

 机で書類の上に忙しそうに鉛筆を動かしていたおじさんは顔をあげた。

「やあ、ユバエちゃん。まだ年金の支給の日じゃないけど、どうしたんだい?」

 おじさんはいつもの疲れたような顔をしていること以外には様子が全く変わっていなかった。

「今日は、話したいことがあってきたんです」

「話したいこと?」

「はい」

 わたしはおじさんがいる机の前まで近づいた。

「ヨウタの、家出のことです」

 わたしが単刀直入に言うと、おじさんは鉛筆を持ったまま固まった。わたしは淡々と続けた。

「実は、ヨウタが家出している時に会ったんです。それでわたしが聞いてみたら、ヨウタは村を出ると言っていました。それでわたしにお父さんに伝えておいてくれと頼んだんです。だから今日はそれを伝えにきました。その、本当は早くに伝えたほうが良かったんですけど、ヨウタの家の電話番号がわからなくて遅れてしまいました。申し訳ありません」

 わたしは頭を下げた。本当は遅れたことではなく、ヨウタを止めなかったことについておじさんに申し訳ない気持ちになっていた。けれどわたしはその時ヨウタを優先した。利己的な理由も混ざっていた。おじさんはしばらく固まって目をあちこちに泳がせて落ち着かなくしていた。しばらくして、おじさんが口を開いた。

「……ヨウタは、何か言ってなかったかい?」

 おじさんは冷静に尋ねた。

「……特に何も、ただ伝えてくれとだけ言われました」

 わたしは嘘をついた。本当のことを言うとおじさんは傷ついてしまうかもしれないし、ヨウタの本意ではないように思ったからだった。わたしの答えを聞いて、しばらくおじさんは眉間を親指で押していた。

「……そうか」

 おじさんはポツリと呟いて指を眉間から外した。

「今日はありがとう。わざわざ言いにきてくれて。うちの息子が済まなかったね」

 おじさんは再び鉛筆を動かした。わたしはおじさんの反応にキョトンとした。自分の子どもがいなくなったはずなのにとても淡白だった。

「あの、大丈夫なんですか?」

 差しでがましいとは思ったけれど、聞かずにはいられなかった。おじさんは顔をあげた。

「……隣町の警察の人にもう捜索届けを出したから大丈夫だよ。家からいなくなってそんなに日も経ってないからそう遠くには行ってないだろうし、すぐ見つかるよ」

 おじさんは簡潔に事情を説明した。

「そういうことじゃないんです」

 わたしはおじさんの態度に戸惑った。おじさんの態度が理解できなかった。おじさんはわたしの顔をじっと見た。

「……ユバエちゃん」

 おじさんは眉を顰めて困った表情をした。

「君の言いたいことはわかるけど、オレは村のリーダーなんだ。だからヨウタのことに時間を割いてる暇がないんだ。わかってくれるかい?」

 わたしは沈黙した。それほど村のリーダーというのは忙しいのだろうか。少し言い訳のようにも聞こえたが、それ以上は詮索しなかった。

「……わかりました」

「そうかい、すまないね」

 おじさんはまた鉛筆を走らせ始めた。

「オレがちゃんと仕事しないと、みんなが困るんだ」

 おじさんは自分に言い聞かせるようにして言った。ヨウタを見ないようにしているようだった。おじさんの態度を見ると、何だかわたしと同じように思えた。




 ヨウタはその後も帰ってきていないようだった。学校にも来ておらず、またわたしは気になって一人でヨウタの秘密基地に行ったりもしたがいなかった。けれどわたしは全てに当たりをつけたわけではなく、もしかしたらわたしが知らないだけでもう自分の家に戻ってきているのかもしれない。わたしはそれを確認する気にはならなかった。おじさんに聞いても答えが返ってくるとは思わなかった。やがて、わたしはヨウタのことを忘れていった。

 学校では、ヨウタの後に続くようにセイラがずっと休んでいた。教室は静かであるというより、むしろ何もないように感じた。わたしの隣にはミヤマエがいた。ミヤマエは一言も学校で喋らず、次の授業までその課目の教科書に目を落していた。ミヤマエは様子を覗いているわたしにも気づいていないようだった。眉を顰めて苦痛そうにして、それでも夢中になって教科書から目を離さなかった。教室の空間がミヤマエのところだけ切り取られているかのようだった。ミヤマエは必死になって、何もない教室の雰囲気を避けようとしていて、教科書にしがみついているようだった。わたしはそれをじっと観察して、教室の何もない空間と同化していた。

 夜、外の機械の轟音と中の機械の静かな音を聞きながら、わたしは中央の机の前でぼんやり座っていた。おばあちゃんはわたしがずっとぼーっとするようになっても何も言わなかった。わたしの様子には気づいているはずだけれど、ずっとミシンの音を続けていた。わたしはおばあちゃんのその態度に、肯定されているようで、否定されているように感じていた。わたしがひたすらに何もしないでいることを許してくれているし、わたしに甘やかしてくれるけれど、それはおばあちゃんの諦念の反転のように感じていた。それは今のわたしのようになる前から存在していたように思う。おばあちゃんが諦めているのは、わたしではなく、わたしを通してもっと広いものを見ているように感じた。自分自身、自分の子ども、村、わたし、それらの要素が混じり合っておばあちゃんの諦めが生まれているように思う。わたしはミシンをずっと動かしているおばあちゃんの背中を見た。わたしより小さく見えた。この背中に負われていたのはいつだったか。わたしが小さな頃はその背中の温かみに包まれて眠っていた。背中の上での夢の世界は万能で満ち足りていて、それだけでわたしが全部出来上がっていたように感じた。やがてわたしが大きくなると、もうおばあちゃんはわたしを負えなくなっていった。わたしはそれでもおばあちゃんとずっと一緒にいたくて、おばあちゃんのお腹に向かって甘えていた。けれどおばあちゃんのお腹の温かみだけではわたしを包みこめなくなっていた。わたしは昔のように包まれていたくて、何度も弄るように顔を揺り動かしていた。たとえずっと包まれることがないとわかっていても、わたしは続けるのだった。その時だけ、一瞬だけ、わたしは安心できていた――。

 わたしがおばあちゃんとの過去を思い出していると、突然電話がけたたましく鳴り響いた。わたしは自分の思い巡りに水を差されて、少し不快になった。おばあちゃんはもうわたしが電話を取る係と思っているようで、電話にそっぽを向いていた。わたしは仕方なく電話に出た。

