(6)思いの行方
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たくさんの方々に目を通していただき、嬉しい限りです。
空を仰ぎ見ると、ポツポツと雨が降り始めていた。朝と比べると気温が下がっていて、すこし肌寒い。
――本降りになる前に早く帰らないと。
鞄の中から折り畳み傘を出し、広げる。桜色の無地のこの傘は私のお気に入りだ。
「遠野?」
唐突に声をかけられて、振り向いた。
「柴崎。今、帰りなの?」
「ああ。遠野もか」
「うん」
そこにいたのは、私の同僚でもある柴崎卓だった。
がっしりとした体格で外見が厳ついので、近寄りがたい雰囲気がある。だけど、本当の彼は人見知りで小心者なのだ。私も最初は怖かったけれど、徐々に彼の意外な内面が分かってきた。
「あー、駅まで一緒にいいか?」
「うん、いいよ」
私と柴崎は並んで駅へと向かって歩き出した。
+++
しばらく柴崎と他愛ない話をしていたら、急に彼が黙り込んだ。
雨の滴が地面に当たる音が耳元に大きく聞こえた。さらに雨が強くなったらしい。
――今日の夜はどしゃぶりになりそう。
居心地の悪い沈黙が張りつめているうちに、駅に着いてしまった。
私の家と彼の家の最寄駅は反対方向だから、必然的にここで別れることになる。
じゃあね――と言おうとした私を遮って、意を決したように彼が口を開いた。
「あー、遠野ってさ。婚約して幸せ?」
「え……?」
「あー、えーっとこれは……」
柴崎は目をそらした。これは小心者の彼が言いたいことを言い出せないときの癖だ。
「うん、まあね」
彼は私が婚約した事実しか知らない。相手とかも教えていない。ただの同期に余計なことを言うのが嫌だった。だから、適当にお茶を濁す。
「……そうか。いや、ちょっと気になっただけだから気にするな。忘れてくれ」
彼の顔が傘で隠れて、どんな表情をしているか分からなかった。
「じゃあな、遠野」
「うん、じゃあね」
そして私は彼と別れた。
電車に揺られている間、彼が言いかけたことを考えてみたけれど分からなかった。
ただ彼の言った言葉が胸の中で木霊していた。
+++
鍵を開け、部屋の中に入った。
玄関で溜息をついてから、靴を脱いだ。そのままリビングに向かい、灯りを点ける。
誰もいない変わらない部屋。
「………………」
携帯を確認して、脱衣所に向かう。
雨の音に紛れて落雷の音が聞こえてきて、思わず服を持つ手が震えた。
シャワーの栓を捻り、温水を頭から被る。火照っていた熱や汗が音と共に流れていって、気持ちいい。
頭を冷やして、考える。彼――真之さんのことを。
『結婚してくれないか』
彼が初めて私に向けて言った言葉。
馬鹿だね、私。その時点で逃げてでも断っていれば、こうなることはなかったのに。でも私は受け入れた。
『迎えに来た。待ってる』
たったこれだけの素っ気ないメール。
だけど、彼らしいと思ってしまった。
『――乃、雪乃』
深いバリトンで囁かれた、私の名前。
名前を呼ばれると、私の存在が認められているって思えるの。身体を求められると、私の存在が必要なんだって思えるの。
『………………雪乃』
いつもと違う、ドスの利いたような声。
彼の中にある得体のしれない恐怖が込みあがってきて、怖かった。そして私は拒絶した。
もうあれから連絡がない。
身勝手な話だ。私は身代わりのくせに、形だけのくせに。彼を縛る権利なんてない。彼が女性のところに行くことや彼が帰ってこなくなることくらい私の思惑通りだ。理解しているし、分かっていた。
それなのに。
どうしてこんなにもつらくて虚しいなんて。
――いや、違う。
辛いとか虚しいとかじゃない。もっと具体的に。知らない場所に一人取り残されたような。胸の中にある埋めることができない隙間のような。絶望? 虚無感? 焦燥感? ――違う、違う違うんだ。そんな安い薄っぺらな言葉で表せない。悲しい? 似てるけど全然違う。
私は顔を上げ、鏡の中の自分の胸元を見つめた。まだうっすらと残るキスマークを指で一つずつなぞる。
『婚約して幸せ?』
視界が霞んできた。これはきっとシャワーの水が目に入ったせいだろう。
「……し、あわせなんかじゃ」
――本当に?
鏡の中の自分が嗤っているような気がした。
――じゃあ、真之さんの傍が嫌だった?
嫌じゃなかった。苦痛だったときはたくさんあった。だけど形だけでも私を必要としてくれて少なからず――嬉しいと思った自分がいるんだ。金とか地位とかそんな単純な物じゃなくて、彼の鉄仮面とか直球の言葉とか素っ気ないメールとか呆れるほどの執着とか――同棲しているうちに分かってきた内面に惹かれていった。
どうなってでもいいから、傍にいたいと思った。
でも今、彼はここにいない。
その事実があまりにも胸に深く突き刺さる。
悲しさを絞り出したように、涙をぐっと堪えるように、苦しくて苦してつらくてつらくてたまらない。
つらくて、虚しくて、苦しくて、悲しくて、
――寂しい。
あなたがいなくて、
――寂しい。
一人ぼっちで、
――寂しい。
あなたのことを思っているのに伝わらなくて、
――切ない。
寂しくて切ない。
あなたがいないだけで、私は弱くなった。
「……あははっ」
やっと気づいたよ。やっぱり私には無理なんだ、このごっご遊びを続けるのは。
だって気づいてしまったんだ。
私は、あなたのことが、彼のことが、真之さんのことが、
――好き。
もしかしたら最初から気づいていたのかもしれない。だけど分からないふりをして、蓋をして鍵を掛けた。彼の言葉をほしがったのも好きだったから。彼に必要以上優しく抱かれるのが嫌だったのは、好きだからこそ勘違いしそうになるから。
自覚をしたら気持ちが一気に溢れ出てきた。
――真之さん。私はあなたのことが好きなんです。だけど、あなたには本命の女性がいるんでしょう?
ついに零れ落ちてきた涙を誤魔化すようにシャワーの水量を増やした。
そして声を押し殺して泣いた。
+++
ちゃんと真之さんに伝えよう。
――「……×××××××××」って。
そう思いながら、私は瞼を閉じて睡魔に身をゆだねた。
遠くで携帯の音が鳴ったような気がした。
今までの中で一番大苦戦した6話です。
次回からは真之視点にする予定です。
誤字・脱字・表現がおかしい等がありましたら、すみませんがご指摘お願いします。