推し変はしない!…はずだった
録音を止めた途端、玲奈は机に突っ伏した。
「学校の名前、長くない?」
「毎日通ってるだろ」
「通うのと三回続けて言うのは別!」
原稿の端からこちらを見上げるのは、アイドルの玲奈だ。駅前の広告でも、動画のおすすめ欄でも見る。そこでの彼女は、たいてい今より姿勢がいい。
まともに話すのは今日が初めてだった。収録前に自己紹介をすると、同学年だと知った玲奈から「敬語なしにしよう」と言われた。おかげでこちらも普通に話せているが、まだ少し変な感じがする。
放送室に現れたときの彼女は、背筋を伸ばしてマイクの前に座っていた。ところが芸能発表会の告知を二度噛んだあたりで、原稿に向かって文句を言い始めた。
俺は三度目の録音を保存し、ヘッドホンを外す。
「今のは大丈夫。最後まで読めてた」
「直人くん、褒め方が小学生相手なんだけど」
「学校名に負けてたから」
「さっきまでね。今は勝ったからね」
玲奈は起き上がって原稿をそろえた。肩より下まで伸びた髪が制服の胸元を滑る。俺が録音を頭から再生すると、彼女は黙って耳を傾け、途中で一度だけ指を立てた。
「そこ、聞き取れる? 開演時間」
「聞き取れるけど、少し早いかな」
「じゃあその一文だけ、もう一回お願い」
今度は噛まなかった。数字のところだけわずかにゆっくり読む。その数秒を差し替えると、いつどこへ行けばいいのかが前より耳に残った。
「うん、これがいい。ありがと!」
俺は音声制作が好きで、こういう校内行事の録音や編集をときどき引き受けている。出演者の告知収録をするのもその一つで、当日は音響の補助に入る予定だ。
芸能活動をしている生徒が学校にいること自体は珍しくない。それでも、普段は画面の向こうにいる人が二メートル先で自分の声にうなずいていると、椅子をどこへ向けておけばいいのか少し迷う。
正面は落ち着かない。かといってパソコンばかり見ているのも失礼なので、俺は机の角を向いていた。
「直人くんって、こういうの全部できるの?」
「全部は無理。今日も先輩に設定してもらったし」
「でも今の、つないだところ分かんなかった」
「そこは頑張った」
何度か聴き直した箇所だったので、つい返事に力が入った。
玲奈はもう一度スピーカーを見てから、俺のほうへ椅子を寄せる。
「じゃあ本番もよろしく。私の音源、来週持ってくるから」
「ダンスだったよな」
「そう。一人で一曲。見たことある?」
「動画なら」
「お、どれ?」
俺が夏のライブ映像のタイトルを言うと、玲奈は嬉しそうに指を鳴らしかけた。音は出なかったが、そのまま何もなかったことにしたので俺も触れない。
「あれ、最後の曲がすごく楽しかったんだよね」
「分かる。間奏で澄花が少し後ろに下がって、次の歌い出しで前へ出るところとか」
「……うん?」
「そこまで声を抑えてるから、最後に高い音へ行ったときの広がりが違うんだよ。配信のほうだと表情も見えて。二日目は一日目とちょっと違っててさ」
澄花はそのライブにも出演していたアイドルで、俺は彼女の歌が好きだった。まだ語れるのだが、玲奈の指が今度こそ鳴った。
俺の目の前で。
「戻ってきて」
「ごめん」
「目の前にもいたよね? そのライブに出てた人」
「玲奈も見てた」
「じゃあ私の話、してみようか」
急に面接になった。
もちろん姿は覚えている。明るい色の衣装で、端から端までよく動いていた。ただ、今の勢いで語れるかといわれると困る。正直に考え込んだ俺を見て、玲奈は机に片肘をついた。
「なるほど。澄花推し」
「はい」
「私の収録、ずいぶん落ち着いてると思った」
「落ち着いてはない。最初、録音ボタン押す前に話し始めてもらいそうになった」
「え、そうだったの?」
「自分で気づいたから無効」
隠しておけばよかった。玲奈の口元が、ゆっくり持ち上がる。
「そっか。緊張はしてたんだ」
「そりゃするだろ」
「ふうん」
嫌な間だった。本人は非常に楽しそうだが、こっちは発言を取り消したい。
玲奈は原稿を鞄にしまい、壁に貼ってある発表会のポスターへ目を向けた。再来週の土曜日。日付を確かめるように眺めてから、俺に向き直る。
「決めた。本番までに推し変させる」
「ずいぶん短期の計画だな」
「二週間あるよ?」
「二週間で変わると思われてるのが心外なんだけど」
「今の食いつき、ちょっとむかつく」
そう言いながら玲奈は笑っていた。俺もつられて笑う。思っていたよりずっと話しやすい。こちらが一言返すと、必ずもう一つ返ってくる。
「当日の音響、直人くんなんでしょ。ちゃんと見ててよ」
「音はちゃんと出す」
