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第二章 勝利の先には

「瀬川さん、今日の九七角、あれ見えてたの?」

 昼休み、奨励会館のロビー。缶ジュースを飲んでいた澪に、先程まで対戦相手だった男子が声をかけて来た。──坂上聡(さかがみさとし)は、同い年ながら明るく社交的で、ムードメーカーのような存在だった。

「たまたま読みが合っただけだよ」と澪は少し笑いながら答えた。

「いやああそこ指せるのマジすごいって!俺なら多分無理だなあ」

感想戦が終わった後でも、こうして自然に話しかけて来てくれるのが澪は嬉しかった。中学生になっても澪は将棋にかかりきりで、学校にはあまり馴染めていなかった。だが、奨励会の中にこうしてささやかな居場所があれば、あまり気にはならなかった。


 初段に上がったのは、中学三年生の夏頃だった。

「瀬川さん、初段に上がったて?最近無敵になってんじゃん」

道場に入ろうとしてスニーカーを脱ぎかけた足で振り返ると、癖っ毛の前髪を手で押さえた聡と、他数人の男子が立っていた。

「うん。最近たまたま調子良くてね」

そう言って笑ったが、澪は自分でも自身の読みが冴えて来たことに気づいていた。盤上の筋が立体的に浮かぶような感覚、駒が動く先が、意識する前に見えるような──そんな手応えを感じていた。

「たまたまで初段に上がれたら、ほんと怪物だって」

聡が肩をすくめて言い、他の男子たちも釣られて笑っていた。


「...邪魔なんだけど」


 そんな和やかな雰囲気を壊すように、冷たい言葉が聞こえた。

男子たちの陰になって見えていなかったが、背後に雅人が立っていた。最初の対局から何度か雅人とは盤を挟んでいたが、まだ一度も勝てたことはなかった。

「ご、ごめんね」

澪は反射的に謝り、道を譲った。雅人が消えた後、聡が不満げに呟く。

「ちぇ、もう三段だからって偉そうでやんの」

雅人は既に三段に昇段しており、プロ目前と言われる状態だった。

「瀬川さん、あんな奴倒しちゃってよ。今奨励会で二番目の勢いは瀬川さんなんだからさ」

口を尖らせた聡が澪に言った。「ばーか、お前が倒せよ」と後ろの男子が笑いながら聡の頭をこづいた。


 初段昇段後も、澪は勝利を重ねていった。楽な試合は一つも無かったが、相手のぬるい手を見逃さず、なんとか勝利を手にしていた。棋譜を振り返るため付け始めた反省ノートは、もう二十冊以上になっていた。

 二段昇段をかけた対局は、五つ以上歳上の男性だった。宮島晴彦(みやじまはるひこ)、何年も前から奨励会に在籍しているが、中々目が出ず、初段で燻っていた。夢を持って奨励会に入って来た若者たちも、結果が出ず燻り続けることは珍しくなかった。

「お願いします」そう言って始まった対局。結果は、澪の勝利だった。やや変則的な序盤で始まったが、中盤で一気に主導権を握り、相手の巻き返しを許さなかった。

対局後、感想戦をすることもせず、晴彦は足早にその場を去っていった。

去っていく晴彦の背中は、澪に自分の勝利は誰かの敗北と表裏一体であることを、ふと意識させた。

 

 二段になってから数ヶ月が経過していた。対戦相手のレベルはより一層厳しくなり、勝ったり負けたりを繰り返す日々が続いていた。

 ある日、久しぶりに聡と奨励会館でばったりと出会った。

「あ、瀬川さん...」

久しぶりに会った聡は、どことなく元気がなかった。

「聞いたよ、この前、宮島さんと戦ったんだって?」

「うん、強かったよ」

その言葉を聞いて、聡は少し捻くれたように笑った。

「宮島さん、あれで心折れて奨励会辞めちゃったんだぜ」

その言葉を聞いて、澪は心底驚いた。確かにあれ以来晴彦の姿を見かけていなかったが、まさか辞めているとは思わなかった。

「まあ勝負の世界だから仕方ないけどさ、宮島さんにはお世話になってたし、残念だよ」

「...残念だね」

その言葉を聞いて、聡は少し苛立ったようだった。

「女なんだからさ、あんまり強くなられると困るよ。俺たちの席がなくなっちゃうだろ」

冗談半分、本気半分といった口調で、聡が言った。

──奨励会に入った男子にはプロ棋士になる、という選択肢しか残されていない。しかし、その席に座れる者はごく僅かだ。対して、澪には女流棋士になる、という道もあった。

 気にしていないふりをして澪は聡と別れたが、聡の言葉は、靴底に石を挟んだように、歩くたび不快な感触を響かせていた。


 それから数年後、高校二年生になった春、澪は三段昇格を果たした。同じ頃、雅人が四段昇格となった報せを聞いた。

澪のプロ入りをかけた三段リーグが、いよいよ始まろうとしていた。

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