「もしもし?」

「あっ、ユバエちゃん」

 作られたような甘ったるい声、セイラだった。わたしは不審にも思わず話を続けた。

「何、最近学校に来てないみたいだけど」

「大変、大変、大変なの」

 セイラは狼狽したように言った。けれど本当のものとは思えなかった。わたしはセイラの話に関心を示さなかった。

「お父さんが死んじゃったよぅ」

 セイラはおどけたようにして言った。わたしはふざけているようにしか聞こえなかった。自分の父親が亡くなったならどうして甘ったるい声でわざわざ演技なんてするのか。いたずら電話だとしか思えなかった。わたしはセイラに対応するのがバカらしくなって受話器を乱暴に置いた。けれどすぐにまた電話がけたたましく鳴った。わたしは無視したけれど、音が途切れてはまた鳴り響くのを繰り返したので取らざるを得なくなった。

「大変、大変、大変なの」

 セイラまた同じことを繰り返した。

「お父さんが死んじゃったよぅ」

「……だったら、役所に連絡でもしたら?」

 わたしは冷たく言った。相手にするのも滑稽に思えた。

「それはダメなの。まだ奥重さんがお父さんを見てないから」

 セイラが「奥重さん」と言った。確か「奥重さん」とは前にセイラの家に行った時に会った、セイラのお父さんの知り合いだった。

「奥重さん?」

「うん、連絡して明日来てもらうの」

 わたしは態度を変えた。セイラが嘘を言っているように感じられなかったからだ。もし連絡したというのが本当だとしたら、お父さんは本当に亡くなっているということになる。病気になって危篤であることをその時思い出した。セイラがその「奥重さん」にふざけた嘘をつくとも思えない。

「本当なの?」

 わたしは半信半疑に聞いた。

「本当だよぅ。明日奥重さん家に来る」

「……そうじゃなくて」

 わたしは言い淀んだ。本当の可能性があるのだから、直接質問したら不謹慎に思える。わたしが黙っていると、セイラは無視して続けた。

「とにかく明日来て。明日は学校お休みでしょ? わたしだけじゃお葬式の準備とかできないから」

「……大人の人に頼めば?」

 セイラの口調が演技くさくて、わたしはまた冷たく言ってしまった。

「ひどいよぅ。わたし困ってるのに。ユバエちゃんどうしてそんな意地悪言うの? とにかく明日来てよぅ」

 セイラはわたしに懇願した。わたしも村の葬式での作法は知らないわけではないけれど、子どもに頼むのは筋違いだった。どうしてわたしなのかわけがわからなかった。わたしが沈黙していると、セイラは何度も「明日来て」と言ってきた。来てほしいことは確かなようではあったが、わたしは事実を把握しきれておらず、対応に困ってしまった。

「とにかく明日来てね。わたし待ってるから」

 セイラは後は朝早くからということを告げて電話を切った。わたしは判断を迷ってしまった。




 明日土曜日になって、わたしは買い物かばんを持って家を出た。普段なら昼間に買い物をするのだけれど、雑貨店は朝の早くから開いていたので特に問題はなかった。雑貨店を通る道がセイラの家への道筋でもあった。わたしは結局今になっても決心がつかなかず、だからとりあえずそうした場合遅刻することになるが、買い物をすませた時の気持ち次第で行くかどうか決めることにした。

 わたしが雑貨店に入ろうとすると、視線を感じた。わたしは振り向いた。

「ユバエちゃん、だったよね?」

 前にセイラの家で会った坊主頭の男性だった。黒のスーツ姿だった。男性とは一度会っただけだったけれど、良く印象に残っている。

「今から、買い物するの?」

「……いえ」

 わたしは咄嗟に扉から離れた。何だか申し訳ない気持ちになった。男性がこんなに早くに村まで来ているということは、セイラの言ったことは――。

「……やっぱり、君もなのかい?」

 わたしは思わず頷いてしまった。疑っていたことに後ろめたさを感じてしまった。

「……そうか。セイラちゃん……」

 男性は沈んだ声を出し、セイラを憐れんでいるようだった。わたしも合わせてしまい、声を落としてしまった。

「……昨日セイラちゃんから連絡があったんです。それで」

「……そうか」

 男性は静かに相槌を打った。わたしは今の自分が嘘をついているように感じて気づまりに感じた。しばらくお互いが沈黙して、男性が切り出した。

「……じゃあ、行こうか。セイラちゃんも待ってるだろうから」

「……はい」

 わたしはそのまま男性の後についていった。まだ買い物をすませていない。道中は沈んだ雰囲気が続き、時間が長く感じられた。人が亡くなったのだからそうなるのは当然であるが、わたしだけ感情に隔たりがあるように感じ自分が場違いではないかと思った。

 しばらく歩くと、セイラの家に着いた。造形はわたしの家と同じ、黒の木造建築だ。男性は扉に手を掛け、重そうにして開けた。中から生ごみのような臭いがした。家の中央の布団の中に、顔に黒い斑点が点々としてある男性がいた。セイラはその隣に座っていて、教室の中にいた時のようにうつむいて無表情にしていた。男性は玄関に丁寧に靴を揃えてセイラに近づき、セイラのお父さんを挟むようにして座った。わたしも慌てて男性の近くまで寄っていって、隣に同じように座った。

「セイラちゃん、この度のことは、ご愁傷様です」

 消えていくような声で男性は言った。

「いえ、大丈夫です。もう前からこうなるってわかっていましたから」

 セイラもうつむいたまま静かに言った。

「……数日前、急に苦しそうに呻き出したんです。わたし、すぐお医者さんを呼んで診てもらったんです。けど、診断中にお父さんの声がだんだん小さくなっていって、そのまま……。後はお医者さんからお父さんが亡くなったことを知らされたんです」

 二人は重い雰囲気になった。わたしも慌ててうつむいて、その雰囲気の中に溶け込むようにした。男性はセイラのお父さんの眠っているような顔を見た。

「布を、被せてあげよう」

「……はい」

 セイラは立ち上がって、台所からまだ使われていないと思われるきれいな布を持ってきて、お父さんに被せた。黒々と斑点が点在した顔とは対照的な色だった。

「……わたし、お母さんがいなくなってからずっとお父さんの世話をしてきたんです。最初は何していいかわからなくて、お父さんが暴れたりしても見ていることしかできなかったんです。でも、お父さんにはわたしが必要だったし、何よりわたしはお父さんのことが好きだったから、必死で何とかしようって考えたんです。お母さんが前にしていたこと思い出しながら、お父さんに何をしてあげたらいいかって。料理も覚えたし、着替えだってしてあげれるようになったし、それにお(しも)の世話もするようになりました。お父さんの世話って大変だったから、寝れないことなんてしじゅうあって、正直投げ出したくなったりもしました。でも、たった一人のお父さんですから」