「そこはお願いします。そのうえで、見て」
「分かった。楽しみにしてる」
言うと、玲奈はわずかに顎を上げた。
「その返事、覚えたから」
放送室を出る前に、彼女は使った椅子を元の場所へ戻した。廊下から呼ぶ声に応え、また明るい声で挨拶をしていく。
閉まった扉を見てから、俺は録音の保存先を確かめた。
推し変はしない。たぶん。
ただ、来週持ってくるという曲は少し気になった。
*
「これ、知ってる?」
翌週の火曜日、玲奈が差し出したのは古いCDだった。
透明なケースの角に擦り傷があり、歌詞カードの背は少し色あせている。表紙には青い空と、片方だけ脱げた赤いスニーカー。タイトルは『遠回りの土曜日』。
「知らない。家にあったやつ?」
「お母さんの。小さい頃、掃除するときに流してたの」
「掃除の曲で踊るのか」
「私にとっては踊る曲! そのせいで掃除が進まなかっただけ」
練習室の隅で音源を読み込みながら、俺はケースを裏返した。発売年を見ると、確かに俺たちが生まれるより前の曲だった。
今日確認するのは、本番で使う音源と踊り始めるタイミングだ。玲奈は体育着に着替え、髪を高い位置で結んでいた。窓際に置いたタオルも、靴紐を確かめる仕草も、放送室で見た彼女とは少し印象が違う。
「最初から最後まででいい?」
「うん。まず見てほしい」
再生すると、明るい鍵盤の音に続いて低いベースが入ってきた。思ったより軽快だ。玲奈は少し膝を曲げ、俺が曲の速さをつかむ前に肩でリズムを取り始める。
出だしは小さな動きだった。
爪先で床を滑り、身体の向きが変わる。それだけなのに次の動きが気になる。窓から差す日が髪の先を透かし、振り向くたびに明るい線を引いた。
俺は画面の再生位置と玲奈を交互に見ていたが、途中から目を戻すのを忘れていた。
歌が一度途切れる。楽器の音もすっと引いて、ほんのわずかに静かになる。
その直前、玲奈が笑った。
何かいいものが来るのを知っている顔だった。こちらまで待つ気になったところで音が弾け、玲奈の足が大きく踏み出す。結んだ髪が跳ねた。
曲の終わりが近づくと彼女は真正面へ戻り、俺を見た。
目が合う。
偶然だと思っていたら、そのまま視線を外さずに最後の一歩を踏み、口元をほどいた。さっきより静かな、こちらの返事を待つような笑顔だった。
音楽が終わったあとも、俺はすぐには口を開けなかった。
「……直人くん?」
「うん」
「終わったよ」
「分かってる」
「じゃあ、どうだった?」
玲奈が近づいてくる。俺は画面へ目を落としたが、終わった再生時間を見ても何の助けにもならない。
「最後、ちょっとびっくりした」
「どうびっくりした?」
「分かってて聞いてるだろ」
「感想はちゃんと聞かないと」
息を弾ませながら、玲奈は満足そうに笑った。こっちは座って見ていただけなのに、なぜか水を飲みたい。
「ちゃんと効くんだね」
「効くって言うな」
「だってさっき、何も言わなくなった」
「言うこと考えてたんだよ」
それも本当だ。ただし最後の数秒は、かなり何も考えていなかった。
玲奈は窓際へ戻って水を飲む。俺も鞄からペットボトルを取り出し、ようやく呼吸の具合が普通になった。
「途中もよかった。音が一回なくなるところ」
「二番の前?」
「そこ。音が入る前に、すごく楽しそうな顔してた」
玲奈がボトルを口元から離す。
「私、笑ってた?」
「うん」
「そこ、表情まで決めてなかったんだけど」
「そうなのか。次に何するんだろって思った」
彼女は鏡に顔を向けた。それから俺を見て、もう一度鏡を見る。
「……最後より?」
「最後は最後でよかったけど」
「けど?」
「比較するものなのか、これ」
玲奈はボトルの蓋を閉め、タオルで額を押さえた。耳の近くまで丁寧に拭いているので、その間、俺は曲の長さをメモしていた。
「もう一回やる。今のところから流して」
「はい」
二番の少し前へ戻して再生する。
玲奈はすぐに動き出したが、静かになる直前にこちらを見た。俺も見ていたので目が合い、その瞬間に彼女の足が止まる。
「待って、なし!」
俺は停止を押した。
「どうした?」
「直人くん、見すぎ」
「見てほしいって言われて来たんだけど」
「そうなんだけど。そうなんだけどね!」
玲奈は片手で顔をあおいだ。窓は開いている。春の風がカーテンを膨らませて、彼女の背中でゆっくりしぼんだ。
俺は笑いそうになったが、笑ったら怒られそうなのでCDのケースへ視線を落とす。
「最初からにする?」
「……うん。そっちで」
最初から通すと、今度は止まらなかった。
