序章 始まりの記憶
将棋の駒に初めて触れたのは、七歳の夏だった。
祖父の家の縁側に置かれていた木の盤の上、祖父の手が動かす駒の音が耳に心地よく響いた。
「これは飛車。まっすぐ、どこまでも行ける駒だ」
そう言われて手渡されたその駒を、瀬川澪は両手で包み込んだ。木の匂いと、わずかに削られた跡の感触。
まっすぐ、どこまでも行ける──少女の心には、その言葉が妙に響いた。
祖父は多くを語らない人だったが、将棋については詳しく教えてくれた、昔はプロを目指すほどの腕前だったらしい。ぬるい空気の縁側で、祖父はまず駒の意味を教えてくれた。「銀は斜めに進めるけど、後ろには下がれない」、「歩はまっすぐ、一歩だけ。だが、それをどう使うかが勝負の分かれ目になる」──真剣に語るその表情を澪はよく覚えていた。
気づけば澪は、学校から終わればまず祖父の家に行って、盤の前に座るようになっていた。友達と遊ぶよりも、テレビを見るよりも、将棋をする方が楽しかった。居れば祖父は相手をしてくれたし、居ない日でも家に置かれていた詰将棋の本を読んでいた。
そんな生活を続け、小学三年生となった秋に、祖父の勧めで地域の小学生大会に出場することになった。
将棋クラブの子供達に混じって、女の子の姿は目立っていた。周りの男の子たちがニタニタと笑いながらこちらを見て話しているのが目に入った。幼心に舐められているな、と感じ腹が立った。
試合開始直前、椅子に座ると審判に「付き添の子かな、ここは出る人が座るんだよ」と言われた。会場には、完全に澪を軽視している雰囲気が漂っていた。
だが、試合が始まると周囲の空気は一変した。
少女の指し手は正確で、迷いが無かった。誰もが知る定石を大切にしながらも、そこには確かに「工夫」が混ざっている。焦らずじっくり守り、攻めるべき時に攻めるまっすぐな将棋。気づけば、相手は崩れ落ちていた。
そして、決勝戦もあっさりと勝ってしまった。
表彰式。賞状を手渡しながら、司会者の男性が笑顔で言った。
「女の子なのにすごいねえ!」
澪は笑顔でそれに応えたが、ほんの少し胸に引っかかるものがあった。
「なのに」ってどういう意味なのだろう。女の子でも男の子でも同じなのに、どうして女の子だとすごいんだろう。
その違和感は小さな棘となって、澪の心に残った。
それから澪はいっそう将棋にのめり込んだ。
クラスの友達とは次第に話が合わなくなり、「澪ちゃんって変わってるよね」と言われることが増えた。でも、澪は気にしなかった。
将棋をすることが、彼女にとって何より楽しかったからだ。盤上に必要なものはただ読みと手だけ、年齢も性別も言葉すら関係のない世界は、次第に孤立していく少女にとって居心地のいいものだった。
ある日祖父の家を家族で訪れた際、澪が祖父と将棋を指そうと盤の前に座ると、背後から母が話しかけてきた。
「澪ちゃん、そんなに将棋が好きなら、女流棋士にでもなってみたら?」
澪はその時初めて、「女流棋士」という言葉を意識した。テレビで見たことがある。華やかな着物を着て将棋をしている女性たちのことだと直感的にわかった。
「女の子には、プロ?にならなくてもそっちの道もあるって、お母さん読んだのよ」
母の声は軽やかで、悪気はなかった。
けれど、澪はその時不思議な違和感を覚えた。──あの時、大会の表彰式で感じたあの感覚と同じだ。
女の子には、女の子の将棋。そう決められてしまうことに、なぜか居心地の悪さを感じた。
「でも...それって、なんで分かれてるの?」
ふと漏れた澪の問いかけに、母は答えに詰まった。代わりに、祖父が口を開いた。
「女流棋士ってのは、制度が別なんだ。プロじゃないとは言わんが、勝っても四段より上に上がれない」
「四段って...?」
「四段からプロ棋士と呼ばれるんだ。日本の将棋連盟が正式な資格として認めとる」
なぜか言いにくそうに祖父は答えた。
「女の子は、女流棋士があるからプロ棋士にはなれないの?」
「いや、プロ棋士には男女関係なくなれる。強いか、強くないか、それだけだ」
祖父の声は静かだった。けれど、その言葉はどこか重たかった。
その日の夜、澪は布団にくるまりながら一人考えた。
将棋が好きだ。強くなりたい。だけど、「女の子だから」という理由で、進む道が分かれるのは、やっぱり納得できなかった。
どうして、勝ったのに「女の子なのに」と言われるのか。どうして、同じように指しているのに、目標が別なのか。
どれだけ考えても答えは出なかった。けれど、一つだけはっきりと思ったことがあった。──私は、「どこまでも行ける」方の道がいい。
五年生となった秋、いつも通り縁側で祖父と将棋を指していると、祖父がポツリと言った。
「奨励会、受けてみるか?」
一瞬、息が止まりそうになった。奨励会。プロ棋士になるための唯一の道、澪が意識していない訳がなかった。ただし、通過率は一、二割と言われる難関だ。
それでも、彼女は首を縦に振った。
「受けたい。今の私でどこまで通じるか、知りたいもん」
一年後の夏、試験の日を迎えた。会場には男の子ばかりだった。皆目つきが鋭く、緊張と興奮が入り混じっているのが感じ取れた。そんな空気の中でも、澪は不思議と落ち着いていた。緊張していないわけではなかったが、自分が今まで指してきた将棋が、自分を支えてくれている気がした。
長い時間、澪は極限の集中力で盤と向き合った。空調は効いているのにじっとりと手に汗が滲むのがわかった。一手一手慎重に、けれど時に大胆に、澪は対局をを進めていった。
結果は、合格だった。名前が呼ばれた瞬間、安堵の感情がどっと押し寄せてきて、自然と涙が溢れた。
「澪、よくやったな」
付き添いで来ていた祖父がぽんっと澪の頭に手を乗せ言葉をかける。澪が見上げると、祖父が笑っているのが見えた。