 セイラは口を押さえて涙を流し始めた。隣の男性はうつむいて、セイラの話を聞いていた。

「病気になって死ぬなんてはじめは思ってなかったんです。お父さんはずっとわたしと暮らしていくんだって思ってて。でも、病気だって聞いた時から全然そういうふうに思えなくなって」

 涙をぽろぽろ流したセイラは男性にまっすぐに声を漏らした。お父さんの話をしているのに、むしろ男性を意識しているように見えた。男性は目を瞑ってうつむいていた。

「もしかしたら、わたしが何か間違っていたのかなって、考えたりしたんです。わたしがもっとちゃんとしていれば、お父さんが病気になったりなんかしなかったんじゃないかって。学校だって行ってたけど、本当は休んでお父さんの傍にいてあげたほうが良かったんじゃないかって。本当に病気になるなんて思ってなかったから。……お父さん、お父さん」

「……もう、そんなに自分を責めなくていいよ。セイラちゃんは十分頑張ったんだから。靖男さんだって天国でセイラちゃんにありがとうって言ってるはずだよ」

 顔を上げた男性はセイラをなだめた。両手で顔を覆ってめそめそと泣いていたセイラは指の隙間から男性の顔をチラっと見たように見えた。

「……すみません。奥重さんだって辛いはずなのに、慰めてもらって」

 男性はセイラの言葉に一瞬顔をしかめた。そう言われることが本意ではないかのようだった。

「……いいんだよ。セイラちゃんは、今いっぱい泣いても。お父さんもセイラちゃんを天国で励ましてくれてるからね」

 男性はセイラの肩を優しく叩いた。わたしはそこで、違和感を感じた。二人の会話は戯曲のようであらかじめ決められた台詞をなぞっているかのようだった。二人はお父さんの話をしているのに、本人には目を向けていなかった。わたしはセイラのお父さんから臭気を感じた。

「……セイラちゃん」

 男性は静かに声を掛けた。セイラが少し落ち着いたのを見計らったかのようだった。

「……役所の人には連絡したの?」

「……まだ、なんです」

 セイラは口を押さえながら言った。涙の量が少なくなっていた。

「……わたし、本当はわかってるんです。ちゃんと役所の人に伝えないといけないんだって。でも、そうしたら永遠にお父さんと離れ離れになるから、どうしてもできなかったんです。本当に、大切な、お父さんですから」

 セイラがまた嗚咽を漏らした。男性は顔をしかめていた。

「……でも、お父さんだってちゃんとセイラちゃんに見届けてほしいって思ってるよ。辛いだろうけど、お父さんにお葬式上げてあげなきゃ」

 男性はまたセイラをなだめた。少し急かしているようにも見えた。男性の足はその場から少し浮かしていて、立ち上がる機会をうかがっているようだった。

「……はい。わかってます」

 セイラはそう言って立ち上がり、電話を取った。セイラはお父さんが亡くなったことを電話で告げると、後は「お願いします」、「今日にやりたいんです」、「お願いします」と何度も頼んでいた。役所に葬式の連絡をしているようだ。しばらく押し問答をした後、セイラは「ありがとうございます」と言って電話を切った。どうやら相手は承諾したようだった。

 しばらく三人はセイラのお父さんの前に座って沈黙していた。重い、雰囲気になっていた。けれどそれには違和感があった。みんなが重くしようとしているかのようだった。わたしもそうしなければならない気がしてうつむいていた。

「わたし、どうしたらいいんでしょうか?」

 セイラは突然、言葉を漏らした。

「わたし、ずっとお父さんと一緒に生活してきたんです。ずっと、お父さんのために生きてきたんです。でも、もうお父さんはいなくなって、わたし一人になってしまいました」

 うつむいていたセイラはフッと顔を上げて男性を見た。まっすぐに視線は向けられていた。セイラは弱々しい目と裏腹に、獲物を待つ獣のような鋭い眼光を秘めていた。

「奥重さん……」

 セイラは男性の名前を呼んだ。セイラの声は震えていた。不安を湛え、懇願するような眼差しだった。けれどセイラは男性の答えを待ち、目の奥に希望の眼差しを秘めていた。男性はうつむいたままセイラに答えなかった。口は一文字に結ばれて、石のように固まっていた。辺りはお父さんの臭気だけで満ちていた。――突然、沈黙を終わらせるように男性が呟いた。

「……ごめん」

 一瞬家の中が凍りつき、耳鳴りのような沈黙がまた続いた。セイラは充血した目を見開き、男性を凝視したまま固まった。男性はセイラに視線を合わせなかった。家に入った時からそうで、セイラに対して顔を合わせることが決してなかった。

「……セイラちゃんには、ほら、ユバエちゃんもいるし、この村には施設だってあるから……だから、セイラちゃんは心配しなくていいんだよ」

 男性はセイラから目を背けたまま言った。男性の言葉は押し付けているかのようだった。また、耳鳴りのような沈黙がして空間が固まった。セイラはわなわなと口を震わせて、赤い目に涙を湛え、そして見開いた目を男性から離さなかった。突然、セイラは飛びかかるようにして男性の肩を掴んだ。その拍子に死体の布が取れ、真っ黒な顔が表れた。