俺もわざとらしく顔だけを見るのはやめて、足の動きや曲全体を追った。踊っているうちに玲奈の表情がほどけていく。やっぱり、あの箇所では楽しそうだった。
今度は最後にちゃんと拍手をした。
「曲、長く感じた?」
玲奈は水を飲んでから尋ねた。先ほどのからかう調子とは違うので、俺も少し考える。
「最初の歌が始まるまでは、ちょっと。途中からは気にならなかった」
「そっか。やっぱり初めてだとそうなんだ」
「俺が知らない曲だからかもしれないけど」
「本番も知らない人のほうが多いと思う。ありがとう」
玲奈はCDを手に取り、表紙を親指でなぞった。
「短い版もあるんだよね。別のCDに入ってるやつ。うちにあったはずなんだけど、見つからなくて」
「駅の北口の店なら、古いの結構あるぞ」
「行くの?」
「たまに」
「じゃあ案内して。今日、時間ある?」
このあと特に予定はなかった。そう答えると、玲奈はさっさとタオルを鞄へ押し込んだ。
「十分待ってて。着替えてくる」
出ていく直前に振り返り、彼女は人差し指を立てる。
「最後のところ、効いたのは覚えてるからね」
「そっちだけ覚えてるの、ずるくないか」
返事の代わりに、扉の向こうから笑い声がした。
*
北口の中古CD店は、細い階段を上った二階にある。
入口で帽子をかぶり直した玲奈は、扉を開けるなり小さく息を漏らした。壁際までぎっしり並んだ棚と、天井から下がる年代別の札。その間を二歩進んでから、俺を振り返る。
「これ、全部見てたら帰れなくない?」
「分かってくれて嬉しい」
「そういうつもりで言ったんじゃないんだけど」
奥から店員さんが顔を出したので、目当ての曲を伝える。手元の端末を調べた店員さんは、残念そうに首を振った。
短い版の入ったCDは在庫がなかった。
「そっか。ありがとうございます」
玲奈は頭を下げ、俺と一緒に棚の前へ戻った。
「空振りだったな」
「ね。でもせっかくだし、少し見ていい?」
「もちろん」
俺は少し、という言葉を信じていた。
最初に玲奈が選んだのは、澄花の好きなアーティストのアルバムだった。こちらをちらりと見てから、さりげない調子でケースを引き抜く。
「これ、直人くんも好きそう」
「持ってる。三曲目がいい」
「あ、やっぱり?」
「玲奈も聴くのか」
「うん。昨日ちょっと」
本人が言ってから、しまったという顔をした。
昨日ちょっと。
俺が何か言う前に、玲奈は裏面へ視線を移した。
「昨日たまたま聴いたの。別に予習とかじゃなくて」
「まだ何も聞いてない」
「聞きそうな顔してた」
「そんなに顔に出る?」
「出る。今ちょっと嬉しそう」
否定しようとして、やめた。音楽を勧められるのは普通に嬉しいし、俺の好みを考えて選んでくれたのならなおさらだ。
「嬉しいよ。その三曲目、聴いてくれた?」
「……聴いた。私は五曲目のほうが好きだったけど」
「あれもいいな。後半で雰囲気変わるやつ」
玲奈は何か言いかけて、ケースを俺に渡した。
「そう。そこから踊りたくなるの」
その話をしているうちに、別のアーティストの名前が出た。玲奈が昔見たCMで使われていたらしいが、曲名が分からないという。
「覚えてるのは、こんなところ」
棚の陰で彼女が小さく口ずさむ。聞き覚えがあったので、俺はすぐにタイトルを答えた。
「え、早い!」
「イントロで分かる」
「今の歌ったの、サビだよ」
「知ってる。イントロでも分かるって意味」
玲奈は目を細めた。余計なことを言った気がする。
「そんなに得意なんだ」
「そこそこ」
「じゃあ次」
二問目は知らなかった。玲奈が少しずつ続きを歌ってくれるのだが、一向に分からない。
「ヒント。駅」
「駅?」
「ほぼ毎日聴くよ」
そこまで言われて、ようやく分かった。学校の最寄り駅で電車が発車するときの音だ。曲名を答える競技だと思い込んでいた俺に、玲奈は両手で小さく丸を作ってみせた。
「正解。ヒント二個だから半分の点」
「急に採点基準ができた」
「イントロで分かる人には厳しめです」
ここで黙って負けを認めればよかったのだと思う。
俺は隣の棚から一枚抜き取り、ジャケットを身体で隠した。
「じゃあ俺からも」
この曲は出だしが特徴的だが、最近のものではない。動画で使われている部分とも違う。俺は周囲に人がいないのを確認して、ごく小さな声で最初の旋律を口ずさんだ。
四音で当てられた。
「なんで分かった?」
「レッスンで使ったから」
「ああ……」
「歌い方、合ってたよ」
気遣いがつらい。
玲奈は俺が隠していたCDを横からのぞき、得意そうに口元を上げた。その顔を見ていたら、もう一枚探したくなった。
「次、ちょっと待って」
「まだあるんだ」
「ある。今思い出してる」
