(9)狂気
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ありがとうございます。
いつもより短めです。
「……ただいま」
その懐かしい声を聴いた瞬間、涙が出そうだった。
私は立ち上がり、玄関へ向かう。
「――!」
いた。そこに彼が、いた。
まったく変わらない彼の姿。それが何だか恋しくて切なかった。
「お、おかえりなさい」
緊張して声が裏返ってしまった。
何を話せばいいのか分からない。息が弾む。
――お、おかしい。今までこんなことなかったはずなのに。
「っ!」
いきなり真之さんに抱きしめられた。久しぶりの彼の感触に息をのむ。
彼の顔を見ると、やはりいつもどおりの無表情だった。本当に何一つ変わらない。
出会った時から今までずっと無表情だったから見慣れているはずなのに、今はすごく不安で苦しい。
――私は真之さんが帰ってきて嬉しい。
だけど真之さんは帰ってきたくなかったとしたら?
仕方なく、帰ってきただけだったら?
携帯にあった一通の着信を思い出す。
あれは何を言おうとしたんだろう。
嫌なことばかり考えてしまう。それは駄目だってわかっているだけど。
私は唇を噛んだ。
――彼が言う前に私から言わないと。
決めたんだ、彼がいない間に。
だから――。
「あ、の……真之さん! 話があるんですけど」
+++
真之さんはソファーに座る。私も向かい側にあるソファーに座った。
目を閉じ、軽く息を整える。
「真之さん」
「……」
――真之さん。
私はあなたのことが好きです。
「私はもうこの生活を続ける気はありません」
「……」
――だけどあなたには本命の人がいるんでしょう?
私は身代わりにすぎないんでしょう?
私は真之さんをまっすぐ見つめて、言い放つ。
「だから婚約破棄しましょう」
「……」
――だから無理なんです。
一緒にいることも、帰ってくるのかも分からないあなたを待っていることも。
この話し合いの中で真之さんの本心を聞きたいと思った。それなのに、真之さんは沈黙を保ったままだった。
私はそれに耐え切れず、俯く。
だから気づかなかったのだ。
彼がいつもと違う様子だったことに。
+++
お互いに黙ったままだった。時計の針を刻む音がやけに大きく聞こえた。
私は唾を飲み込む。そして顔を上げ、真之さんを見る。
真之さんはいつの間にか足を組んでいた。そして、手を顔に当てていて、表情は見えない。
こんな状況でもその姿がかっこいいと思ってしまう私は重症なんだろうか。
――まあ、恋は盲目とも言うよね。
ずっと黙っていた真之さんが舌打ちをし、立ち上がった。
「うわっ!」
急に視界が回った。ソファーに座っていたはずなのに、今は背中にソファーの柔らかさを感じている。さっきまで見えなかった天井が見えている。……つまり、私は彼に押し倒された。
――え、なんで!?
困惑している私を気にもせず、真之さんは私の上に覆いかぶさり、馬乗りになる。
「ちょっと! 真之さん、離して!」
足を動かして抵抗するが、まったく動かない。まあ、私と真之さんの体格差はあまりに違いすぎるので当然だけど。
真之さんの両手が私の頬に触れる。ひんやりとしているけど、ほんのり温かい。
彼の手がゆっくりと下に下がっていく。
唇や顎、輪郭を一つ一つなぞるように触れる。
私は動けなかった。いや、動けなかった。動いてしまったら駄目だと思ったんだ。
「……」
真之さんの指が喉をかすめた。
私を見つめる彼は相変わらずの無表情だけど、なぜか彼の眼は痛々しく見えた。
真之さんの手が首元までに辿りつき、それから少し戻って首の辺りで止まった。そして、大きな掌で包む込むように添える。
彼はどんな気持ちで私を見ているのだろう。
不意にずっと疑問に思っていたことが頭に浮かぶ。
――どうしてあなたは私と婚約したの?
「――て」
ずっと無言だった真之さんが口を開いた。集中しないと聞こえないほどの小さい声。
「……どうして」
真之さんが眉を顰めた。
「どうして……雪乃も、――」
最後の言葉は、つぶやきに近かったのでよく聞こえなかった。おそらく私に向けたものではないのだろう。たぶん、他の誰かか……もしくは自分自身に。
彼の指に僅かに力が込められる。
「真之さん?」
その時に彼の瞳が私を捉えた。そして目が合う。
真っ黒な瞳だった。その中に秘められているのは、激しく暗い感情。
彼の中に眠る狂気を感じて、底知れない恐怖を感じた。初めて見る真之さんの姿に戦慄きがとまらない。鳥肌が立つ。彼が彼ではないような……そんな気がした。
指が首を掴む。
そして、ゆっくりと確実に力が込められて――。
次回はまた真之視点です。