「奥重さん! あたしを都会に連れてって!」

 セイラは叫んだ。死体の上に体重をかけていることにも気づかず、男性に迫った。

「約束してくれたじゃない! お父さんがいなくなった時にはあたしを連れてってくれるって!」

 セイラは再び叫んだ。けれど男性は肩を掴まれたまま、沈黙を貫いていた。

「あたし何だってできるよ! 料理もできるし、洗濯もできるし、その気になれば(しも)のことだってできる。お金だって稼げるんだよ、ねえ」

 セイラは男性の肩を何度も揺り動かした。それでも男性は目を逸らしたまま固まっていた。

「何がいけないの? あたし何だってするよ? 奥重さんの邪魔なんて絶対しないから。ちゃんといい子にするから。だから、ねえ、連れてってよ。ねえ、連れてってよ!」

「……ずっと、靖男さんのことが嫌だったんだ」

 セイラの手が止まった。目をさらに大きく見開いて、今にも目の筋が切れてしまいそうだった。

「……離して、くれるかな」

 男性はそっとセイラの手を肩から取り外した。セイラは死体の上で固まったままだった。

「……僕が、靖男さんの家に通っていたのは、靖男さんたちのためなんて言ってたけど、あれ、嘘なんだ。本当は、自分の罪滅ぼししたかっただけなんだ」

 男性はなるべく声を小さくするようにして話した。

「どういう、こと?」

 セイラは声を震わせて聞いた。男性はセイラに目を背けたまま呼吸をして、話し出した。

「……僕と靖男さんの部隊が占拠した島の中央で敵と戦った時、実は僕は逃げ出して戦っていなかったんだ。靖男さんがみんなを殴った時、確かに部隊の士気はあがって、決死の覚悟を持つことができた。けど、僕だけはどうしても恐怖がなくならなかった。死んでも構わないなんてどうしても思えなかった。けどそんなこと言ったら敵の前に靖男さんにそれこそ殺される気がして、僕はみんなに合わせたフリをしていたんだ。敵との戦いは、二人一組になって、味方の銃声の合図ととも五つの方向から敵を奇襲することにして、その時僕は靖男さんと組んだ。靖男さんは『必ず生きて帰ろう』って励ましてくれたけど、僕は怖くて戦いたくなくて、何度も心の中で二の足を踏んだ。けど時間は待ってくれなくて、だんだん敵の足音が近づいてきたと思ったらすぐ銃声が響いた。靖男さんは前へ全力で走っていったけど、僕は咄嗟に反対のほうへ逃げたんだ。銃声が遠くなるまで必死で走った。後ろから何度も銃声が響いてきて、僕は恐怖がますます募って錯乱した。しばらく走っていると、僕はだんだん冷静になっていって、それと同時に銃声が鳴り止んだ。味方が全滅したのかと思って僕はまた震えた。けど耳を澄ませていると大きな足音が遠ざかっていく音が聞こえたから、違うんだってわかった。僕は慌てて元の場所に戻ったら、近くで靖男さんが倒れていたのを発見したんだ。頭から血が流れていて、もう死んでるんじゃないかって思った。僕はぞっとした。自分が逃げたせいで靖男さんがを見殺しにしたんだって。胸がこみあげてきて、何度も吐いた。しばらくして、味方の兵士が走ってきて、そこでやっと靖男さんが運ばれていった。僕は味方に靖男さんをぼーっと見てたことを怒鳴られたけど、僕は自分のことで頭がいっぱいだった。僕が靖男さんを殺したんだって」

 男性の告白にセイラは黙っていた。見開いたままの眼差しは驚きと、そして怒りがこめられていた。

「国に帰って、僕が英雄の部隊だって称賛された時は、バカバカしくて笑いそうになったよ。逃げ出した臆病者が英雄だなんて。英雄って言われる度に靖男さんの事を責められてるようだった。僕が人殺しだって言われてるような気がした。僕は戦争でのことを後悔して、どうしてあの時靖男さんじゃなくて自分が死ななかったんだろうって何度もその時は考えた。けど靖男さんはあんな重症を負ったのに病院で生き続けて、最終的には奥さんの元に送られることになったって聞いた時は本当に辛かった。いっそそのまま病院で死んでくれたほうが忘れられるのにって、最低なことも考えた。それでも自分は戦後は社会復帰してのうのうとして普通に生きてるんだ。自分が人殺しなのに。でも、普通に生きてたってどうしても靖男さんが脳裏から離れなかくて、いずれ消えると思っていた後悔が全然消えなかった。だから僕は靖男さんの家に通うことに決めたんだ。自分の罪意識を慰めるために」

 男性はセイラの下にある死体を見て、ため息をついた。疲れと安堵が含まれていた。

「……こうして靖男さんが亡くなって、僕はやっと自分の刑期を終えれたような気がするよ。これでやっと、靖男さんから自由になれるって……君は許してくれないだろうけど」

 セイラに男性は言葉を投げかけた。セイラはわなわなと震え、怒りを顕わにしていた。けれどセイラは笑い、必死で穏やかな表情を男性に向けた。表情の裏側に弱々しさがあって、何だか健気に見えた。

「わたし、奥重さんのこと、許してあげるよ。奥重さんはずっと、お父さんやわたしのために尽くしてくれてたんだから。奥重さんには、今でもしてもしきれないくらい感謝してるよ。お父さんだって、きっと奥重さんのこと許してくれてると思うよ。だから――」

「君がいると、靖男さんから離れられないんだ」

 男性はセイラに宣告するようにして突き放した。セイラは一瞬で繕っていた穏やかな表情を失った。

「僕も、最初は君を引き取るつもりだった。僕は一生自分の罪を背負っていかなきゃいけないんだって考えてた。でも、僕だって、僕だってせっかく戦争で生き残って満足な生活ができるようになったんだ。たとえ自分勝手で卑怯でも、誰にも縛られないで生きていきたいって思うようになったんだ。もう靖男さんに縛られるのはうんざりなんだ。だから、だから、君を引き取ることはできない。結婚だって、僕はしたいから。今日ここへ来たのは、靖男さんと区切りをつけるためなんだ」

 男性は語り終えた。語り終えた後、セイラは電池が切れたように動かなくなった。耳鳴りの沈黙。だんだんと耳鳴りが大きくなっていくのを感じた。ゆっくり、ゆっくりと耳鳴りが臭気と混ざって辺りを包みこんでいき、不穏な気配が漂った。

「……あたしは、お父さんなしじゃ生きられないのに」

 セイラは死体の上でぽつりと、けれど重々しく言葉を発した。セイラに乗られた死体は、ピクリとも反応しない。

「……お父さんがいなかったら、お金ももらえない。ご飯も作れない。学校にも行けない。……誰かを憎んだりもできない」

 瞬間、空気が引きちぎれるような爆音がした。男性も、わたしも爆音にひるんで止まってしまった。セイラは喉が張り裂けるような声で泣き叫んでいた。(けだもの)が咆哮するような、醜くて純粋な声だった。お父さんにのしかかるようにしがみついた。

「なんで! なんで死んじゃったの! あたしお父さんなしじゃ生きられないのに! おとうさん! おとうさん!」

 セイラは叫び、突然大声で笑い出した。目から流れる涙も感じていないように笑っていた。セイラはお父さんの顔を何度も殴った。何度も泣きながらおとうさんと叫んだ。黒い斑点が二重にも三重にもへこみ、周りの骨髄が窪み、やがて中から赤色が剥き出した。お父さんは元の形がわからないほどに歪んでいった。セイラの手も皮膚が裂けて真っ赤になった。セイラはそれでもおとうさんと叫ぶのを止めなかった。