隣へ移り、その次の棚へ移る。玲奈もついてきて、俺より先にケースを抜くようになった。
そのうち曲を当てる勝負は、何を知っていて何を知らないか確かめる話に変わった。俺が当然知っていると思っていた曲を玲奈は知らず、玲奈が子どもの頃に踊ったという曲は俺には分からない。
二人とも知っている曲のはずが、俺が歌うと玲奈が首を傾げたこともあった。
「待って。直人くんのそれ、何の歌?」
「え、これじゃない?」
「違う。たぶん、それ洗剤のCM」
俺はケースを棚へ戻した。
戻してから、玲奈の肩が揺れているのに気づいた。
「今のは忘れてくれ」
「あんな自信満々だったのに」
「似てたんだよ」
「分かる。すごく汚れが落ちそうだった」
玲奈が帽子のつばで顔を隠すので、俺まで笑ってしまった。店内で声を抑えなければならないことが、余計におかしかった。
窓の外の看板が点灯していた。時計を見ると、入店してから四十分以上たっている。
「悪い。引っ張り回した」
「え、もう帰る?」
玲奈は途中まで抜いていたケースを持ったまま言った。
「用事は済んでるだろ」
「これだけ聴きたい。さっき直人くんが言ってたやつ」
店員さんに頼めば試聴できる。俺がそう伝えると、玲奈はレジへ向かった。戻ってきてから、壁際の試聴機の前へ俺を手招きする。
ヘッドホンは一つしかなかった。
「先に聴いて。俺、知ってるから」
玲奈は耳に当てて再生した。しばらく目を伏せ、それから俺に向かって指を二本立てる。二曲目という意味かと思って再生画面を指すと、違うと首を振った。
ヘッドホンの片耳をずらす。
「二回目。今、二回目聴いてる」
「そんなに気に入った?」
「うん。もうちょっと待って」
ヘッドホンを戻すと、また俺の存在を忘れたように曲へ集中した。
勧めた曲を聴いてもらうのは、こんなに落ち着かないものだっただろうか。俺は隣の棚を眺めるふりをしながら、玲奈がどこで顔を上げるか気にしていた。
やがて彼女がヘッドホンを外す。
「真ん中でギターの音が増えるところ、好き」
「そこ、実は最初から小さく入ってるんだ。左のほうで」
「そうなの?」
「最後に同じ音が戻ってくるから、そこも聴くと面白い。この人、他の曲でもそういうのやってて」
続けかけて、口を閉じた。
玲奈が俺を見ている。
「……長いな。ごめん」
「まだ途中じゃない?」
「話し始めると長くなる」
「じゃあ歩きながら聞く。これ買ってくるね」
玲奈はケースを持ってレジへ戻った。
俺も買おうと思っていた一枚を手に取る。そのとき初めて、目当てのCDが見つからなかったことを思い出した。
店を出ると風が少し冷たかった。玲奈は紙袋を両手で持ち、俺の隣で続きを待っている。
「で、他の曲でも何するの?」
「本当に聞くのか」
「自分で気になるところで止めたんでしょ」
駅までの道で、俺は話の続きをした。
玲奈は分からないところでは聞き返し、分かったところでは曲の一節を小さく歌った。専門的なことを説明するつもりが、いつの間にかどちらの曲の終わり方が好きかという話になる。
信号待ちで話が途切れると、玲奈が向こうの通りを指した。
「この先にオムライスのお店あるよね。行ったことある?」
「ある。駅の反対側に出たところだろ」
「そこ! これ食べてみたいんだよね」
差し出されたスマホには、卵の上にソースがたっぷりかかった写真が映っていた。横に添えられたスプーンが小さく見える。
「結構でかいぞ、それ」
「大盛りでもいける気がする」
「俺は普通で十分だった」
「じゃあ、お腹すかせて行かなきゃ」
青になったので歩き出す。玲奈は写真を閉じる前に、もう一度だけのぞき込んでいた。
改札の手前で彼女が立ち止まった。
「次の練習、木曜で大丈夫?」
「うん。放課後」
「じゃあそのとき。……あ、最後に一問」
「まだやる?」
玲奈が短い旋律を口ずさむ。聞き覚えはあったが、俺が答えるより早く、改札の奥から同じメロディーが流れてきた。
「二回目!」
「駅に来ると有利になるの、ずるいだろ」
「ちゃんと復習しておいてね」
彼女は改札を通り、数歩先で振り返った。紙袋を軽く持ち上げる。
「おすすめ、ありがと。帰ったら最後まで聴く」
俺も手を上げた。
別のホームへ向かう途中、玲奈から短いメッセージが届いた。
『今日の勝負、私の勝ちでいいよね?』
音源の連絡用に交換した連絡先へ、用事と関係ない返事を送るのは初めてだった。
『次は駅以外で』
すぐに、笑っている猫のスタンプが返ってきた。
*
木曜日も、その次の月曜日も、玲奈は練習室で踊った。
