「本物」の公爵令嬢にすべてお譲りします——身分も婚約者も、破産寸前の責任も
「リーゼロッテ、おまえとの婚約は破棄だ。俺はミーナと婚約を結ぶことになった」
王太子アルフォンス・ローゼンハイム殿下が突然私の執務室に入ってきて、そんなことを言い出した。
は? ミーナ? 誰? 忙しいのに……。
「おまえは公爵令嬢などではないようだ。婚約を結ぶにあたって、念のため、出自を調べたのだがな、どうやらおまえは平民の子どもで、本物の公爵家の娘のミーナと誤って入れ違えられたようなのだ」
「今忙しいので、後にしてもらえますか?」
現王家の浪費により、王家の財政は壊滅的状況だった。そこに目をつけたゲオルク・ヴァルデン公爵が王家への財政的な支援を行い、その見返りとして娘のリーゼロッテと王太子アルフォンスの婚約を取り付けた。もちろん王家の権力を狙ったものであった。
ところが、公爵家の王家への援助も莫大な金額になり、もはや破産寸前で、金策に加え、起死回生の公爵家の事業拡大を、リーゼロッテが担っていたのだった。
その計画の立案で頭を悩ませていたところに、アルフォンス殿下がやってきたのだ。
「もう、それはおまえの仕事ではないと言っておるのだ」
え?
私は顔を上げた。
「もうやらなくていいのですか?」
「そうだ。おまえができるような仕事程度、ミーナでもできる」
「ミーナというのはどなたですか?」
「平民……として生きてきた公爵令嬢だ」
「事業や商売の経験はございますか?」
「花売りをしていた。そこをたまたま俺が見つけてな。一目惚れというやつだ。いや、これこそ真実の愛だと確信している」
「真実の愛だとかはいいのですが、花売りですか……売り上げや採算の状況はいかがでしたか?」
「そんなもの知るか。重要なのはそこではない」
「いえ、そこが重要なのです。王家や公爵家の事業を任せるに足りるかどうか……」
「うるさい! おまえごときがやっている仕事ならできると言っているだろうが。ただの平民がごちゃごちゃと」
アルフォンス殿下が苛立つように私の話を遮り、怒鳴った。
「平民? 私がですか?」
「俺の話を聞いていなかったのか?」
そこに父ゲオルク公爵と、一人の小柄な女性が執務室に入ってきた。
その女性は私とは違い、柔らかく、可愛らしい印象の女性だった。
父がその女性を示し、口を開いた。
「リーゼロッテ、悪いがおまえは公爵家の娘ではないことがわかった。このミーナの出生証明書を確認し、当時おまえを取り上げた産婆の証言を取ったところ、おまえの出生時に、どうもミーナの親がおまえとミーナを入れ替えたようなのだ」
アルフォンス殿下の先ほどの話と、父の話を聞き、私はすぐに結論に至った。それは、アルフォンス殿下がミーナと結ばれたいとわがままを言い出し、王家との血縁関係を意地でも作りたい父が、架空の証拠を捏造したということだ。
そんな都合よく、突然私が平民の子と入れ違えられていたことになるなんて不自然すぎる。
とはいえ、私にも利益がありそうな話だ。乗ってあげてもいい。
「わかりました」
「そうか、わかってくれたか」
アルフォンス殿下が少し安堵したように言った。
「ただし、いくつか条件があります」
私がそう言うと、殿下は少し警戒の色を見せる。
「まず、今後、公爵家の事業運営や王家の財政には、私は一切責任を持つ必要はないとお約束ください」
再びアルフォンス殿下は安堵の表情を見せた。
「そんなことか。公爵家の者でない者が、責任を持つ必要があるわけがなかろう。むしろもう手を出すなよ」
「ありがとうございます。では文面にして署名もお願いします」
「好きにしろ」
それを聞いて、思わず私は笑みを浮かべた。
この地獄のような日々から救われる! 稼いでも稼いでも王家への支援と、彼らの浪費に消えていくことに、正直辟易していたところだ。
