第一章 一瞬の隙
奨励会に入って半年、澪は順調に勝ち進めていた。六級として入ったが、今では四級として戦っている。プロと呼ばれるのは四段以上、ピラミッド型の将棋界を登っていくには、ここからさらに熾烈な戦いが待ち受けることとなる。奨励会に入ることはゴールではなく、本当の戦いのスタートラインに過ぎなかった。
その日も、奨励会の道場は驚くほど静かだった。暖房の効いた部屋の中、盤面に置かれる駒音だけが時間を刻んでいる。誰も声を出さず、咳払い一つ憚られる雰囲気があった。まだ小学生の澪には、少しだけ重たい空気だった。
「瀬川澪さん。桐谷雅人くん」
呼び上げられた名前に、澪は顔を上げた。桐谷雅人── その名前は、聞いたことがあった。奨励会内で注目の逸材。小学生離れした読み筋と、粘り強い終盤力。澪より半年早く入会し、既に連勝記録を更新しているという。
ふと、視線があった。目線の先にいたのは、自分と同じくらいの背丈の少年だった。無口そうで、表情が薄い、細い指でそっと駒袋を持っている。
第一印象は、「静か」だった。だが、その静けさの奥に、何か研ぎ澄まされたものが潜んでいるように感じられた。
── 面白そうだ、と澪は思った。少なからず、彼女には自信があった。鬼門と呼ばれる奨励会に合格し、入ってからも順調に勝ち進んできた。逸材と呼ばれる少年に、勝ってみせる。名のない熱が澪を昂らせた。
対局が始まると、最初は澪が押していた。
角換わりの定石。序盤から積極的に仕掛けていった。雅人は差し手に困っているようにも見えた。
桂馬を跳ね、香を走らせた。読み通り、相手の金が浮いた。
澪は、ほとんど勝ちを確信していた。勝てる。この子に、勝てる。
その瞬間、雅人がふっと駒を打った。歩のたたき。澪の陣を崩す一手だった。
「...!」
反射的に応じるが、手が回らなくなっていくのを感じた。
金が寄せられ、香が引き戻され、守りが崩される。受けきれない。最善手が見つからない。澪は初めて、盤面で進むべき道を見失う感覚に襲われた。
頭の中が霧で覆われていく。── この手筋、見たことがあるはずなのに。胸の奥をツンとつくような焦燥感が、澪をさらに迷わせていった。
気づけば、寄せ切られていた。「負けました」と口から出た言葉は震えていた。
終局後、駒を片付けながら、雅人がポツリと言った。
「...油断するな」
声に責めるような色は無かった。ただ、事実を淡々と述べるような口調だった。
澪は何も言わなかった。何か言いたかったが、うまく言葉が出てこなかった。
勝ちを確信したあの瞬間、手が鈍った。冷静さを欠いたのは自分で、そこを見逃さなかった相手が、ただ強かった。悔しさと、自分への苛立ちが胸をざわつかせた。
澪は立ち去る雅人の背中をそっと見つめた。背は小さく、自分と変わらない。でも、彼の指先には、自分にはない「確かさ」があった。
その日の夜、澪は自室で何度も棋譜を並べ直した。
どこから計算が狂ってしまったのか。読み切れなかった変化を、深く、深く掘っていった。
何度並べても悔しさを感じるが、少し時間が経って冷静になれていた。一瞬の隙をつく鮮やかな逆転劇、澪は初めて対戦相手の手筋を美しいとさえ感じた。
静かに、彼女の中に「越えるべき壁」が立ち上がっていく。── 桐谷雅人。あの子に、勝ちたい。
窓の外は凍てつくような寒さだったが、澪の胸には熱い炎が揺らめき始めていた。