俺が付き合うのは音を確認する時間だけだ。それでも音源を流す前や片づけの途中に、話すことが増えていった。
例のアルバムは、帰宅してから二周聴いたらしい。好きな曲の順位が変わったと報告され、俺も『遠回りの土曜日』を通学中に聴くようになった。踊りがなくても、あの静かになるところだけは玲奈の顔が浮かんだ。
本番二日前、俺は二種類の音源を持って練習室へ行った。
「短い版、できた?」
「試しに。つなぎ方はこれでいいか分からないから、踊って確かめて」
別バージョンのCDは結局見つからなかった。そこで玲奈と相談し、元の音源の導入を一部短くしたものを作ってみたのだ。
歌が入るまでの時間は減った。その代わり、玲奈がゆっくり身体の向きを変えていく部分がなくなっている。
再生すると、彼女は新しい長さに合わせて動いた。一度止め、位置を確かめ、もう一度。三回目には最後まで通った。
「どう?」
俺が尋ねると、玲奈は鏡を見たまま足の位置を直した。
「入りやすくはなったと思う」
「うん」
「最初に待たせなくて済むし」
そこで言葉が止まる。
俺は元の音源が入っているフォルダを開いた。
「比べる?」
「……お願い。最初のほう、もう一回」
聞き慣れた鍵盤の音が鳴った。
玲奈はすぐに踊り始めなかった。片足で拍子を取り、顎をわずかに上げる。音が増えたところで肩が揺れ、足が動く。さっき削った箇所に入ると、そのまま身体が半回転した。
窓の外で運動部の掛け声がした。遠くの笛の音が混じっても、玲奈の動きはぶれない。
歌が始まったところで彼女は止まった。
「こっちが好き」
俺が停止を押す前に、玲奈ははっきり言った。
「ここから踊るのが好きだったんだよね。短くすると、もう急いで次へ行かなきゃってなる」
「じゃあ戻すか」
「いいの? 作ってもらったのに」
「比べるために作ったんだし。それに短くするの、意外と面白かった」
「面白かったんだ」
「一回、歌い出しが変なところにつながった」
「それも聴きたい」
「消した。あれは人に聞かせちゃいけない」
玲奈は残念そうに唇をとがらせ、それから床の線へ視線を落とした。
「でも、初めて聴く人には長いんだよね」
「今日はそう思わなかった。俺はもう曲を知ってるから、そのせいもあると思うけど」
「うん」
「前より、次に何するか見たくなった」
玲奈がこちらを見る。
俺はうまい言い方を探したが、具体的に説明できるほどダンスには詳しくない。
「最初、こっち向いてなかっただろ。いつ振り返るのかなって。だから待ってる感じはしなかった」
「そっか」
彼女は出だしの位置へ戻り、今の動きを小さく試した。正面を向いたところで両手を軽く打つ。
「直人くん、ちょっとお客さんになって」
「ずっとお客さんに近かったけど」
「今度は参加するお客さん」
曲を流す。玲奈がこちらへ手を向けたので、俺も手拍子をしてみた。
一回目からずれた。
玲奈の口元が動く。耐えているのが分かるので、俺は先に言った。
「今のは急だった」
「うん。急だったね」
「笑ってるだろ」
「ちょっとだけ」
次は玲奈が自分で二回叩いてから、こちらへ手を差し出した。今度は合う。玲奈はそのまま踊り、俺は手拍子を続けた。
途中で彼女が両手を下ろしたので俺も止めたが、どうやらそこは続けてよかったらしい。曲が止まる前に、二人とも笑ってしまった。
「ごめん、私の出し方が分かりにくかった」
「いや、俺も自信がなさすぎた」
「助かる。分かってる人だと合わせてくれちゃうから」
言いながら玲奈は手帳に短く書き込んだ。次は動きを少し変え、手拍子が続いていても自然につながるように試す。
曲の終わりまで手拍子を続けられると、玲奈は嬉しそうに両手を上げた。
「できた!」
「褒め方、小学生相手じゃないか?」
「さっきまで負けてたから」
放送室で俺が言ったことを、きっちり返される。
「よく覚えてるな」
「覚えてるよ。結構いろいろ」
玲奈は何でもないように言って、タオルを取りにいった。
俺は曲を最初へ戻した。顔を上げたら何か聞かれそうだったので、ファイル名を本番用に直すことにした。
最後に通して踊った玲奈は、終わると深く息を吐いた。少し休んでから自分で床を拭き、俺はケーブルを片づける。窓の外はまだ明るかったが、体育館からの声は減っていた。
「じゃあ次、いつもの――」
玲奈が言いかけ、鞄に手帳をしまう手を止めた。
「あ、もう本番か」
「そうだな。明日は全体の確認だけ」
「そっか」
俺はケーブルを巻き終えた。いつもなら次の集合時間を決めるところだった。
玲奈が窓を閉める。鍵の金具が、思ったより大きく鳴った。
「直人くんも当日、忙しいよね」