しかし、もう少しだけ欲張らせてもらおう。この地獄の日々を耐えた褒賞を少しでももらっておきたい。
「その上で、少なくとも平民として、不当に公爵家で労務にあたった分の対価はいただかなければ。手切れ金ということでも構いませんが」
私はそう願い出た。
「そんな金は公爵家にはもう……」
父が却下しかけようとするのを、アルフォンス殿下が遮る。
「公爵家は金はいくらでも生み出せると言っていたではないか。それくらい払ってやれ」
「しかし……」
「いいから払ってやれ。せっかくリーゼロッテが、俺とミーナの結婚を祝ってくれると言っているのだ」
そこまでは言っていないが……。
「ありがとうございます。では喜んで婚約破棄をお受けします。公爵家も出ていきます。業務の引き継ぎはどういたしましょう」
私が引き継ぎを提案すると、アルフォンス殿下が鼻で笑った。
「公爵の令嬢ごときができていたことなどたかがしれている。それくらいできるであろう、ミーナ」
殿下がミーナに尋ねる。ミーナ様ですね、失礼。
「はい、読み書きも、計算もできます」
ミーナが答えた。希望に満ちた目だ。そこまで言うならできるのであろう。
「これまで私の代わりにありがとうございました。平民なのにこれまで公爵令嬢の務めを果たすのは大変だっただろうと思います。これからは本物の私がしっかり務め上げますので、ご安心ください」
ミーナが私にそう告げた。
すでにすっかり公爵令嬢になっているらしい。その大きな可愛らしい目で、平民を嘲り、見下すことも覚えているようだ。
「そういうことだ。ご苦労だった。金を持って出ていくがいい」
それがアルフォンス殿下が言い捨てた、最後の言葉だった。
※
公爵家の務めから解放され、身軽になった私がまず向かった先は商人ギルドだった。
公爵令嬢の時から、金策や事業の相談、交渉と何度も訪れているので、顔見知りも多い。
「リーゼロッテ様、また借金ですか? それともやっと金を返す気になりましたか?」
商人ギルドの受付の男が声をかけてきた。
「もう私は公爵家の人間ではありませんので、借金の取り立ても公爵家に直接行っていただかないと」
「何ですと? リーゼロッテ様、あなたがいなくなって、公爵家が立ち行くわけがないでしょう? それに、これまで返済交渉はあなたがされていたではないですか?」
「だからもう私は関係ないですから。私はもう平民ですので、『様』もつけないでください。そうね、これから私のことは『リーゼ』と呼んでくださる?」
「はあ……。では、リーゼさん。本日はどういったご要件で?」
「リーゼ商会を立ち上げるわ。その登録に来たの」
受付の男が驚いた顔をした。
「登録はいいのですが……。商会を運営したご経験などないでしょう?」
「商会主としての経験はないですが、事業運営や交渉の経験があるのはご存知でしょう? それに事業の計画もあります。ですから、この商人ギルドを通して、それを実行するための共同経営者を探したいのです」
私は手に持っていた事業計画概要書を差し出す。
公爵家の事業のために作ったものを、新しい商会向けに改良した計画の概要書だ。
受付の男がそれを手に取って読むが、何か難しい顔をする。
「あのリーゼロッテ様が、商会を始めるだって? 面白そうですね。私にも見せてもらえますか?」
近くで話を聞いていた別の男が興味を持ったようで、そう尋ねてくるので、私は頷いた。
男が概要書を開き、目を通す。その男には見覚えがあった。王都でも有力な商人だったはずだ。
私は少し緊張してその男の様子を見ていると、男は突然笑い始めた。
「これはちょっと夢想が過ぎるんじゃないですかね」
私はその言葉にむっとした。
男は近くにいた他の商人にも読ませるが、その商人も同じように笑った。
