聖なる影の顔①
聖省の奥深く、通常は誰の立ち入りも許されぬ“封印の間”。
そこには、灰の聖女の裁判記録の原本、火刑命令書、異端者たちの遺品が保管されている。
その扉の前に、ひとりの人物が立っていた。
彼は静かに鍵を差し込み、重たい鉄の扉を開いた。
蝋燭の灯りが、冷たく黄ばんだ文書の列を照らす。
「アマーリエ・グレイス……やはりお前も、あの夜に何かを見ていたのだろう」
彼は独り言のように呟き、棚の一冊に手を伸ばした。
取り出したのは、封印された聖女の“直筆書簡”。
> 『彼女は、火を見るたび、私を思い出すだろう。
> 私の声は、あの子の中でだけ生き続ける。
> 誰にも止められない。あの子は、真実の継承者――』
クレメンスの目が静かに細まる。
「……やはり、聖女が“最後に語った”のは、アマーリエただ一人。
あの火刑は、見せかけの“終わり”であり、本当の“始まり”だった」
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一方、アマーリエとレオンは、王都郊外の古い教会跡を訪れていた。
そこに、聖女の信奉者たちが密かに集っていたという噂を辿っての調査だった。
教会は廃墟と化し、風が吹くたびに瓦礫が鳴った。
アマーリエは祭壇の跡に膝をつき、かすかな痕跡に指を滑らせた。
赤褐色に染まった石の一角――血ではなく、墨だった。
文字が薄く残っている。
> 『“顔なき神”は我らを見ている。
> 焔の向こうに、嘘を焼く者が現れるだろう。』
「顔なき神……?」
レオンが隣で囁く。
「“顔なき神”ってのは、かつて聖省が異端と断じた信仰の象徴だったな。
神は姿を持たず、人の“仮面”を通じて語る、と言われてた」
アマーリエの心臓が静かに脈打った。
「“顔なき神”は、誰かになりすまして語る……
なら、灰の聖女の意志もまた、“誰か”に宿っているとしたら――」
彼女の言葉に、レオンが静かに言った。
「そいつは“今もこの王国の中にいる”。
そしてお前の目の前に、顔を変えて現れるかもしれない」
その瞬間、教会の奥で何かが“軋んだ”。
ふたりが身構えると、そこには――
顔を布で覆った女が立っていた。
彼女は声を発さず、ただアマーリエを見ていた。
そして、ゆっくりと地面に羊皮紙を置くと、奥の闇へ消えた。
紙には、ただ一言。
> 『“貴女が語れば、真実は生きる。”』
帰路、アマーリエはずっと無言だった。
顔を覆った女、羊皮紙の言葉――“語れば、真実は生きる”。
それは、十年前の聖女の最期の言葉と、どこか響きが重なっていた。
レオンが静かに問いかけた。
「なあ、アマーリエ。“語る”って、あんたが何を話すことだと思う?」
アマーリエは、しばらく瞳を伏せたまま答えなかった。
だがようやく唇を開く。
「私が、あの夜……何を聞いて、何を“言い返せなかった”のか。
それが、まだ私の中で塞がれているの。鍵があるはず――それを探さないと」
レオンは頷きつつも、ふと視線を外した。
「なあ、今さら聞くけどさ。俺が“灰の聖女”の信奉者だったとしても……お前は俺を信じるか?」
アマーリエは、すっと彼を見た。
レオンの横顔は、相変わらず皮肉っぽく、それでもどこか弱さを孕んでいた。
「あなたが誰を信じていたとしても、私は……“今のあなた”を信じてる」
その言葉に、レオンは少しだけ目を細め、そして笑った。
それは、彼にとってほんの少しだけ、過去の鎖を外す言葉だった。
その夜。
アマーリエは王都の自室に戻ると、机の引き出しから古いノートを取り出した。
それは、神殿時代のメモ帳――火刑の夜に書いた“供述の下書き”。
震える手でページを捲ると、そこに走り書きの文字があった。
> 『“彼女は告げた。火は真実を映す鏡だと。
> 焼かれる者ではなく、焚く者こそが、審かれるべきなのだ”』
記憶が、ぶわりと押し寄せた。
――あの夜。
火刑台の下で、アマーリエは聖女と目を合わせ、確かにその言葉を聞いたのだ。
それは神に対する“告発”だった。
そして、それを語ることで、“神を信じていた自分自身”を否定することでもあった。
だから彼女は、語らなかった。
語れなかったのだ。
そして今――“語るとき”が来た。