「まあ、担当の時間は」
「だよね。音、よろしく」
「うん」
話が終わってしまった。
別に同じ学校なのだから、二度と会えないわけじゃない。連絡先も知っている。けれど、音源に問題がなくなった今、何を送ればいいのかはすぐに思いつかなかった。
玲奈は鞄を肩へ掛けて、部屋を見回した。
「忘れ物ない?」
「たぶん」
「たぶんはだめでしょ」
いつもの調子で言ってから、俺が確認するのを扉のところで待った。
俺は机の上と椅子の下を見た。何もない。持ってきたものは全部鞄へ入っている。
それでもすぐに部屋を出る気になれず、スピーカーの電源をもう一度確かめた。
*
土曜日の講堂は、いつもよりずっと人が多かった。
生徒と保護者が入り交じり、入口ではプログラムが配られている。舞台袖の人影が動くたびに、客席のあちこちから手が上がった。
俺は音響席で進行表に目を落としていた。先輩がマイクを担当し、俺が受け持つのは出演者の音源再生だ。並んだファイル名を指で追い、曲の終わりと次の紹介の間も確かめる。
「直人、これ終わったら休憩入っていいぞ」
「分かりました」
先輩が示したのは玲奈の次の演目だった。
喉は渇いているのに、水筒へ手を伸ばすたび進行表の何かが気になった。朝からほとんど飲めていない。
開演十五分前、後ろから肩を軽く叩かれた。
「おはよう」
振り返ると、玲奈が立っていた。
白い上着に鮮やかな青のスカート。足元は練習で履いていたものと同じスニーカーだった。髪はいつもより高く結ばれ、その根元に細いリボンが揺れている。
俺は挨拶を返そうとして、一瞬遅れた。
「……おはよう」
「今の、練習室で見た反応」
「もう覚えなくていい」
玲奈は楽しそうに笑い、先輩にも挨拶をした。今日使う音源を確認してから、俺の手元に視線を戻す。
「準備、大丈夫そう?」
「大丈夫。今、四回目の確認が終わった」
「そんなに?」
「念のため」
玲奈は進行表をのぞき込み、それから、俺が握っていたペンを見た。指先に力が入っていたので持ち直す。
「直人くん」
「何?」
「私より緊張してない?」
「そんなことは」
「じゃあ、この前のやろう」
玲奈は胸の前で小さく二度、手を叩いた。
俺も同じ間隔で机の端を指で叩く。
「はい、できた」
「これ、本番前に出演者を励ます側がやるやつじゃないのか」
「できたんだからいいでしょ」
そう言われると返せない。先輩が横で笑っていた。
玲奈が壁の時計を見る。戻る時間らしい。
「じゃあ、あとで」
「うん。楽しんで」
彼女は一歩離れてから振り向いた。
「直人くんもね」
青いスカートが通路の角へ消えた。俺はようやく水筒の蓋を開け、二口飲んでから進行表を置き直す。
先輩が机を指で軽く叩いた。
「次のファイル、出しとくか」
「はい」
開演すると、考えていたほど余裕はなかった。
紹介が終わるのを待ち、袖の合図を受け、再生する。音量を確認しながら、曲が終わる位置へ目を配る。演目ごとに曲調も長さも違うので、間違えないよう進行表へ印をつけていった。
拍手が起きるたび、肩の力が少し抜ける。そのあとすぐ、次の準備が始まる。
玲奈の名前が呼ばれたのは、客席の空気が十分温まった頃だった。
前のほうで声が上がり、何人かが背筋を伸ばす。通路際の生徒も舞台へ顔を向けた。
玲奈は中央へ出ると、客席全体を一度見渡した。
「こんにちは。今日は、私が小さい頃から好きだった曲で踊ります」
マイクを通った声は、練習室で聞く声より少し遠い。
「知ってる方は、たぶん私の母と話が合います。知らない方も、一緒に楽しんでもらえたら嬉しいです」
客席から小さな笑いが起こった。玲奈は顔をほころばせ、マイクを返して位置につく。
袖から合図が出た。
俺は再生を押す。
鍵盤の明るい音が講堂へ広がった。練習室のスピーカーよりずっと厚みがあり、客席の話し声を静かに覆っていく。
玲奈はまだ大きく動かない。
片足に体重を乗せ、肩で拍子を取る。少し顔を上げて、それから正面を向いた。練習で何度も見た仕草なのに、今日は一つひとつが遠くまで届く。
玲奈の手が二度鳴った。
前の列から手拍子が返る。
彼女はその人たちへ笑いかけ、今度は反対側にも手を向けた。小さな音が増えていく。中央の席、その後ろ、通路の向こう。全員が同じように応じたわけではない。それでも、さっきまでプログラムを見ていた人が顔を上げるのが分かった。
玲奈は待たせなかった。
手拍子を受けたまま身体をひねり、横へ大きく踏み出す。続けて足を交差させ、舞台の端へ軽やかに移っていった。スカートの裾が遅れて広がる間に、顔はもう客席へ戻っている。