その後も、その概要書に目を通した商人たちは笑ったり、あるいは興味もなさそうに次に回した。
今まで、公爵家では、私の計画を笑う者などいなかった。それは私が公爵令嬢だったからなのだろうか。
「悪くない。いや、なかなか面白い。数字に誤りも見当たらない」
そんなことを言う男が一人だけいた。
年齢は若く見えたが、計画概要書を見る鋭い視線に、商人としての経験と、それに裏付けされた高い知性を感じた。
「しかし、問題点が多過ぎるな」
私はその男に歩み寄る。
「問題点というのは?」
「他国との交易自体は良いのですが……。例えば、この計画で本当に儲けるのは、あなたの商会にならないでしょう」
「どういうことですか?」
「最も儲けるのは、何もしない王家です。他国からの輸入品を王都で捌くつもりでしょうが、王都では恐ろしいほど高額な税を取ります。下手をすれば売れば売るほど損をするでしょう」
税! 今までは王家と公爵家の共同事業として税は免除されていたから計画で考慮することはなかった。けれど、平民の商会となったこれからは、しっかりと計画に組み入れなければならないのだ。
「他にも何かありますか?」
「そうですね。王国に交易品を輸入した後に帰りの船に王国の陶器を積むことになっているようですが……」
「はい、王国の名産品ですし、他国でも売れると思います」
「陶器は海上輸送に向きません。船で運んでいる間や、積み下ろしをする間に、多くが割れてしまう可能性があるでしょう。過去に、三割近く割れた事例を知っています。そうなったら大損です」
なるほど。それも実際に経験してみなければわからないことだ……。
「では何を積めばいいとお思いですか?」
「そうですね……。西方領の名産の絹布や、港町で獲れる干し魚などがいいでしょう。絹布は軽い上に高価で売れますし、干し魚は日持ちがします。それに西方の港であれば、辺境伯が交易を奨励していて、税が王都より軽いですからね」
この方は、この短時間で、計画を現実的なものに仕立てようとしている。これが実際に商品や人を動かしてきた者の目なのだろう。
「まだいろいろ考慮すべきことはありますが、その前に……そもそも交易品を仕入れるのに元手はあるのですか?」
今度は、若い男の方から私に尋ねてきた。
「はい、公爵家を出るときにいくらかいただいていますので」
「そうですか。では俺と手を組みませんか? 俺はカイ・ベルクマン。訳あって今は自分の商会も資金も失っているのですが、商人としてそれなりの経験はありますし、西の港の船主や仕入れ先、隣国商人などにも伝手があります。あなたの計画を実行するのにお役に立てると思います。どうやらあなたは数字にも強そうだ。現場を知る俺の経験があれば、きっとうまくいくでしょう」
カイと名乗るこの男は知らなかったが、私の計画の問題点を的確に見抜いていたのは間違いない。
「いいわ。では試しに三か月ほどの共同経営契約を結びましょう。資金は私が出します。ぜひあなたのお知恵をお貸しください」
カイは微笑んだ。
「いいでしょう。三か月後には、契約を延長したいと言わせてみせますよ」
「それは頼もしいわね」
私が右手を差し出すと、カイがその手を握り返した。
今まで公爵家のために数々の契約を結んできたが、これは自分自身のために結ぶ初めての契約なのだ。
私は胸が高鳴るのを抑えられなかった。
※
共同経営者となったカイと私は、さっそく西の港町に向かい、そこを拠点とした。
港町の宿屋で、私とカイは丸一日を費やして、計画を練り直し、やるべきことを整理して、翌日からすぐに必要な手配を始めた。
まず、カイは知り合いの船主と交渉を始めた。
最初は積荷も多くないため少し割高な料金を提示されたのだが、カイは往路だけではなく、復路での積荷も約束するなどいくつか船主に有利な条件をつけると、かなり割安な料金になった。