「……そうだったのか」

「はい」

 わたしは日曜日、役所に行っておじさんと話をした。

「それにしても驚いたね。家から怪物みたいな声がしたと思ったら、英雄どのがぼろぼろになってたんだ。オレは見慣れてるから大丈夫だったけど、周りの若いやつは苦虫でも噛み潰したような顔をしている。君は大丈夫だったのかい?」

「……はい」

 わたしはお父さんの姿より、むしろセイラの声のほうが印象に残っていた。セイラが叫びだし、わたしが狼狽してしばらくしてすぐにおじさんと大人たちが家に飛び込んできた。おじさんは驚いたような顔をしていたけれど、すぐセイラを押さえにかかった。けれどおじさんの力でもなかなかセイラは暴れるのを止めず、おじさんの頬にケガまで負わせた。おじさんが大人たちに指示して何とか四人くらいで押さえ込んで、棺桶の蓋を閉めるためのロープでセイラを縛り上げた。わたしが気づいた頃には、隣で座っていた男性はもういなかった。

「……かわいそうに。引き取りの約束していたのを直前で反故にされて、あの子は相当参ったんだな」

 おじさんは机に置いてあった薬缶を空になったコップに傾けた。なみなみとお茶が注がれた。葬式は中断となり、死体は今もそのままだった。近々行う予定であるらしい。葬式の準備をしにきた大人たちは、棺桶の中に代わりにセイラを入れた。

「……子どもが大事な約束を裏切られるなんて、遣り切れなくなるねえ。まあ、オレは見てないからなんともいえないけど」

 おじさんはその後も「どうなってんだか」だとか、「かわいそうに」だとかいろいろ話した。ゆったりと話しているおじさんは、あまり関心がなさそうだった。わたしはおじさんの話を聞き流していた。

「それにしても、英雄どのにそんな話があったとはねえ。オレはあんまり詳しく知らなかったけど、波乱ば――」

「おじさん」

 わたしはおじさんの話を遮った。わたしは聞いておきたいことがあった。

「な、何だい?」

「セイラちゃんは、どうなったの?」

 おじさんはいろいろ話をしている時でも、あの後のセイラのことは話そうとしなかった。おじさんは困ったような顔をした。

「……君は、知りたがりだね。あんまり子どもに話す――」

「わたしは、セイラちゃんの友達だから知っておきたいの」

 わたしは嘘をついた。わたしはセイラを友達だと一度も思ったことはなかった。けれど、そう言ったほうが、おじさんは話してくれると思った。セイラが棺桶に入れられた後おじさんは「今日は撤収だ。持ち場に戻れ」と仲間に命令して、棺桶を軽トラックに乗せて走っていったのだった。おじさんはため息をついた。

「……そうだね。やっぱり、君には話しておいたほうがいいね。前にも、似たようなことがあってね、詳しくはいえないけど、ちょうどあの子みたいに暴れた子が昔村にいたんだ。最初はみんなどうしていいかわからなかったけど、ほっとくわけにもいかないから、やむなく縛って誰も住んでない家に閉じ込めたんだ」

「セイラちゃんも?」

「そ、そうじゃないよ。その時オレたちはその子にどうしたらいいかわからなくて、ちょっと国の人に役所から電話したんだよ。そうしたら、向こうの人に呆れられてそんなことも知らないのかって言われたよ。それで、隣町に病院があるからそこに連れて行けって」

「病院?」

「あ、ああ。だからオレはその病院に連れていったんだ。でも、その、何といったらいいか、体の具合だとかケガだとかいうのを治すところじゃないんだ。その、何だかよくわからないことをしだす、他人からは理解できない行動をする人たちを収容、いや、治療する施設なんだ。なんといったらいいか、つまり」

「〝きちがい〟の病院ってこと?」

 言い淀んでいるおじさんにわたしは言い放った。多分おじさんもワードくらいは思いついていたはずで、言葉にするのを避けていたようだった。わたしは言葉を発する時、ひどく冷淡だった。

「あ、ああ、そう、言えるね。その時暴れてた子はその病院に行ったんだ」

 おじさんは声をだんだんと小さくして話を打ち切った。結局セイラのことは曖昧にしたけれど、セイラも同じだということがわかった。わたしはセイラのことを思い出した。昨日のセイラと、わたしが初めてセイラの家に行った時だった。セイラは昨日、お父さんを何度も乞って、自分の望みをさらけだしていた。その行動には全く嘘も偽りもなかった。けれどわたしはセイラに侮蔑の感情を抱いた。セイラはずっと何かを求めているようだったけれど、わたしはセイラの体の軋みを聞き逃さなかった。どこか無理をして、望んでいることさえも無理をしなければならないようだった。それでもセイラはまっすぐに望んでいた。けれど、全く自分を返りみておらず、望みが不自然で形にならないこともわかっていなかった。わたしは同時に、セイラを羨んでもいた。わたしにはない執着心を持っていて、わたしのように振り向くこともしない態度を許してはいなかった。セイラはだから望みに対して、純粋に追い続けられたのだと思う。――ふと、わたしは不安を感じた。セイラがどうしてそこまで執着をできていたのかについて、思い浮かべた。セイラがわたしに自分の思いを話した時、必死で村から逃れるようとしていたことを思い浮かべた。何だか、軋みに気づいていないのはセイラではなく、わたし自身のように感じた。




 六月が終わり、後一カ月となった。特に何も変化はなかった。朝学校に行き、夜家でぼーっとするだけだった。けれど、わたしの中に抑圧された衝動があることに気づき始めていた。何かを壊したくて、何かを生み出したい。曖昧な二つの感情が混ざりあっていた。けれどそれはわたしが日常に埋もれれば埋もれるほど、姿が見えなくなった。わたしは無意識に日常に没頭し、今までと同じことをしていた。消えていくごみ山たちにも振り向かないようにした。けれど、わたしは時に暴力的なほどに感情が溢れそうになることがあった。血が逆立つようで、どこか生き生きとして、どうしようもなく絡めとられてしまう。わたしは最近この感情をどうしたらいいかわからず、抑えられない不安に駆られていた。これが溢れた時、わたしは今までとは違ってしまうような気がした。

 わたしは学校に遅刻することを繰り返していた。もう学校に行く理由もなくなって慣性的に通っていて、けれどわたしは学校に行くことに抑うつを感じていた。足取りが学校からわざと遠ざかっていた。わたしは朝、寄り道を決まってしていた。いく当て所は特になく、学校以外の道を歩いて登校した。大人たちが忙しそうにごみ山を崩し、ごみ山が小さくなっていく姿を見ていた。最終的には結局学校にいつも着くのだった。