上手だということは知っていた。練習で何度も感心したけれど、こんな顔は知らなかった。
客席の反応を見つけるたびに、玲奈の表情が変わる。前の列へ笑い、奥へ視線を飛ばし、次に戻ってきたときにはもっと楽しそうになっている。
再生画面を確かめる。問題ない。音量も安定している。
舞台へ視線を戻すと、ちょうど好きな箇所が近づいていた。
玲奈が動きを小さくしていく。それまで客席へ広く向けていた手を胸元へ引き、片方の踵を上げた。
音が引くと、客席の手拍子もまばらになって静まった。玲奈は止まっている。その上げた踵が床を蹴る瞬間を待っていると、彼女の口元が上がった。
来る。
音が弾けた瞬間、玲奈が踏み出した。
結んだ髪と青い裾が同時に跳ね、客席から声が上がる。前の列で両手を上げた生徒へ、玲奈が笑い返した。そのまま回り、すぐに反対側へ向かう。
俺は机の上で握っていた手をほどいた。もう一度見たい。練習のときみたいに、あの箇所からもう一度。
けれど曲は進んでいく。玲奈は一度も俺のためには止まらない。
やがて最後の旋律に入った。終わると知っているせいで、残りの動きが妙に速く感じられた。
正面へ戻り、最後の一歩を踏む。
玲奈の笑顔が客席へ向いた。
音が消えたあとも、彼女はすぐには動かなかった。ほんの少しその姿を残してから、深く頭を下げる。
拍手が広がった。
俺は再生が終わっているのを確かめ、次のファイルを選んだ。それから舞台へ向き直って手を叩く。
玲奈が顔を上げた。礼を言い、もう一度笑い、袖へ戻っていく。
通路側に座っていた人が、隣の人へ何か話していた。二人でプログラムを開き、玲奈の名前を指で追っている。
俺はそれを見て、なぜか嬉しくなった。
次の紹介が始まったので、前へ向き直る。
進行表へ印をつけようとして、ペンがないことに気づいた。さっき自分で机の端へ置いていた。手を伸ばしながら、声を出さずに笑った。
これは、感想が少し長くなる。
*
終演後、講堂の前はなかなか静かにならなかった。
出演者を待つ人と、先に帰る人と、写真を撮る人が行き交っている。片づけを終えた俺は、廊下の自動販売機でお茶を買った。
冷たいボトルを手に持ってから、スマホを取り出す。
玲奈との画面には、今朝送られてきた音符のスタンプが残っていた。昨日は本番の音源についてやり取りした。その前は、俺が勧めたアルバムの話。
よかった、と打つ。
それだけでは足りない気がして、その後ろへ今日の舞台、と足す。文の順番がおかしくなったので一度消した。
何をやっているんだ、俺は。
練習室では普通に言えていたことなのに、画面の中へ収めようとすると急に難しくなる。
「お待たせ」
顔を上げると、廊下の向こうから玲奈が歩いてきた。
制服に戻り、髪のリボンも外している。大きな鞄を肩へ掛け、片手には花が数本入った小さな袋を持っていた。
「ごめん。挨拶してたら遅くなっちゃった」
「いや、俺もちょうど終わったところ」
「よかった。もう帰ったかと思った」
待ち合わせはしていなかった。
そう言いかけて、やめた。俺も何となくこの廊下を離れずにいたので、人のことは言えない。
「お疲れ。音、大丈夫だった?」
「ばっちり。ありがとう」
玲奈は花の袋を持ち直した。俺の手元に目を留め、スマホの画面へ顎を向ける。
「誰かに連絡してた?」
「玲奈に送ろうとしてた」
「え、何て?」
「うまく書けなくて消した」
「じゃあ直接聞く」
玲奈は壁際へ一歩寄った。通りかかった生徒に手を振り、相手が通り過ぎるとまた俺を見る。
あの笑顔だった。練習室で最後の一歩を踏んだあと、こちらの反応を待っていた顔。
「で、どうでした? 推し変した?」
「推しは変わらない」
「早い!」
「でも、今日の――」
玲奈の顔を見ると、言おうとしていたことが次々に出てきた。
「最初の手拍子、すごくよかった。前だけじゃなくて、真ん中くらいまでやってたの分かった?」
「うん。見えた」
「通路側の人も顔を上げてたよ。最初はプログラム読んでたのに」
玲奈が少し口を開けたまま俺を見ている。俺は構わず続けた。
「それで、音がなくなるところ。練習でも見てたけど、今日のは全然違った。動く前から、みんなそっち見てるのが分かって。次の一歩、俺も待ってた」
「……うん」
「あそこ、客席から声が出ただろ。何か、すごく嬉しかった。別に俺が踊ったわけじゃないんだけど」
玲奈が笑った。
からかう感じではなかったので、俺はようやく少し落ち着いた。
「あと、終わるの早かった」
「曲は同じ長さだよ」
「分かってる。もう一回見たかったってこと」