次に絹の卸し業者には、一定期間の継続購入を約束し、魚の加工業者からは見映えが悪くても味に問題がないものを引き取ることを提案し、こちらも通常より安い仕入れ値を取り付けた。
「最初から大量の継続購入は危険だわ。絹の入荷量は予定より減らしましょう」
私はそうカイに提案した。
「危険回避は商売でも重要です。そうしましょう」
カイは私の意見にも耳を傾けた。もちろん納得のいく理由があれば、ではあったけれど。
さらには、港に来ていた隣国商人に、隣国での商品の販売を引き受けてもらい、商品の港までの運搬、船への積み込みまでの調整を行い、最初の交易の手筈が整った。
一方で私は、カイの仕入れ値や諸経費と税率をもとに、高すぎず、利益が十分出る売値を計算し、支払いの手配を行った。
いよいよだ。
公爵家でも王家のためでもなく、私自身のための初めての交易だ。成功も失敗も私自身に返ってくる。
そう思うと何だかとても興奮する。
出航した船は一か月後に港に戻って来た。戻って来た船には輸入した香辛料などに加え、絹と干し魚の売却代金の入った貨幣袋が積まれていた。
最初に予想したよりも利益が二割も上回った。嬉しいことではあるが、誤差の原因は分析しなければならない。
二回目の交易では契約船が二隻に増え、三回目には隣国商人が取引量を増やしたいとの要請を受けて三隻に増やした。経験を重ねるごとに、私の利益予測の精度も少しずつ上がっていく。
そして、三回目の船が戻って来た頃には、商会を立ち上げて三か月が経とうとしていた。
「カイ」
三回目の交易の利益を計算し終えて、私はカイに声をかけた。
「何ですか?」
「あなたがいなくなるなんて考えられないわ」
「何の話ですか、突然?」
カイがかすかに顔を赤らめる。
「契約を延長したいわ」
カイが一瞬固まり、次の瞬間には納得したように口を開いた。
「ああ、そうでしたね。別の契約かと思いました」
「別の契約って?」
「いえ、何でもないです」
変なの、と思いながら、話を続ける。
「あなたの能力を認めるわ。契約は無期限に延長して、利益の配分も見直しましょう。これからもっと事業を拡大するわよ」
それから、すべてがうまくいったわけではない。
例えば、他の商会も香辛料輸入を始めて市場に商品があふれて価格が暴落して大損をするなど、失敗も何度かすることになった。しかし、その度にカイと原因を分析して、次の成功につなげると大きな達成感があった。
公爵家で必死に穴を埋めることに頭を悩ませていた頃とは違う。今は自分の未来のために、カイと一緒に考え、事業を広げていくことが楽しくて仕方がなかった。
※
そうして一年も経つと、リーゼ商会は港の交易を主導するような立場になっていた。
それまで隣国のような遠方との交易に積極的に投資していなかった商人たちも、リーゼ商会の成功を目の当たりにし、追随しようと試みたが、すでに多くの船や仕入れ先がリーゼ商会と長期の継続契約を結んでいたため、出遅れた商人たちが同じように利益を得ることは難しかった。
それも私とカイの戦略上の成功だった。
リーゼ商会の成功の噂は、王都にまで届いていた。
そんなある日、王宮からの使者が私のもとにやって来た。
「火急の用により、直ちに王都へ帰還せよ」
それが伝言の内容だった。
公爵家とも王家とも、もう完全に縁は切れていたはずなので、「火急の用」と言われても、何の用事なのかさっぱり見当がつかなかった。
「次の積荷の手配もほとんど終わっているし、少しくらい王都に戻ってもいいんじゃないですか」
カイはそう言って、王都行きを勧める。
けれど、それよりも事業に集中したいのが本音ではあった。
「王都には商人ギルドもあるし、新しい事業を何か思いつくかもしれないですよ」