 わたしは今日も遅刻した。けれど駆け足になることもなく、わたしは一定に歩いた。下駄箱の前まで歩き、靴から上履きに履き替えた。教室までも同じで一定に歩いた。わたしが歩いていると、声が聞こえた。女の子の声だ。女の子は声を殺すようにして泣いているようだった。わたしが教室の前まで行くと、ドアが開け放しになっているのが見えた。中からは女の子の声以外何も聞こえない。わたしは静かに入った。――ミヤマエは両腕で自分の顔を包みこんで泣いていた。ミヤマエは入ったわたしに気づいていないようで、腕の中に自分を入れて夢中で泣いていた。わたしは傍まで近づいた。

「――ミヤマエ」

 ミヤマエは泣き腫らした顔でわたしを見上げた。

「誰もいなかった」

 ミヤマエは途端に言った。ミヤマエは迷子になった幼い子どものような顔をしていた。

「教室に、今朝早くからずっと待ってたけど、授業の時間になっても先生すら来なかった。私おかしいと思ったから職員室行ったけど、誰もいなかった。みんな学校にいない」

 ミヤマエは堪えていた涙をまた流した。頬に重くへばりついていたが、力尽きたように床に落ちていった。

「何で、何でこうなっちゃったの? クラスのみんなさ、勝手に学校来なくなっちゃったし、みんな村からいなくなっちゃうし」

 ミヤマエは一言、一言、と絞り出すようにして言った。わたしに向ける言葉は親をなくしたひな鳥のように心もとなかった。

「……みんながいなくなって、寂しいの?」

「バッッカじゃないの!」

 ミヤマエは泣きながら怒鳴った。

「私があんなやつらのこと、思ったりするわけないじゃない! やっぱりアンタなんか話にならない!」

 怒るミヤマエはまたぽろぽろと涙を溢れさせた。怒っていても、ミヤマエは幼い姿のままだった。

「私が嫌なのは、どうしてみんな村から出ても何もできてないのかってこと。みんな村から出れたのにどうしてあんなふうになったりしたの? それに、大人だってみんながあんなことになったって、何とも思ってないじゃない! むしろ面倒くさそうにして見ててさ、どうしてみんな平気でいるの? それが普通なの?」

 ミヤマエの言葉に私は耳を傾けていた。わたしはミヤマエにいたわりを持った。ミヤマエはわたしに怒りを発し続けた。

「私ずっと、村から出たいって、都会に行きたいって思ってた。でも、みんなが失敗しちゃってて、村からちゃんと出ていけなくて。私も同じになるの?」

 ミヤマエの怒りの根源は不安だった。ミヤマエは自分といなくなっていった生徒たちとを重ね合わせていた。ミヤマエの言葉がわたしの脳に浸透した。

「アンタは、アンタは平気なの? いっつも何でもないような顔して、ぼーっとしてて。アンタがおかしいとしか思えない」

 ミヤマエの言葉を感覚的に理解できていた。わたしは都会に行きたいと思っているわけではないけれど、ミヤマエの言葉はわたしと重なっていた。わたしが気づき始めた、暴力的で生き生きとした感情に似ていた。

「私は、全然大丈夫に思えないの。どこからかヒビが入ってきて、全部終わるんじゃないかっていっつも思ってて。でも、全然どうしていいかわからなくて、どこ行ったらいいかもわからなくて、でも、何とかしたいって思ってて」

 ミヤマエは言葉を続けた。けれど、ミヤマエの言葉はわたしの脳の奥まで完全には響かなかった。ミヤマエはクラスメイトの結果を悲しんでいたけれど、わたしは悲しめていなかった。わたしは六月の出来事を抑圧して、感情が出ないようにしていた。日常を送っていればそれでいいと思うようにした。けれどミヤマエは正面からクラスメイトたちの出来事を受け止めているようだった。実際わたしのようにクラスメイトたちと直接関わっていないはずなのに、ミヤマエはわたし以上に出来事たちに体の感覚を浸していた。ミヤマエは出来事たちを自分に照らし合わせ、自分の望みに陰りが表れていて、それでも諦めようとしていなかった。わたしとは反対だった。わたしはミヤマエに望みを持ち続けてほしかった。ミヤマエが望みを捨てないことで、わたしの感情も慰められるような気がした。

「ねえ」

 ミヤマエはわたしに声を掛けた。不安の真ん中に甘えを含んだ声だった。ミヤマエからそんな声を聞いたのは初めてだった。

「アンタの家、いつか遊びに行ってもいい?」

 ミヤマエは人見知りをする小動物のように怖々と尋ねた。以前のミヤマエはわたしにずっと突っかかってとげとげとしていた。けれど今のミヤマエはわたしに寄りかかっていて無防備な姿だった。

「――うん、いいよ」

 わたしは子どもを包みこむような優しい声で頷いた。

「ありがとう」

 ミヤマエは小さな声で、わたしになるべく聞こえないようにしていった。

「じゃあ、また電話とかするから」

 ミヤマエは少しだけ安心した顔をし、机の上で包んだ両腕に顎を乗せてそのままじっとした。涙は止まっていた。けれど多分それもほんの一瞬だけだと思った。きっとミヤマエもまたすぐ不安になるのだと思う。わたしはミヤマエのように泣くことができなかった。感情が出る前に抑圧されるからだった。泣くことは悲しいことのはずなのに、何だか羨ましく思えた。けれどわたしは羨ましく思えても、それすらも抑制した。わたしの欠けたものは欠けたままだった。しばらくミヤマエの様子を見ていたわたしは声を掛けた。

「じゃあわたし、今日は帰るね」

 ミヤマエはわたしを見上げた。無理をして、微笑んでいた。

「うん、明日もちゃんと学校来てよね」

 わたしたちは手を振り合い、わたしは教室から出ていった。ミヤマエとの間に小さな共有と、大きな隔たりを感じていた。




 わたしは学校に行かなくなった。学校を避けていた足取りは、やがて学校へ行くことすらも拒否するようになった。けれどわたしはそうしても、湧き上がってくる感情がなくなることがなかった。わたしは感情が表層に浮かび上がりそうになる度に不安ばかりを感じた。

