聖省の影②
禁書庫の扉は厚く、外からも中からも鍵がかけられる仕組みだった。
だが今、その扉には傷一つなく、鍵だけが消えていた。
「誰かが、正式な手段で開けた……内部の者だわ」
アマーリエは低く呟いた。
内部犯――それは聖省の誰かが、十年前の“真実”を闇に葬り、再び火にくべようとしている証でもある。
禁書庫の中は、黴と死者の記憶が渦巻く空間だった。
アマーリエは最奥の棚から一冊の書を取り出した。
“火刑台の供述録 第47巻”――それは灰の聖女が火にかけられる直前、
最後に語った記録を写し取った唯一の文書だった。
ページを捲ると、紙がきしむ。
そこに記されていた言葉は、こうだった。
> 『聖なる者が犯した罪は、神に赦されることなく、
> ただ沈黙の中で、人の手によって裁かれるべし。』
>
> 『裁かれねばならぬのは、私ではない。あなたたちだ。』
レオンが読み上げ、ゆっくりと息を吐いた。
「こりゃ……告発だな。真実が焚かれても、言葉は灰の中に残るってか」
アマーリエは頷き、棚の影に目をやる。
そこに、小さな木箱が置かれていた。手に取ると、かすかに香がする。
開けると、羊皮紙と一枚の小さな肖像画。
その画は、若い男の横顔を描いていた。
あまりに見慣れた顔。整った眉、細い顎――そして、鋭い眼差し。
「……これは、あなた?」
レオンは目を細めて言った。
「覚えがないな。俺は昔のことはあんまり、ね」
だがその手が、わずかに震えていた。
アマーリエは彼を見つめた。
「あなたも、“火刑台の夜”にいたの?」
レオンは黙って、木箱の蓋を閉じた。
「今は話す時じゃない。でも、俺がここにいる理由は――その箱の中にある、ってことだけは間違いない」
聖省本庁舎の最上階、長官ユリウスの私室。
重厚な扉の向こうで、静かに一人の神官が祈っていた。
しかしその祈りは、誰に捧げられるものでもない。
彼の手元には、燃え残った手記の一部――“火刑台の供述録”の原本の切れ端があった。
> 『その者の名はレオン・フェリクス。
> 彼は“告発者”の息子である――』
ユリウスは目を閉じた。
「……愚かな女だ。最後の瞬間に、なぜあの名を遺した」
机の上には、古い誓約書と聖印の押された処刑命令書が並んでいた。
全ては、十年前に一度“封印された真実”。
そして、今またそれがほどけようとしている。
その頃、アマーリエとレオンは地下牢の石段を戻っていた。
無言の時間がしばらく続いたあと、アマーリエがぽつりと話した。
「私……あの夜、火刑台の裏であなたを見た気がするの。子供の姿で」
レオンは足を止めた。
そして、ようやく小さく言った。
「いたよ。俺の母親が……異端として処刑された」
アマーリエは一瞬、息を呑んだ。
「……灰の聖女は、あなたの……?」
レオンは首を振った。
「違う。ただ、母はあの聖女に“言葉を学んだ”と言ってた。神じゃなくて、人間としての“見方”をな。
だから、俺はずっと追ってきたんだ。母が信じたものの先にある“罪”を」
彼の目には、怒りでも憎しみでもなく、燃え尽きない灰のような悲しみがあった。
アマーリエはそっと言った。
「あなたがここにいることは、きっと意味がある。あなたと、私が出会ったことにも」
レオンは小さく笑った。
「意味があるなら、最後までつきあうさ。お前が燃え尽きるまでには、引きずり出してやるよ。“真実”ってやつを」
ふたりの影が重なり、階段の上に差す光の中へと歩いていった。