そう言われると、王都に行きたいという気持ちが急速に高まった。
隣国との貿易が軌道に乗り、事業を始めた頃には想像もしなかったほどの利益が出るようにはなったが、そろそろ今の貿易だけでは、頭打ちになるのでは、という予感もあった。
「行きましょう。カイも一緒にね」
急に態度を変えた私に、カイが笑顔を見せる。
「初めて会った頃のような顔になりましたね」
「そうかしら。私としてはとても成長したつもりなんですけれどね。ジーク、あなたもお願いね」
私が声をかけたもう一人は、リーゼ商会の護衛兵長のジーク・ヴォルフだ。商会も大きくなって来ると、護衛も必要だということで雇った剣士だった。
もとは王国騎士団に所属しており、剣の腕は王国随一とうたわれていたが、俸給の未払いが続くようになり、やむなく傭兵として働いていたところを、私たちが雇ったのだ。俸給は高いが、その実力と信頼には代えられない。
「……王都周辺は野盗が増えている」
「そうなの? 王国騎士団は何をしているの?」
「対処できるほど、王都の兵は残っていない」
ジークは口数が少なく、自分が必要と思ったこと以外は口にしない。たぶんついて来てくれるということなのだろうと解釈した。
そうして私たちは、一年以上離れていた王都に戻ることになった。
ジークが言ったとおり、王都に近づくに連れて野盗が増え、襲撃を受けた回数も、一度や二度ではなかったが、ジークたち護衛たちは実力者揃いだったので、危なげなく撃退してくれた。
しかし、以前なら、王都へ続く街道でこんなに野盗に襲われることなどなかった。
そして私たちは、一年前とすっかり様子が変わってしまった王都に到着した。
門を守る衛兵の数も、明らかに半数以下に減っていた。
※
「リーゼロッテ、久しぶりだな」
その名前に違和感を覚えた。私はもう公爵令嬢リーゼロッテではなく、平民の商人リーゼとして生きていたので、自分の名前のように思えなかった。
「ご無沙汰しております。アルフォンス殿下」
腐っても相手は王太子だ。最低限の礼を欠かすことはない。商人としての交渉でも基本だ。
「ずいぶん儲けているそうではないか」
アルフォンス殿下がにやりとする。
……王太子とはこんなにも品のない笑い方をするものだっただろうか。
「お噂はお伺いしているわ。平民なのに、大したものね」
殿下の隣には、王太子妃となったミーナがおり、殿下と同じように笑みを浮かべた。
公爵令嬢となったわりに、少しやつれているようにも見えた。
「それで、どういったご用件でしょうか?」
王都には来たものの、とても新しい事業ができるような環境であるように思えず、私は早く帰りたかった。
「何、簡単なことだ。おまえの商会の売り上げを王家に回すのだ」
「は?」
思わず礼を失した声が出てしまった。
でも、私は今、何を言われたの?
「おまえは王家を支援している公爵家の娘なのだ。稼いだ金で、王家を支援するのが当然だろう?」
いえ、本当に何を言っているのかわからない。
「お言葉ですが、殿下。一年前、私は公爵家の娘ではないと仰ったのは殿下ですよね? 何を仰られているのかわからないのですが……」
「出自調査には不備があったことにしてやる。公爵令嬢に戻れるのだぞ。よかったではないか」
「けっこうです。私はもうリーゼロッテではありませんので。それに、その方はどうなるのです?」
私はミーナを示して尋ねる。
「ミーナはもう俺と結婚したので、王太子妃だ」
いや、そういうことではない。何で言葉が通じないのだ……。
「公爵家からの支援はどうなっているので? ミーナ様が事業を手伝っていたのでは?」
「私は平民の出自で学もないですし、花売りしかしたことがないですから……難しいことは無理ですわ」
できるって言ってなかったか?
