第三章 三段リーグ
最初の一手を指す瞬間、瀬川澪はその張り詰めた空気が好きだった。
駒を掴む音、盤に落とす音。相手の呼吸と、自分の心臓の音だけが、静かに耳に響く。
奨励会の三段リーグ、その初戦を前にしても、澪は落ち着いていた。
澪は祖父の家の縁側を思い出す。蝉の声が重なる中、祖父から将棋を教えられたあの日から、澪のプロ棋士になるという夢は始まった。いよいよ今日、その夢を現実とする試験が始まろうとしている。
初戦は澪の先手で始まった。対戦相手は二十代前半の男性だった。三段にもなると、もう成人を相手にすることの方が多かった。晴彦の顔が一瞬ちらついたが、気にしないことにした。
結果は、澪の勝利だった。やった、と胸の奥が弾んだ。幸先がいい。
軽い足取りで対局室を出て、ロビーで缶ジュースを飲んで休んでいると、こちらに気づいていない数人が話している声が聞こえた。
「瀬川さん、今日の対局も勝ったらしいぜ」
「瀬川さんって、あの”女の子の三段の”?」
「ああ、最近ほんと話題だよな。女の子で三段までになって、しかもめちゃくちゃ強いって」
「女の子なのに」、「女の子で」、「女の子が」──。澪の名前の前には、いつからか必ずその言葉がつくようになっていた。段位を進めるほど、勝てば勝つほど、その「なのに」が濃くなっている気がした。
ある日、取材が入った。
奨励会の中でも特例的に、女性で三段に上がった”異例の存在”として、澪は地方紙に載ることになった。
記者のインタビューが始まった。質問は、学校生活や趣味、休日の過ごし方。澪のプライベートを深掘るような質問が続いた。インタビュー終盤、記者が最後の質問を投げかけた。
「女の子でここまで来るなんて、すごいですね。史上初の女性棋士誕生が期待されていますが、瀬川さんとしてはいかがでしょうか?」
──女の子って言うの、やめてくれますか?
その言葉は喉まで来て、飲み込まれた。
それ以降、注目されるたびに、何かが削れていくような感覚があった。勝ったはずなのに、勝因よりも「女の子の快進撃」としてまとめられる。棋譜の内容は、いつも後ろに追いやられた。
三段リーグの中盤。澪の成績は徐々に下がり始めた。手が重くなっているのを、自分でも感じていた。
終盤に、勝ちを決めるべき手が指せない。迷いが生まれるたび、「負けたら、きっと”やっぱり女の子には無理だった”って言われる」という考えが頭をよぎった。例え勝ったとしても、「女の子なのに、すごい」で終わる。
私は、何のために将棋を指しているのだろう?
ある日、奨励会の職員と手合わせする機会があった。徐々に成績が落ち始めた澪を気遣い、相談がてらに対局をしてくれるという話だった。
盤の向こうの初老の男は、落ち着いた雰囲気で、礼儀正しく挨拶も丁寧だった。
対局は激戦になった。中盤の仕掛けに応じて、澪は攻めの手を連打した。終盤、僅かな見落としを拾い、澪が勝利を手にした。
感想戦の中、ふと、相手が口を開いた。
「君、本当に強いね。正直、驚いたよ」
「...ありがとうございます」
「...たださ、ちょっと聞きたいんだけど。...女流になることは考えたことある?」
澪はすぐに返事ができなかった。
男は、悪意のない顔をしていた。むしろ、親切のつもりで尋ねているようだった。
「ほら、向いてると思うんだよ。ここまで強ければ、すぐに女流でトップにもなれる。やっぱり、プロ棋士ってのは厳しい世界だからさ。無理するより、そっちで活躍した方が...って、余計なお世話だったね」
盤の上には、まだ片付けられていない駒が散っていた。澪はそれを見つめながら、静かに俯いていた。