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終章 澪の将棋

 瀬川澪(せがわみお)は、早朝の空気の中で目を覚ました。

部屋の空気は冷たく、襟元を静かに撫でていった。

布団から抜け出し、制服ではなく、深い紺色のワンピースに着替える。初段の免状をもらった時に、母が選んでくれたものだった。今日は、このワンピースを着ていくと決めていた。


 玄関に立つと、祖父が隣に並んだ。今日は、澪の四段入り──プロ入りをかけた対局があった。その激励として、昨日の夜から祖父が泊まりに来ていた。

「澪の将棋を、指してきなさい」

祖父は、ただ一言だけ言った。

「うん」

そう返して、澪は扉を開ける。冷たくなってきた初秋の風が頬を撫でた。しかし、少女の背筋は、すっと伸びていた。


 奨励会館は、ガヤガヤとした空気に包まれていた。史上初の女性棋士誕生の瞬間を見ようと、大勢の野次馬や記者が来ていた。

「澪ちゃん、がんばれー!」

小さな女の子の声が聞こえた。いつの間にか、応援されることも増えた。

 控え室に入った瞬間、皆が視線を向ける。それがどういう意味を持つのか、澪はもう知っていた。けれど、もう動じることはなかった。

今日は、自分のためにここに来た。それだけだった。


 対局の準備が進む中、控え室の隅で、一際目を引く存在があった。──桐谷雅人(きりたにまさと)、既にプロ棋士となった彼が来ていた。

澪が気づいたのと同じ瞬間に、雅人もこちらをみた。

「調子はどうだ」

「まあまあ。...でも、今日は勝つよ」

それだけの短い会話だった。雅人は少し口を開けて、何かを言いかけて、やめた。

そして一歩だけ近づくと、静かな声で言った。

「また指そう」

澪は笑って答える。「うん、また指そう」

二人にはその言葉だけで、お互いを応援しているのが分かった。


 名前を呼ばれた。澪は立ち上がり歩き出す。

対局室の扉を開けた瞬間、空気が変わったのを感じた。温度は同じはずなのに、肺に入る空気が格段に重かった。

人の声はない。時計の針の音だけが耳に届く。

対局者は既に座っていた。その視線が、一瞬だけ澪に向いた。それは無言の好奇であり、敵意であり、そして敬意でもあった。澪は静かな足取りで、盤の前に座った。

 駒箱に手を伸ばす。蓋を開けると、木の香りがふわりと立ち上るのを感じた。あの夏の日、蝉の声が重なる縁側で、祖父に持たせてもらった飛車の香り。あの日の自分が、応援してくれているような気がした。

 目の前の盤に、駒を並び終えた。周囲の全てが、初手を待って沈黙していた。

──この一手が、どんな未来に繋がっているんだろう。

澪が右手を伸ばす。不思議と、駒を押す指先が光っているようだった。


 小さな将棋教室の、午後の対局。

窓の外には白梅が咲き、白い光が部屋に落ちていた。

十歳くらいの少女が、盤の前に座っていた。目の前の駒を見つける視線は真剣そのもので、微かに指先は震えている。

対戦相手の男性講師が、駒を打つ音が静かに響いた。

 対局が終わり、感想戦をしている中で、ふと男性講師が少女に話しかける。

「そう言えば、何で将棋を始めようと思ったの?」

少女は少し考えてから、小さく答えた。

「瀬川澪さんの将棋を見て...」

「瀬川さん?」

「はい。お父さんが昔の、桐谷名人との対局動画を見せてくれて。...なんか、盤の上の空気が全部変わるみたいで、かっこよくて...」

男性講師は、ふっと目を細めた。

「そうか。君の世代でも、知っているんだね」

「勿論です!...ほんとに、レジェンドっていうか...。私も、瀬川さんみたいになりたいって思いました」

しばらく沈黙があった。壁にかけた時計の針が進む音が響いていた。

「じゃあ、大丈夫だね」

「え?」

男性講師は笑って、飛車を手に取った。

「昔、瀬川さんのインタビュー記事で読んだことがある。"飛車が好きです。まっすぐ、どこまでも行ける駒だから”。君は、飛車の使い方が上手い」

その言葉を聞いて、少女は目を輝かせた。

「私も、飛車好きです!一番好きです!」

二人は笑い合った。窓の外では、咲いた白梅が光に揺れていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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