 わたしはカンスケの秘密基地に向かっていた。感情に気づいてから急にカンスケの元に行きたくなった。カンスケとはもう絶交してずっと会っておらず、秘密基地にいるかどうかもわからなかった。それでもわたしは、自分勝手であるとはわかっていても、カンスケの話を聞きたかった。都会の話、そしてわたしがずっと避けてきた村の話を聞きたかった。わたしは感情が溢れそうになり、けれどそれが抑圧される狭間の中にいた。その中にある不安と苛立ちを解決したかった。その不安は村の話を聞くことで起こる不安で打ち負かすことができる気がした。今のわたしは村の不安も抑圧されていた。わたしは村の不安を明確に感じ取ることで気づき始めた感情を出そうとしていた。唯一今のわたしがはっきりしていることは、わたしが感情の放出を求めていることだった。暴力的な衝動に突き動かされるようにして足を動かしていた。わたしを不安にさせてくれるのは、この村で唯一カンスケだけのような気がした。

 秘密基地にわずかな期待を持ちながら訪れると、カンスケがいた。わたしは奇跡的にカンスケを見つけられて、まず最初にほっとした。中でカンスケは本の束を紐で縛っていて、何か作業しているようだった。怒るかもしれないし、無視されるかもしれないと思い、少しためらう気持ちが出た。わたしは緊張して、カンスケのところまで近づいた。

「……こんにちは」

 わたしは怖々と声を掛けた。

「……お前か」

 カンスケは無関心そうにわたしを見上げた。それでも怒るわけでも無視するわけでもないようだった。

「今さら何しにきたんだ?」

「……前みたいに、カンスケの話を聞きたくなって」

「ヘッ、話か。もうお前に話すことなんてないんだけどな」

 カンスケはわたしをバカにするように言い捨てた。わたしは気にしなかった。

「……入っていい?」

「そうしたいなら好きにすれば?」

 わたしは靴を脱いで秘密基地に入った。ずっと秘密基地に行っていなかったが、前と全然変わりばえがないように感じた。カンスケはもう秘密基地を大きくしたりしていないようだった。

「何か、話をして」

 わたしは期待が外に表れるのを堪えながらカンスケに頼んだ。カンスケは本を束ねて縛る作業を続けていた。

「話? 話か? だったらそうだな、俺の身の上話でもするか」

 わたしは少し驚いた。カンスケが自分の話をするのは初めてだった。いつもカンスケは他人のことを話し、そして自分にも関わることさえも他人事のように話していた。

「どんな話?」

 わたしは期待と胸の鼓動を併せ持ちながら、カンスケを促した。

「俺が引っ越しする話だよ」

 わたしは自分の鼓動がなくなったかのように停止した。カンスケの言葉を聞いた瞬間、わたしの期待は跡形もなくどこかへ消えていった。わたしはカンスケと上手く会話ができたなら、またカンスケの許に訪れようと考えていた。けれどそれもできなくなってしまうことをいきなり告げられてしまった。

「俺の両親はな、元々村の出身じゃなくて、戦争でここまで逃げてきたんだよ。俺は生まれた時からここで育ってきたけど、親はずっと俺に都会の話とか村の話とかして、そういう話をする最後には決まって『絶対都会に行く』って耳にタコができるくらいに聞いてきたんだ。俺もまあそこまでしつこく話されたら興味が湧いてくるもんだからごみ漁ったりするようになったんだけどな。ガキどもとも遊んで、適当に暮らしてきたわけだよ。で、この前とうとう耳タコが終わって、金が溜まって都会に行く目途が立ったって、親が言い出したんだよ」

 カンスケはあっさりと話した。わたしは戸惑いを隠せず、カンスケに怒りを感じながら言葉を発した。自分の怒りは子どもじみていた。

「いつ行くの?」

「まあ正確には決まってないけど、多分すぐだろう。だから俺も秘密基地来て持っていく本まとめてるんだ。今日でここも用済みだな」

 カンスケはわたしの怒りにも気づいていないようで、ペラペラと喋った。カンスケは村のみんなとは違う。カンスケが都会に行っても、わたしの望みとは関係のないものだった。むしろ望みを傷つけてしまう。わたしはカンスケに反駁したい気持ちになってまた尋ねた。

「カンスケは、都会に行ったら何するの?」

「何だ? 何かお前っぽくない質問だな」

 カンスケはわたしをからかうように言った。

「別に何も決めてねえよ。行ってから決めりゃいいだろそういうのは。まあ、強いてあげるならせっかく都会に行くんだからるりっきょに一度会ってみたいなあ」

 カンスケは気楽そうに答えた。わたしはまだ反駁の気持ちが収まらなかった。

「村の、村のみんなのことはどう思ってる?」

「何だよいきなり。お前、なんか前と違わなくないか? そんな質問して。……まあ別に、どうとも思ってねえよ。バカな連中だと思うくらいだな。くだらねえ生活ばっかしてて。それから中学校にいた奴らは群を抜いてバカだな。自爆ばっかしてんじゃねえか。ケッサクだよ。」

 カンスケは嘲るように笑った。わたしはクラスメイトをないがしろにされて腹が立った。前まで同じクラスだったのにどうしてそんなことが言えるのだろうと思った。カンスケは全くクラスメイトに無関心で、全く自分には関係のないことだと思ってるようだった。わたしはそう思えるカンスケに何より腹が立った。わたしはクラスメイトの出来事に捕らわれていた。日常は変わらないはずなのに、確実にそれらはわたしの見えないところで侵食したのだった。感情に気づく契機はこの侵食だった。わたしは怒りを溜め込んだまま、けれどもう何もカンスケに言い返せなかった。そして、溢れだしたかった感情は奥へ奥へと抑え込まれていった。

「ああ、そうだ。お前、本いらねえか? 本が多くて処理に困ってたんだ。そこに固めてあるやつはいらないやつだから適当に持ってっていけよ」

「……別にいらない」

 わたしは自分でも驚くほどすごんだ声をカンスケに出していた。こんな暗い声を出したのは初めてだった。抑圧された感情の、濁った部分が漏れ出ていた。わたしはキョトンとしたカンスケを無視して、何も言わず秘密基地を出ていった。

「ヘッ、相変わらずお前ってキレるタイミングが意味わかんねえよな。俺がせっかく話してやったのに。気分が悪いったらねえよ。何もわかりもしてねえ村一番のバカがッ!」

 カンスケはわたしの背中に吐き捨てた。けれどわたしは全く意に介していなかった。わたしはフラフラと歩きながら、自分の抑圧された感情が、もう浮びあがってこないという予感だけを感じていた。