「そういうことだ。ヴァルデン公爵は借金が返済できなくなって、姿をくらましてしまった。知らなかったのか?」
「ええ。私は他人になったのでまったく知りませんでした」
私を捨てた父がどうなったところで、何とも思わなかった。
「まあ、そういうわけだ。ヴァルデン公爵が逃げた以上、おまえが王家を支援する義務を負うのだ」
まさかここまで厚顔無恥だとは思ってもみなかったが、念のため持って来てよかった。
「この文書を忘れたとは言わせませんよ」
私が掲げた文書には、私が王家にも公爵家にも一切責任を負わないことを記した署名付きの文書だった。
「ああ、それか。公爵家としての支援が嫌なのであれば、王国民としての支援でも構わん。好きにするといい」
「では、支援はお断りさせていただきます。それでは……」
「おい、待て!」
去ろうとする私に、アルフォンス殿下がまた怒鳴る。
「王宮を見ただろう? 壁はひび割れ、柱は傷んでいるのに、補修する金もないのだ。それを見ても何も思わんのか」
「まったく何も思いません」
殿下の顔が怒りに歪む。
「貴様、王家を何だと思っているのだ!」
怒鳴る殿下に、私は首を傾げた。何を怒鳴られているのかさっぱりわからない。
「私はただの平民で、王家とはまったく関わりがないので……。やはり何とも思いません」
「おまえを第二妃として迎えてもいい」
殿下がまた品のない笑みを浮かべる。切り札のつもりなのか、勝ち誇った顔だ。
それで交渉のつもりなのかと、呆れてしまった。
一流の商人であれば、相手の欲しがるものを的確に見極めて提示してくるものなのだが。……提示されたものはまったく私の欲しいものではない。むしろ全力でいらない。
私はそれ以上相手にする気にもならず、踵を返して歩き始める。
「待て! どこに行く! 衛兵、その女を捕まえろ」
「リーゼ様が捕まらなければならない理由がどこにあるのですか?」
ジークがアルフォンス殿下を遮る。
「お、おまえ、ジークではないか。リーゼロッテを捕まえろ!」
「私の主人はリーゼ様であって、殿下ではない」
ジークが睨みを効かせると、衛兵たちもたじろいだ。
何より、罪のない商人を、王太子の一存だけで捕らえようとするほど、衛兵たちも王家に忠実ではなくなっているようだった。何しろ彼らも俸給をまともにもらえていないらしい。
「公爵令嬢になって、王太子妃にまでなったのに……。なんで平民のときよりも惨めになるのよ!」
ミーナの叫びが後ろの方で聞こえた。
私たちと入れ違いに、別の商人たちが王宮に入って行く。
「今日こそ借金を返させてやる。返せねえなら、王宮の調度品でも馬車でも何でもいいから差し押さえるぞ。国王だろうが王太子だろうが、金を返さないやつに払う敬意はねえんだ」
ずいぶんと息巻いているようだ。
ミーナもしょうもない男に捕まって不幸になったようだが、自業自得だろう。私の代わりになってくれてありがとう。
王宮を後にしながら、私は一つのことを思いついた。
「カイ」
「何ですか? 新しい事業を思いつきましたか?」
私の脳裏には、道中で見た荒れた村々と、徘徊する野盗、王都に溢れた失業者たちが浮かんでいた。
「あの王家のもとでは、王都に未来はないわ。だから、港の周りで都市を開発して、王都の人々の移住を募集して、産業を起こすの。造船もして、隣国以外にも貿易相手を増やせば、もっと事業を広げられると思わない?」
カイは一瞬驚いた顔をして、笑った。
「港湾都市ですか。これは驚いた」
私はカイに得意げに微笑む。
「でもあなたならできそうだ」
「あなたも一緒にやるのよ。あなたは私にとって、なくてはならない存在なんですから」
すると、カイが顔を少し赤らめる。
「それはどういう……」
「自分で考えて」
私はカイに満面の笑みを向けた。
その後、王都から西に向かう人々が行列をなした。
王都は空き家だらけになり、王宮では雨漏りが止むことはなかったという。
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改めて、ありがとうございました!