そこまで言ってから、自分の声が廊下で少し響いていることに気づいた。近くにいた人がこちらへ顔を向けたので、俺はお茶のボトルへ目を落とす。
「……ごめん。長くなった」
玲奈はすぐには返事をしなかった。
花の袋の持ち手を片方の指からもう片方へ移す。その間、俺は蓋も開けていないお茶を持ち直した。
「直人くんって、好きなものの話だと止まらなくなるよね」
顔を上げる。
玲奈は俺をまっすぐ見ていた。
「最初、澄花の話してたときもそうだった」
「……そうだな」
「今の、私の話だよね」
否定する余地がなかった。
玲奈が一歩近づき、俺の顔をのぞき込む。少しだけ顎を上げたその表情には、放送室で勝負を宣言したときの面影があった。
「そっかあ」
「楽しそうだな」
「楽しいよ」
今度は俺も笑ってしまった。
「今日、ずっと楽しそうだった」
「うん。途中から、もう一曲やりたくなった」
「やればよかったのに」
「進行表あるでしょ。音響の人が困るでしょ」
「ああ。俺が困るな」
玲奈の笑い声が廊下へ広がる。近くの人が振り返り、彼女は軽く頭を下げて少し声を落とした。
「また踊るとき、見に来てよ」
「行く」
今度は考えずに答えられた。
玲奈は口元を結び、一度だけ小さくうなずいた。それから肩の鞄を掛け直す。
「じゃあ、私そろそろ――」
「あのさ」
声が重なった。
玲奈が動きを止める。俺は手元のスマホをポケットへしまった。
次の舞台の日を聞くこともできた。音源が必要ならまた手伝う、と言えば自然だったと思う。
けれど木曜日の練習室を思い出した。忘れ物は何もないのに、机の上を何度も見ていたこと。
「CDの店、また行かない?」
玲奈は少しだけ目を大きくした。
「この前の続き。勝負、負けたままだし」
「駅以外で?」
「駅以外で」
玲奈が下を向く。帽子をかぶっていないので、口元が緩んでいるのは普通に見えた。
「今度は、音源探しじゃないよ?」
「うん」
「発表会の準備も終わったよ」
「知ってる」
俺の返事を聞いてから、彼女は顔を上げた。
「じゃあ、遊びに行くってことでいい?」
廊下の向こうで誰かが俺たちの横を走り抜けた。先生に呼び止められて、すぐに歩く音へ変わる。
その数秒の間に、冗談めかす言い方を考えた。勝負のためだとか、店の在庫を調べたいだけだとか。
どれも違うのでやめた。
「うん。また一緒に行きたい」
玲奈は花の袋を胸元へ寄せた。
「……じゃあ、予定見よう」
鞄からスマホを出しかけて、持っている花が邪魔になったらしい。俺が手を差し出すと、少し迷ってから袋を預けてきた。
「潰さないでね」
「分かってる」
画面を開いた玲奈が俺の隣へ来る。二人で予定を見ながら、空いている日を探した。
「来週はちょっと……あ、再来週の日曜は?」
「空いてる。午後?」
「うん。午前中はレッスンあるから、一時半くらいなら」
「じゃあ一時半に、店の下」
「待って。お昼は?」
「食べてから行くつもりだった」
「私、たぶん食べる時間ない。先に何か食べてもいい?」
「それなら俺もまだ食べないで行く」
玲奈が予定を入力する指を止めた。
「ほんと?」
「うん。駅の反対側に、前に言ってた店もあるし」
「行きたい!」
返事が思ったより大きかった。
玲奈は自分でも気づいたらしく、すぐに声を落とす。
「……そこ、行ってみたかったから」
「覚えてる。オムライスの写真見せてきたやつだろ」
「そう。あれ」
「本当に大盛り頼む?」
「当日の私に聞いて」
「分かった」
日付が決まると、玲奈は入力した予定をこちらへ向けた。
直人くんとごはん、CD。
短い文字列なのに、俺は必要以上にじっくり読んでしまった。隣で玲奈が画面を引っ込める。
「確認できた?」
「できた」
「じゃあ決まりね」
花を返すと、彼女は袋を片腕に掛けた。
玲奈はスマホの予定をもう一度眺めてから、俺のほうへ顔を上げた。
「推し変はしなくても、次の休みは私と遊ぶんだね」
俺が返事をする前に、玲奈は笑った。
舞台で見た笑顔とも、最後の決め顔とも違う。CD店で勝ったときに少し似ていて、それよりずっと嬉しそうだった。
「楽しみにしてるね」
玲奈は廊下の先で待っていた友人に手を振り、そちらへ歩いていった。一度だけ振り返ったので、俺も手を上げる。
姿が見えなくなってから、スマホの予定を開いた。
再来週の日曜、一時半。
待ち合わせと店の名前を入れ、通知を設定して画面を閉じた。
帰りの電車を調べるつもりで、またスマホを開く。指は時刻表より先に、今入れたばかりの日付を押していた。
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