 後、一週間。わたしは家の中で、既に無意味となったカウントダウンを数えていた。学校にもう行かなくなったのから、数える必要はなかった。けれどわたしは数えることにしがみついていた。その期間が終わると、わたしはずっと抑制されたままになってしまうような気がした。わたしは自分が欠けたままでいても、ずっと大丈夫であると思っていた。今まで続けてこられたのだから、これからもできると思っていた。けれどわたしは自分が気づかないフリをすることができないと感じ始めていた。日常を変わらず過ごすだけでは隠しきれなくなっていた。だから何度も抑圧しようといろいろと行動して、抑え込んできた。けれど今、わたしの感情は抑圧されていても、溢れることを奥で望んでいた。溢れなければ、ずっと閉ざされてしまう予感がした。カンスケと最後に会った日から、日常に埋もれていくという選択肢がわたしの体を覆ってしまったけれど、わずかに望みを抵抗するように持ち続けていた。

 わたしは家の中、不安を抱えながら机の前に座っていた。それでも今日も変わらず、朝起きて食事をして、そしておばあちゃんのミシンと外の機械たちの音を聞いていた。わたしは今日も何もできないまま過ぎていくのを感じた。――バイクの音が外から聞こえ、家の前で止まった。今は昼間であるから新聞ではない。そうだとしたら、郵便であった。わたしはバイクが走り去る音を聞いて、外に出た。家のポストの中に、茶色の封筒があった。わたしが二年生になってから、茶色の封筒は送られてこなくなって、わたしたちの生活が窮屈になっていた。わたしは少し不審に思い、中を透かしてみたが、お金は入ってはいなかった。わたしはそれを確認するとがっかりした。けれどそこで、封筒の送り主が都会にいることを思い出した。わたしはわずかに望みが膨らんだ。もしかしたら、という気持ちを持ち、封筒に少し賭けてみる気になった。わたしは家へ戻り、おばあちゃんに封筒を渡した。おばあちゃんはそっと封筒をわたしから受け取り、中を出した。白い小さな紙が一枚、それだけだった。――途端に紙を見たおばあちゃんが涙を零して口を押さえた。おばあちゃんの涙は堰を切ったように溢れ、止まることがなかった。わたしはおばあちゃんの姿に狼狽し、そしておばあちゃんが持っている紙を覗きこんだ。

――七月の二十日に、そちらへ帰ります――

 わたしはあっと声を出した。わたしは急な知らせに上手く状況を飲みこめなかった。七月二十日は学校が終わる日で、わたしのカウントダウンも終わる日だった。

「風間、風間」

 おばあちゃんは嗚咽を漏らすように、わたしのお父さんの名前を呼んだ。

「だから、だから言ったんだよ。都会になんていったってロクなことにならないんだって。でも、よかった」

 おばあちゃんは嘆きと、そして喜びを漏らしていた。わたしのお父さんが都会から村に帰ってくる。わたしはそこで、その事実をはっきりと認識し、そしてわずかに残っていた望みもとうとう完全に潰されてしまった。クラスメイトだけでなく、大人も同じだった。村の人たちなら結局同じだった。おばあちゃんはわたしのほうに体を向けて涙にまみれた顔を見せた。

「これで、これでやっと家族が揃う。本当にそれ以外のものはいらないんだ。都会になんて、本当に行く必要ないんだ」

 おばあちゃんは温かな手でわたしの手を握り、わたしに諭すように言った。「風間、風間」と何度も自分の息子の名前を呼んだ。けれどわたしはおばあちゃんと喜びを重ね合わせることができなかった。本当はこうした時は、おばあちゃんのように喜ぶべきであると思った。けれどわたしは自分の親に対する感情を持てていなかった。わたしの中が欠けていたのは、自分の親がいなかったからでなかった。親子の満たされた関係を羨ましく思うけれど、生温いツタに絡まれるだけでは満ち足りなかった。わたしはそれ以上に何か求めることを望んでいた。閉鎖された空間を脱出したかった。そのことを感情が潰された今になって気づいた。けれどもう遅く、お父さんが失敗をしたとわかった瞬間、わたしはもう日常しか送れないことを確信した。

「本当に長かった。これでやっとお前もわたしも、幸せな家庭になれる」

 おばあちゃんはわたしに、そして何より自分に言い聞かせるように言った。




 七月二十日、おばあちゃんは久しぶりに外出した。わたしも一緒だった。杖で不安定に歩くのをわたしは注意して、おばあちゃんを支えていた。まだ夜とも言える早朝、おばあちゃんは無理をして起床した。かつてわたしが、マダイを受験に行く時に見送った、都会のごみが集められるエリアへ向かうためだった。

 道筋は、かつてわたしが一年生の時、通学路として通っていた道を通った。埋め立て作業がもう完了していて、その地面の上に機械が走るこことがなくなっていた。今の早朝でなくても、そこは静かなところになっていた。本来埋め立て地なら作業が完了したらごみ山置き場になるはずなのに、周りにはごみ山がひとつもなかった。がれきの山も、都会から来た新しいごみも何もそこには置かれていなかった。ただそこは黄色の大地が広がり、空虚な静けさだけが漂っていた。わたしはもうごみ山に導かれることもなく、変わりばえのない道を歩いた。迫り上がる不穏な気配にも気づかないフリをして歩いた。わたしと手を繋がれたおばあちゃんはとても穏やかな表情だった。けれど手を引くわたしは一人だけのように感じていて、ひたすらに変わり果てた荒野を進んだ。

 わたしたちが着いた頃には、もう大人たちが集まっていて、都会のトラックたちがごみを全て出し切るのを待っていた。わたしが前に見た時よりも、明らかにトラックの数が減っていて、出されていくごみは寂れた音を立てていた。大人たちは誰も話すらしようとせず、ずっとごみから目を逸らしていた。けれど大人たちは確実にごみの寂れた音が聞こえていて、意識していないわけがなかった。わたしは大人たちの様子を体の中から感じていた。やがて短い作業が終わる頃になり、最後のトラックがやってきた。大人の一人が最後であることをみんなに告げていた。トラックの作業から目を逸らしていた大人たちは、最後のトラックだけはじっと見ていた。走ってきたトラックはエリアの中央で止まり、扉が開いた。中から一人、男性が出てきた。男性は遠くからでも疲れたような表情をしているのがわかり、ぼんやりとした眼差しをしていた。村の大人たちと何ら変わりばえがなかった。隣にいたおばあちゃんは男性に、鈍い足を懸命に動かして近づいていった。男性もおばあちゃんに気づいて近づいた。けれどわたしは行かず、その場に一人立ち止まっていた。

「風間……」

 おばあちゃんが男性に声を掛けた時、わたしはトラックから吐き出されるごみを大人たちと同じように見ていた。


初めからテンションminimumで書いた。当時のことはよく覚えていない。

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